朝茶は七里帰っても飲め 一杯目
一杯目 お茶を濁す
パリーン。
「おい! 奴が窓から逃げ出した! 追え!」
「探せ! まだこのあたりにいるはずだ! 奴は手負いの身。そう遠くまで逃げられるはずがない!」
近くで叫び声が聞こえる。このトランクとこの身を渡すわけにはいかない。
数時間前、新緑のまぶしい八十八夜を迎えた日の夜のことだった。世間は大型連休真っ只中。ラボも私以外はみな有給休暇をとっており休みだが、私は一人、お茶を飲むのも忘れてお茶の研究を進めていた。焦げ臭いにおいに気づき、ドアのほうを向く。ドアの隙間から煙が入り込んでいるのを視認するや否や、室内から大切な書類、パソコン、お茶に薬品などをまとめ、用意していたトランクに詰め込んだ。その間にドアは既に燃え、火の手は瞬く間に部屋を包み込んだ。非常扉のほうへ逃げるのは諦め、トランクを体に括りつけ、窓からの脱出を試みた。驚いた顔の黒服の男性たちが下に控えており、必死の形相で追いかけてくる。幸い落ちたのは地面ではなく木の上だったため、私は太い枝を伝い、なんとか撒くことに成功した。そこからは、痛む体に鞭を打ち、できるだけ遠くへと必死で逃げた。
しばらく無我夢中で走っていたら、近くでしていた追っ手の足音や罵声は聞こえなくなった。辺りを見回すと、どうやら、星のよく見える見覚えのない森に迷い込んだようだ。どこか隠れて休めそうな場所はないかと歩き続けると、木造のアパートらしき古めかしい建物を見つけた。「五ヶ瀬荘」という館名板が掲げられたそのアパートの廊下に忍び込む。
バタン。力が抜け、体を床に委ねると、ひそやかな女性の声がした。
「誰?」
スマホのライトをこちらに向けた女性が、息を飲んだのがわかった。
「ちょっと! あなた、大丈夫? 何があったの?」
小ぶりのゴミ袋を手に持った女性が見下ろしていた。口を開くが、息が漏れるだけ。何度かはくはくと口を動かし、ようやく掠れた声が出た。
「すみません、少しだけ、ここで、休ませてください。すぐ出ます」
「何言ってるの。息も絶え絶えじゃない。とりあえずうちに来て」
「でも」
「いいから。少し歩ける? 私の部屋、二階なの」
「すみません」
外が白み始めたのを感じながら、女性の肩を借りて一段一段階段を上った。上る度に踏み板の軋む音がして、ドアを開けるときもギーギーと音がした。部屋に入ると、火傷に気づいてすぐに水で冷やしてくれ、そのうちに疲れがどっと押し寄せ、意識を失った。
目を覚ますと、小さな二つの瞳がこちらをじっと見ていた。後ずさろうとすると、自分が見覚えのない服を着ており、体の至るところにタオルで包まれた保冷剤が置かれているのに気づく。窓から日の光が射し込んでいる。
「おかしゃ。おねちゃ、おきた」
「アンリ、ありがとう。ちょっと待ってね」
部屋に招いてくれた女性がこちらに向かって来る。私と同年代くらいだろうか。
「今朝のこと、覚えてる?」
「私、不法侵入ですよね。すぐ出ます」
まだ声は出しづらいが、ここに着いたときよりはましだ。女性は深いため息を吐いて、こちらを睨む。
「早朝にゴミ出しに出ようとしたらあなたが火傷や傷だらけで倒れ込んでいたから、私が招き入れたの。部屋に着いて、お風呂場で火傷を冷やしてるうちに倒れたのよ。まだ起きてるのもしんどいでしょう。いいから休んでて」
「でも」
「のどかわいた?」
アンリと呼ばれた女の子が無邪気に尋ねてくる。
「え、いや」
「そうね、これ飲んで。大丈夫、ただの水よ」
女性がコップを突き出してくる。引き下がろうとしないので仕方なくコップを受け取るが、喉が痛くて水を飲みたい気分じゃない。
「大丈夫よ、ほら、私が一口飲むから」
私がなかなか飲まないのを勘違いしたのか、ゴクン、と女性がコップの水を飲む。
「ごめんなさい。喉が痛くて」
「そっか。スプーンでも飲めないかしら? 何も飲まないのはよくないわ。無理なら病院に」
「いえ、飲みます」
今病院に担ぎ込まれるわけにはいかない。外で何があるかわからない今、不用意に外へ出るのは私もこの人たちも危険だから。
女性がスプーンで掬ってくれた水を恐る恐る飲む。喉は焼きつくように痛むが、飲めないことはない。
「痛そうね。病院に行きたくないの?」
「お金もありませんし」
「お金くらい私が」
「大丈夫です、火傷や傷に効く薬を持っているんです。外に出るのが怖くて。ごめんなさい」
苦しい言い訳なのを承知で説得を試みると、女性が私に薬を塗ること、私がしばらくここに泊まることを条件に、病院へ運ばれるのを免れた。
「ねえあなた、その薬は?」
「そこのトランクのなかにあります」
「わかった、そこにいて。うわあ、いろいろあるわね、これ全部薬?」
「いえ、薬は少しで、ほとんどは茶葉やティーバッグです」
「茶葉にティーバッグ?」
「はい」
「見たことのないものばかりだわ」
「珍しいものも多いので。すみませんが、その緑のケースをお願いします」
「わかった」
女性はこちらを気遣いながら、薬を塗り、器用に包帯を巻いていく。時折痛みに顔を歪める私を、アンリちゃんが私より痛そうな顔をして見つめていた。
「足が腫れてるわね。折れてないかしら」
「歩けましたので、折れてはいないかと」
「とりあえず固定して冷やすわね。後はない?」
「これで全部です。ありがとうございます」
「隠してはだめよ。そうだ、あなた、お名前は?」
少しの間とはいえお世話になる以上、名乗らないわけにはいかない。私は研究者として上の名前は少々知られてしまっている。そのために、私の研究を悪用しようとデータを盗もうとする者、引き抜きという名目で監視下に置こうとする者が現れ、いつかのために逃げる準備を進めてきた。思ったよりその日は早く訪れ、研究を私ごとなきものにするためにラボに火が放たれたのだろう。顔や下の名前は広まっていないはずだが、素性を知られ、万一追っ手に自分を売られたら……。問われて数秒の間、頭をフル回転させ、下の名前だけを名乗り、それ以外の素性を偽ることにした。
「ユウリ、と言います。たまたま隣の家が火事になってうちの家に燃え移り、火の手から逃げて途方に暮れていたときに、こちらのアパートを見つけて思わず入り込みました。今朝は怖い思いをさせて、今もご迷惑をおかけしてばかりで、本当にごめんなさい」
女性は私の話を聞く間、射貫くように見つめていたが、やがてにっこり微笑んだ。
「大変だったわね、ユウリ。私は杵築アンナ。アンナでいいわ。この子は娘のアンリ。二人暮らしよ。広いから好きに使ってね。飲み薬があるなら、それも飲む? 喉が痛いと飲みづらいかしら」
アンナはそう言うと、もといたおそらく台所へと戻っていく。キツキアンナに、アンリ……。こんな偶然、あるのだろうか。
「アンナ……。飲み薬はとりあえず大丈夫です。動けるようになったらすぐ去ります。少しの間、お世話になります」
私の言葉に、アンナはまたため息を吐いて言う。
「もう。ユウリ、家だってなくなったんでしょう? 私たちに何かをしたり盗みを働いたりしないなら、ここでしばらく休んでいって」
「窃盗なんてことはしません」
「それならいいわね」
有無を言わさぬ雰囲気に、とりあえずの危険はなさそうなので了承する。
「では、お言葉に甘えて、しばらくよろしくお願いします。ただ、そのトランクの中身には触らないでください。アンリちゃんが口にするとよくないものも入っていますから」
「わかった、お茶はともかく薬はよくないもんね。後でトランクは手の届かないところに置いとくよ」
「ありがとうございます」
「ユウリ、よろしゅ」
にっこり笑ったアンリちゃんに、私も口元を緩ませた。
「アンナ、お手洗いをお借りしてもよろしいですか?」
「うん。一人で大丈夫?」
「はい」
「そこの廊下を真っ直ぐ行って右よ」
「ありがとうございます」
アンナとアンリちゃんに聞こえないよう小声で、何度も着信履歴を残してくれていた育ての母に電話をかける。
「もしもし、かあさん?」
「ユウリ! 無事で本当によかった。声辛そうね」
よかった、かあさんは元気そうだ。
「連絡が遅くなってごめん。衣食住は確保できて、宿の方にお世話になっているよ。体と声はまあ、ね。ラボのほうはどうなっている?」
「消防、警察の方たちが来てくれたから、対応したわ。地下のほうは無事だったけど、地上は全焼。この休みに出勤していたのはユウリくらいだから、他のみんなは無事よ」
全焼か……。そうだよね。でも、みんなも無事でよかった。
「ありがとう。ごめん」
私が謝ると、かあさんはピシャリと言い放つ。
「何を謝っているの。ユウリは被害者でしょう。悪いのは燃やしてあなたを狙う人間よ」
「そうね……。しばらく戻れない、対応を任せても大丈夫?」
「安心なさい。くれぐれも気をつけてね」
「わかった。おやすみ」
「おやすみなさい」
かあさん含め、ラボのみんなが無事で本当によかった……。安心して部屋に戻り、アンナがトランクを動かす前に昨日の分の日記を書く。
書き終えたところでアンリちゃんが覗き込んできたので、さっと閉じ、トランクにしまって鍵をかけた。
まだ警戒を解いたわけではない。疑念はあるが、少なくとも素性がばれない限りにおいては、この二人は危なくはないだろう。それに、今逃げ出したほうが、この体では追っ手に見つかる可能性が高い。気は進まないが、ここに潜ませてもらう。先ほど起きたばかりなのに強い眠気に襲われ、にこにこ顔のアンリちゃんに見守られながら眠気に抗うのをやめた。
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▼三杯目
▼四杯目
▼五杯目(最終話)
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