朝茶は七里帰っても飲め 二杯目
二杯目 茶漬けにひしこの望み
目を覚まして窓を見遣ると、まだ日は高かった。近くの衣装ケースの上に置かれた時計を見ると、十四時を回ったところだった。
「ユウリ、起きてたのね。トランク、そこの押し入れの上の段にしまったから。あのなかにはどうしてお茶がいっぱい入ってるの? 薬を持ち歩くのはまだわかるけど」
アンナがこちらに来て、不思議そうに尋ねてくる。
「高いところにしまってくださりありがとうございます。お茶は体に良いですし、好きなんです。飲み慣れたお茶がいつでも飲めるように、トランクに入れていたんです」
そうなんだ、と納得してくれたようだ。アンナが信じやすくて助かる反面、騙されそうで心配になる。巧妙な敵の口車に乗せられ、私の居場所を吐かれたら大変だ。手を打たないといけない。
「ねえ聞いてる、ユウリ?」
「ごめんなさい、何でしょう?」
「だから、お茶が好きなら、こっちのお茶飲まない? 体に良いなら、今のユウリにぴったりでしょう」
普段入手できない地元のお茶は気になる。ただ、今はまだとにかく喉が痛く、お茶を飲み込むのもつらそうだ。それに、疑いたくはないが、もし……。
「もう少し喉が痛くなくなったら、ぜひいただきます」
「ごめんなさい、そうよね。水を少し飲むのもつらいのに、水よりしみるかもしれないお茶はまだよくないわよね」
アンナが優しい人なのはわかるのに、疑って偽る自分が嫌になる。
「いえ、お気遣いありがとうございます」
「ううん。でもそれおいしいのよ。ここ五ヶ瀬荘の大家の五ヶ瀬さん、みんなカセさんって言うんだけど、カセさんたちが作ってるお茶でね」
トントン。アンナと話しているとドアを叩く音がして、肩を震わせる。
「心配しないで」
アンナが覗き窓を見てドアを開ける。
「キリー、こんにちは。どうしたの?」
「今日もいいのがとれたんでおすそ分けだ。上がっていいか?」
「今、来客中でね。ちょっと待ってて」
「おお、悪いな」
アンナがこちらに歩み寄る。
「隣の住人でね、霧島、キリーって呼んでるんだけど、いつも川魚を届けてくれるいい人よ。でも、今、見知らぬ男性は怖いかしら?」
気遣わしげにこちらを窺うアンナに申し訳なく、首を横に振る。
「ここはアンナの家なんですから、私に気を遣わないでください」
「すぐ帰ってもらうようにするわね」
アンナがパタパタとドアのほうに向かい、キリーさんを迎え入れる。
「怪我人を預かってるの。悪いけど、魚を置いたらすぐ帰ってもらえる?」
「大丈夫なのか?」
「塗り薬をつけて安静にしてるから、ひとまずは」
「そうじゃなくて、女二人の家に他人を預かるなんて」
キリーさんの苛立つ顔を見て、きちんと挨拶する。
「キリーさん、初めまして、アンナさんのお宅にお世話になっているユウリと申します。みなさんに決して危害は加えませんし、動けるようになったらすぐ去りますから、ご安心ください」
「ユウリ、だめでしょう無理して起き上がったら。キリー、ユウリはキリーの思ってるような悪い人じゃないから安心して。火事に巻き込まれて大変だったのよ」
アンナが慌ててこちらに駆け寄りながら、キリーさんに抗議する。
「火事? そんなのこのへんであったか?」
「ずいぶん逃げてきたそうよ。街のほうじゃないかしら」
「そうか。でも、ユウリ、と言ったか。あんた」
ゴクリと唾を飲む。痛みに顔を顰めながら、続きを待つ。
「何者だ? よくわからん人間をアンナとアンリのところに置いとくわけにはいかん」
「大家でもないのに、キリーにそんな権限ないでしょう」
ふっと力が抜ける。アンナとキリーが揉めるのをなんとか宥めようと、ごまかしながら説明する。
「私は、ただのお茶好きの学生です。二十六歳で、大学でお茶の研究をしています」
「俺やアンナより年下か」
「失礼ね。どうせ子どもっぽい二十八歳ですよ。これでもちゃんとアンリを育てる一児の母です」
「ふくれんなよ。ユウリが思ったより若くてびっくりしたんだ」
キリーさんは最初の威圧感を消し、魚を捌いて冷蔵庫に入れ、困ったことがあったらいつでも頼れと言って帰っていった。
「ね、口は悪いけど、いい人だったでしょ」
「そうですね」
ふと辺りを見回し、アンリちゃんが見当たらないことに気づいた。
「アンリちゃんは?」
「ああ、さっき話してた下の階のカセさんに預かってもらってるの。ごめんなさい、ユウリが寝てる間にカセさんには事情を説明したの。ユウリをここでしばらく看護すること、ちゃんと許してもらってるわ。ユウリのことも詮索しないでいてくれてる。看護は何かと大変だろうから、アンリを預かろうかって言ってくれて、アンリも懐いてるし、頼んだのよ。カセさん、今日はお茶のお仕事がお休みだからって」
「そうだったんですね。すみません」
「謝んないでよ」
「アンリちゃんだって、アンナと一緒がいいでしょう」
俯いて言うと、アンナが優しい声音で私に言う。
「ユウリ、今は自分の体のことだけを考えて、まだゆっくり休んでて。お粥を温めてくるね、少しだけでも食べたほうがいいよ」
そう言って、アンナは台所に向かった。アンナ、あなたはお人好しすぎる。キリーさんみたいな屈強そうで用心深い人や、カセさんのような頼れる人が側にいてくれてよかった。いいえ、アンナのような人だから、みんな助けたくなるのよね。
ピンポン。
とろとろと眠気に誘われていると、呼び鈴が鳴った。今度は誰だ。
「はーい」
アンナがコンロの火を弱めてドアへ向かう。覗き窓を見たアンナが急いでドアを開ける。
「アンリ! カセさん、アンリに何が」
「それが、高熱を出して震えだしたんだ」
カセさんと思しき声が聞こえる。アンリちゃんが心配だ。
「早く病院に連れて行かないと」
アンナが今にも飛び出していきそうだ。
「火を消して!」
私は慌てて叫ぶ。喉が痛むが気にしていられない。アンナははっとして台所に戻り、コンロの火を落とす。努めて穏やかな声音でアンナに尋ねる。
「アンナ、落ち着いて。はい、一回深呼吸して」
「うん……。すー……。はー……」
「そう、それでいいです。アンナ、アンリちゃんに持病はありますか?」
「健診では何も」
「わかりました。病院には私が連絡します。かかりつけは?」
「これ、アンリの」
アンナは冷静さを取り戻し、てきぱき保険証、かかりつけの病院の診察券、健診の記録などを保管したポーチを預けてきた。
「アンナ、落ち着いて、アンリちゃんを連れて行く準備をしていてください」
「うん」
アンナが支度するのを横目で見ながら、かかりつけの病院にアンリちゃんが高熱を出してすぐ向かう旨を連絡する。
「ユウリ」
支度を整えたアンナが、涙目でアンリちゃんを抱えていた。アンリちゃんは、顔を赤くして痙攣している。カセさんらしき初老の男性も部屋に入ってきていた。
「カセさん、ですよね。ユウリと言います。あの、タクシーを呼んでいただけませんか? ここの場所がわからなくて。かかりつけの病院には今から向かう旨を伝えています」
「車なら出すよ。ユウリ、君はまだ動かないほうがいい。アンナ、下へ行こう」
アンナは不安そうにアンリちゃんを見つめながら、カセさんと階下へ向かった。無事を祈りながら、私はただ留守を預かった。
暗くなってきたので電気を点ける。それから少しして、車の音がした。一人でいるとここは静かなので、冷蔵庫や時計の音、鳥のさえずりなど、ささいな音や声がよく聞こえ、車の音なんかはすぐわかる。ほどなくして、ほっとした表情のアンナと先ほどより顔色のよくなったアンリちゃん、浮かない顔をしたカセさんが戻ってきた。
「熱が高かったから点滴をしてもらったら、だいぶ元気になったみたい。今夜何もなければ心配いらないだろうって」
ほっと胸をなで下ろす。
「よかったです」
「うん。ユウリ、ありがとう」
何への感謝だろう。私は何もしていないのに。
「私は何も」
「電話してくれたし、私が混乱してたとき、ユウリの言葉で落ち着けた。本当にありがとう」
「あーとう」
アンナに続き、アンリちゃんからもお礼を言われ、調子が狂う。
「お世話になっていますから」
私は本当に何もできていない。動いてくれたのはカセさんだ。それなのに、カセさんの表情は暗い。アンナはカセさんにもお礼を伝える。
「カセさん、本当に何から何までありがとうございました」
「私がもっと早く発熱に気づいていればこんなことにはならなかったかもしれない。むしろ、本当にすまなかった」
「それはもう気にしないでくださいって言ったじゃないですか。感謝しかないです。アンリも無事だし」
アンリちゃんがふにゃっと笑う。それでカセさんもようやく笑顔を見せ、何かあったら遠慮なく呼んでほしいと言い置いて自室に帰っていった。
「ユウリ、ごはん待たせてごめんね。ちょっと待ってて」
「アンナ、疲れたでしょう。アンリちゃんのごはんだけ準備して、アンナは出前でも取りませんか? 私はさっき作っていただいたお粥がありますし」
「でも、キリーからもらった魚があるし、焼くだけだから大丈夫」
気を遣わせているのを申し訳なく思いながら、頷くしかなかった。アンナは焼くだけといったが、喉の痛む私のためにほぐして、お粥に混ぜてくれた。しみないよう少し冷ましてくれたお粥は優しい味付けで、魚の焼き加減も絶妙で、絶品だった。
「川が綺麗だから、魚も栄養豊富でおいしいんだって、キリーがいつも言ってるの」
「アンナの腕前もずいぶんのものです。お礼には足りないですが、おいしいお茶があるので飲みませんか?」
「いいの?」
「はい、お茶を淹れるくらいならできます。安心してください、アンリちゃんも飲める安全なお茶です」
やかんと急須、湯のみを借り、沸かしてお湯を湯のみと急須に移し替えて湯冷ましし、蓋をして少し蒸らし、濃さが均一になるように湯のみに注いでいく。
「アンリちゃんは熱を出して汗をたくさんかいたでしょうから、水分をしっかりとったほうが良いんですよ。このお茶はノンカフェインなので眠る前でも大丈夫ですし、リラックス効果もあります」
「ありがとう」
「アンリちゃん、苦くないから、少しだけ飲んでみませんか?」
「うん」
緊張した表情で見つめていると、二人とも顔をほころばせた。
「おいしい!」
二人揃っておいしいと言ってくれた。よかった。
「本当に苦味がない、というより甘い。それにいい香りね」
「あまい」
「そういう品種なんです」
好きなお茶の一つがほめられてうれしくなる。これは農家や開発者たちの努力の結晶だから。
「本当に詳しいのね。そして、淹れ方が上手」
きらきらした目で見つめるアンナとアンリちゃんを前に、私は後ろめたい気持ちでいっぱいになりながら、眉を落とした。
「アンナのお粥には敵いません」
アンリちゃんを寝かしつけた後、入浴できない私の体をアンナが拭いてくれながら尋ねる。
「どうしてお茶を研究しようと思ったの?」
私はしばらく考え込んで、話し始めた。
「先ほどお話ししたように、お茶には多くの効能があり、体に良いとされています。『朝茶は七里帰っても飲め』という、災難避けになるという意味のことわざもあります。私の育ての母が管理栄養士なんですが、安く手に入り、手軽に飲めて栄養価も高いとお茶の魅力を語ってくれました。亡くなった父と生みの母もお茶が好きだったようで。自然とお茶が好きになり、興味が湧きました」
「ご両親、亡くなってるのね……。ご家族みんながお茶を愛してたから、興味を持ったのね」
「そうですね。一方で、負の側面をもたらす場合もあるんです。たとえば、薬をお茶で飲んではいけません。お茶と一緒に服用することで、薬の成分の吸収が阻害されたり、副作用が起こったりすることがあるんです」
「聞いたことがあるわ」
「まだ解明されていないことも多くて。手軽に手に入って栄養価の高いお茶を、みんなに安全にもっとおいしく飲んでほしいと思って、いつしかお茶を研究してみたいと思うようになりました」
「なるほどね~」
「育ての母は、お金のかかる医療を受ける前に、食生活を通して健康を保ってほしいと言っています。そのためには、続けられるようなおいしくて健康的なメニューの開発、健康と食にまつわる知識の啓発、それらの普及が必要です。私も母のように、お茶で、貧富の差関係なく、おいしく楽しみながら健康になってほしいと願っています。でも、現実は、貧富の差が拡大し、お茶を買うのも厳しい人たちがいることを私は知りました。お茶農家さんたちも減っていっています。大変な苦労がありながら、生活が安泰とは決して言えないからです。お茶が誰にでも手に入るようになって、みんなで健康に幸せになれればいいのに、と。コホコホ」
「はい、お茶」
「ありがとうございます。すみません、話し過ぎました」
「ユウリの願い、叶うといいな。カセさん、この話聞いたら喜ぶんじゃないかな。カセさんのお茶もとってもこだわってておいしいの。それも、できるだけ安くしてみんなに買ってほしい、でも従業員のみんなに苦労をかけたくないって、不動産業もしながらがんばってるの」
自分の願いが叶うことを願ってくれる。それがとてもうれしかった。また、同じような思いでお茶作りをされているカセさんのことを知り、うれしくなった。
「そうだったんですね」
「うん。ごめんね、しんどいのに夜更かしさせちゃったわね」
「いえ、でもそろそろ休みましょうか。アンナも疲れたでしょう」
「そうね。でも、アンリも大丈夫そうだし、お茶を飲んでユウリの話を聞いたら、元気が出たわ」
「今夜はアンリちゃんのことを気にかけながらだと、ゆっくり眠れないでしょう。私はどうせあちこち痛んで眠れませんから、今のうちに休んでいてください。その間看ていますよ」
「ありがとう。じゃあ、少し休ませてもらうね。おやすみ」
「おやすみなさい」
アンナが休んだのを確認し、アンナに教えてもらった押し入れの上段からトランクを取り出し、アンリちゃんを見守りつつ今日の日記を書く。
私は、眠気覚ましに濃い目のお茶を自分用に淹れる。喉にしみるが、口がさっぱりして、胸がすくのを感じた。幸い、アンリちゃんはぐっすり寝ており、アンナが起きるまで何も起こらなかった。代わるから休んでと言うので横にならせてもらうことにした。先ほど濃いお茶を飲んだのであまり眠くはないが、横になると幾分楽だった。寝癖のついたアンナを見て笑い、赤面するアンナを微笑ましく思いながら、この穏やかな日が明日も明後日も続きますようにと願っていた。
サポートしてくださる方、ありがとうございます! いただいたサポートは大切に使わせていただき、私の糧といたします。