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富士吉田、音楽、志村正彦

もしも過ぎ去りしあなたに、すべて伝えられたのならば。

かつてフジファブリックというバンドを率いていた男、志村正彦は2009年12月24日に29歳の若さでこの世を去った。今年を境に私は彼の過ごした年月を追い越し、これから永遠に離れていくことになる。大数学者ガロワは20歳、カート・コバーンならびに愚か者クラブの面々は27歳でこの世を去っている。彼らと比べて自分が人生で成したことの少なさを嘆きたいわけではない。しかしなぜか毎年、あと少しで追いついてしまうな、という意識があった。奥田民生に憧れてギターを握ったという彼が書く歌詞は、特段むずかしいことは言わない。他のいわゆるロックンローラー的なことは言わない。ときどきすごく変態っぽいけど、多くの曲の詞はごくごくありふれた感情と場面の描写と言っていい。そしてけっこう情けない。歌だってうまいほうじゃない。そんな彼が作る曲、歌う歌が好きで、いつのまにかもはやただの好きではすまない存在に変わっていった。何がそんなに自分に響くのか、この時期には毎年気になってしまうので、改めて探ってみたくなった。

歌詞を聞いたときに湧き上がる印象とはその人の来歴そのものだと思う。「最後の花火」と聞いてなんとも言えない気持ちになれるのは、それにまつわる経験をしたり見聞きしてきたからだ。志村の歌詞が多方面に刺さるのはそれだけ共有されやすい感覚を拾い上げているからだろう。しかしありふれたリアリティあえて描き出すというのは簡単なことじゃない。路傍の石は誰もがそこにあるのを知っているが、それをおもしろがるのは凡人にできる仕事ではない。情緒とは情の緒(いとぐち)だ。卓抜した感性の持ち主だけが、それを拾い上げ、ユニークかつ他者に理解可能な文脈とかたちにのせて表現することができる。あの歌詞に彼が「若者のすべて」というタイトルをつけたという事実に、私は何度でも震え上がる(同名のテレビドラマが過去に存在していたことを書きながら知った。志村が知っていたか否か、楽曲との関係等は不明)。その他、挙げ始めればキリがないが「Sugar!!」のサビで持ってくる「36度5分の体温」、「TEENAGER」の「朝まで聞くんだAC/DC」、「MUSIC」の「遊び半分で君を通せんぼ」、「サボテンレコード」の「やりかけだったパズルは捨て」るところとか、表現自体の妙というよりも乗せる文脈との組み合わせが独特で、それなのに伝わってくるのが嬉しくて何度でも聴いてしまう。

たいていの人はロックンローラーが歌うようには生きていない。あきらめたりたまに調子乗ったりしながら全体的に情けなく生きている。志村の歌詞は表現が特異なだけでなく、描いていることもまさにそのような、我々の人生的なところがある。伝えられなかったり、忘れていくのがさみしかったり、そうあってほしかった過去を思ったり、自分をつくったなにかが今はないこととか、なかなか変われないこととか、それでもなんやかんや歩いていくしかないかーみたいなこと。私は他にもoasisやthe pillowsが大好きでいずれ彼らについてもこうして書こうと思っているが、ロックンロールを正面から体現するような彼らの曲とは真逆の良さが志村の曲にはある。BUMP OF CHICKENもとてもやさしいロックバンドだけど、志村にはもう少し不器用な優しさを感じる。偉大な詩人であると同時に、偉大な凡人だったのだと思う。だからこそ彼の残した歌は百年後の人々にもきっと響くだろう。その意味で彼も、リアムやノエルのようにlive foreverすることができるはずだ。

もちろん楽曲あっての歌詞である。偉大な凡人と言ったのはあくまでそういう感性も持ち合わせていたというだけで、音楽的には彼は非常にストイックであったらしい。キモい歌詞のキモい曲(褒めてる)から泣きたくなるような歌、突き抜けた疾走感のある曲まで、えらく雑多なジャンルをポップにまとめて残してくれた。早口でいろいろ好きなところを語りたくなるが、中でも抜けて好きなのはいくつかの曲にみられる展開のドラマチックさだ。「陽炎」「赤黄色の金木犀」「ペダル」「サボテンレコード」等々、歌詞も曲もこぞっていますぐ駆け出したい気持ちにさせにくる。

歌詞と曲のほかに、自分の中で志村正彦を特別な存在にしたひとつの映像がある。彼の地元、富士吉田の富士五湖文化センターでのDVD化されているライブ映像で、YouTubeに上がっているものは公式の動画ではなさそうなので直接リンクは貼らないが、「フジファブリック「茜色の夕日」富士五湖文化センター」というタイトルのそれである。演奏前のMCで、志村は次のようなことを語る(語りそのままではない箇所あり)。

プロミュージシャン、アーティストを目指すというのは、のほほんと楽しそうにやっているように見えますけど実はそれだけではなかったりして。喜びを感じるのなんて何かを成し遂げた一瞬だけだったりして。
普通の大人になりたくなかったから始めた音楽があって、でもそれを不安視してる自分がいて。かたやなりたくなかった大人になっていく人たちが妙にすごい幸せそうで、そういう人たちが逆にうらやましかったりしてまた不安になったりして。音楽をやるっていうこの9年間というのは楽しいだけではなかったです。そういう気持ちを全部含めいろんな出会いや別れやいろんな人やものがあって今日の日がある。だから、今日ライブが(小さい頃から夢見ていた憧れの会場で)できて、とりあえずその今までは、そういう自分は報われたかなって思います。

そんなMCのあとに、「この曲を歌うために僕はずっと頑張ってきたような気がします。18歳のときに初めて上京してそのときに作った曲で茜色の夕日という曲をやります」とボロボロの彼が涙を流しながら茜色の夕日を歌う。僕じゃきっとできないな、できないな……。非常に個人的なことだが、彼の言うアーティストの苦労と喜びが自分の職(研究者、天文学者)と重なるところが甚だ大きいと感じている。他の天文学者はもっと楽しく自信を持ってやっているように見えるが、自分は志村のいう不安と苦労が9割みたいな感覚でやっているような気がする。それでもなぜ続けるのかというところにもきっと似た思いを持っていたのかもしれない。そんな一方的な共感が、彼の存在が今も私の心に大きく大きく投影されている理由なのだろう。

12月24日は志村正彦が亡くなった日だ。富士吉田市では今でもこの日をはさんだ数日間、夕方5時のチャイムが「茜色の夕日」に変わる(誕生日の7/10まわりでは「若者のすべて」)。クリスマスを過ぎた26日の昼、現地に聴きにいくことに決め、いそいで下吉田駅を目指した。やりかけだったパズルは捨て、知ってる人がいた街に着くまで。

防災無線のチャイムだけでなく、下吉田駅の電車到着メロディにも「茜色の夕日」「若者のすべて」の原曲が使用されている。これは今年始まった試みらしく、電車内にも駅にもこのキャンペーンを知らせるポスターが貼られていた。下吉田駅に入るとすでに多くのファンが到着メロディを聞きに集まってきていた。こんなにも街に、人に愛されている。それを改めて感じただけで胸がいっぱいになった。

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駅を出て本町商店街のほうへ歩く。望遠レンズで圧縮しまくった富士山と商店街が一枚におさまる写真で有名な通りである。写真は翌朝撮ったもの。

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富士山方向に下りながらその刻を待った。歩きながら録画した様子がこちら。

富士山駅まで歩き自称日本三大うどんのかったい吉田うどんを食べ、ホステルに泊まり翌朝はいかにも日本という景色でおなじみの新倉富士浅間神社を見た。『浮雲』という曲に出てくる「いつもの丘」である。展望デッキが工事中のためおなじみの構図の景色は撮れなかったが、やはり雄大な富士山と麓に広がる街を一望できるすばらしい場所である。400段ほどの石段をゆっくり登っていると、駆け下りてくる朝練の野球部がすれ違いざまにみなあいさつしてくる。奥田民生に人生を狂わされるまでは野球少年だった志村も、かつてこの石段を往復していたのだろうか。そんなことを思っていたんだ。

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↑展望デッキは工事中。裏手からこんなかんじ

富士吉田市の夕方5時のチャイムは命日/誕生日前後限定のイベントだが、下吉田駅での電車接近メロディやパネルの展示は続くようである。周辺の観光も充実しているので、志村を息吹を随所に感じられる下吉田の町並みへ、ファン各位にはぜひとも足を運んでもらいたい。

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↑富士山駅駅ビルのフードコートではこんなおめでたいうどんも食べられる。新年の景気づけにいかがだろうか。具だくさんで、辛〜いすりだねを適量入れるととてもおいしい。

あの角を曲がっても消えないでよ消えないでよ。彼の年に追いついたいま、曲がり角の先を見つめても彼はいない。志村がこうして消えるということの、なんと志村的なことだろう。いつか語ってくれた話の続きはあなたにしかできないのに。それでも思いを受け継いで、フジファブリックは活動を続けているし、私たちも生きていくしかない。キミに会えたことはキミのいない今日も人生でかけがえのないものでありつづけます。

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