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【オカルト】”果ての無い問い”は考えてもしかたのない事なのか? Inspired By カント『純粋理性批判』

オカルトを追っているとよく「ガチか?ヤラセか?」といった論争を見かけます。当然、中には明らかなヤラセもあるので、きちんとした検証が必要なわけですが、充分検証した上で、「実際どうなのか判断が難しい」という場合も多く見られます。そんな時、この「ガチか?ヤラセか?」という論争自体に、何となく不毛さを感じ、「この二項対立を越えた考え方はできないのだろうか?」と、モヤモヤした気持ちになったことは無いでしょうか?私はしょっちゅうあります。

ですが、このモヤモヤは実は、”果ての無い問い”なのでは?と思うこともしばしばあります。つまり、「考えてもしかたのない事」。しかし人間は往々にして、「考えてもしかたのない事」を考える性質があるようにも思うのです。

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かつて哲学者カント(1724-1804)は、『純粋理性批判』の中で、「人は何をどこまで知ることができるのか」を解き明かそうとしました。
(ちなみにカントの『純粋理性批判』は、哲学界でも特に難解な大著といわれており、自分もまだ通読できておらず、解説本を読むので精一杯だったりします…)

そもそもこの世界は、人が五感のフィルターを通して、初めて物だと認識することで成り立っています。カントはその仕組みを、「現象」と「物自体」という言葉で対比して説明しようとしました。カントによれば、「現象(界)」とは経験的に知り得る世界で、誰もが共有できる客観性や認識能力が適応するので、理解が可能な世界。対して「物自体(叡智界)」は、現象の背後にある、我々人間には永久に不可知な世界とされます。
人が物を見て、物だと認識できない時、物が現実にそこに存在するかどうかを証明する術は、現状では、我々人間には備わっていないわけです。
つまり、人が知ることができるのは、「世界とはどういうものか(物自体)」ではなく、「人には世界がどう見えているか(現象)」であるともいえます。

上記の「現象(界)」において、客観性を持って認識する術の最たるものが科学なわけですが、その科学が通用する世界としない世界の間に、カントは「ここから先は、考えてもしかたのない事」として、線を引こうとしたのです。

この考え方は、遥かな時が過ぎたはずの現代でも、私達があらゆる現象に対して思考する際の土台になっている気がします。
なぜなら私達の日常は、ある程度は科学を信じて疑わないこと(思考停止すること)で保たれており、常に疑うことが先行してしまうと、やがては社会的な秩序を保つのが困難になるからです。

しかし同時に、例えば、宇宙はどうやってできたのか?とか、人はなぜ生まれて来たのか?など、果ての無い問いが頭をもたげて来るのも、また人間の性といえます。

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カントは実はこの『純粋理性批判』を発表する前、当時、千里眼を発揮したり(遠隔から大規模な火事を予知して防いだりした)、長きに渡る”この世ならざる者”との対話を詳細に記録した『天界と地獄』を著した偉大な科学者・神学者・思想家のスウェーデンボルグ(1688-1772)に対して、『視霊者の夢』という著作で批判しました。カントはスウェーデンボルグの神秘体験に対し強い関心を示していたものの(ファンレター?を送るまでだったそうです)、結果的には、神秘体験の真偽については「人間の認知の外である」として、否定的に捉えていました。

しかし、カントの故郷であるプロイセンにある墓碑には、ラテン語で「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない(『実践理性批判』より引用)」と刻まれているそうです。
つまり、「自己の内面の探求と、宇宙の始まりはあるのか?というような果ての無い問いは、どちらも同じくらい尊いのだ」と結論づけた、とも取れると思うのです。

大天才であったカントでさえ、「神秘体験はあるのか?ないのか?いやそもそも神て何なんだ?はっきりしてくれ、いや、はっきりしない方がいいのかも、、」などと、モヤモヤ悩んでいたということではないでしょうか。(飽くまで想像ですが)

恐れ多い話ではありますが、カントのこの揺さぶられ方には、一人の人間として非常に親近感を感じてしまいます。

大天才であるカントでさえ、いやカントだからこそ、結局「科学vs神秘」という二項対立の問いに対して、はっきりと決着のつくことではないと悟ったということなのかも知れません。

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現代の科学は、カントが生きた18世紀末に比べれば、かなりの高解像度のデータを示せるようになりましたが、実際、どう捉えていいのか分からないような不思議な現象というのは今でも多々ありますし、また、そうした現象も、時間の問題で科学的に少しづつ解明されてゆくことと思います。

個人的には、どんなに神秘的な体験をしたとしても、常に「人は何をどこまで知ることができるのか」を、最大限に知ろうとすることが大事だと思っています。そうすることで、逆説的に、「人が知り得ないことは何なのか」が浮き彫りなるからです。その浮き彫りになった部分にこそ、オカルト探求、ひいては「考えてもしかたのない事」の楽しみがあると思うからです。

ここまでお読み下さり、ありがとうございました!

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