ベージュ系ってなんだろう

ファッションは命懸けだよ!

ファッションは命懸けであるべきだと私は思っている。それは、自分を表現するためのものだから。
私たちは「自分という人は、このような人間です」と、言葉を交わさない自己紹介をファッションを使って行っている。
ファッションは、他者に自分を知ってもらうための入り口となるのだ。

また、ファッションは自己表現の手段とは逆に、自己を覆い隠す役割も果たす。
私は、好きなファッションを身につけることによって自信をつけているし、黒は強く、白は淡く、か弱いような印象など、色によって異なった雰囲気や人柄を醸し出すことができる。

自分を覆い隠すことによって、自分自身に対して認められない部分やそれに対する不満を抑制したり、自分の理想に近づこうと試みたりすることができるのである。

疑問 of ベージュ

ここで、私はここ数年間で増えてきているベージュ系のファッションに関して、それらを批判する形で、このスタイルの哀れな一面についての私の考えを書くことにする。

まず、先述した服の役割「自己表現の手段」に関しては、ベージュもその役割を全うしているのではないかと思う。

ベージュを見に纏う人たちは、ベージュによってどんな自分を表現しているのだろうか。想像ではあるが検討してみた。

・白や黒、鮮やかな純色、はたまた茶色でもない、微妙な色を使って繊細さを表している
・あまり目立ちたくない、注目されたくないという内向的な一面を表現している
・木や土、枯葉などの色味を身につけ、自然に近い存在であることを表現している

私はベージュ系当事者ではないので、実際のところどうなのかは判りかねる。

皮膚と衣服

さて、私がベージュ系はある意味で哀れであると考える理由はここからである。

もう一つのファッションの役割「自己を覆い隠す」に関して、ベージュ系はかなり哀れである。
ベージュは、多くの日本人にとっては肌の色に近い。
肌の色というのは皮膚の色であり、それは服が覆うより先に、身体を覆っている。
その皮膚の色と近いベージュの衣服を身につけることによって、ファッションによって自己を覆い隠すということをしていないのだ。
ただ皮膚に皮膚を重ね、自己を表現せず、また自己を隠さず、自己に関することを何も知らないような、そんな印象を与える。

ファッションによって隠すものがないということは、その人の人間らしさを感じさせない、他者から自己を規定されたとしても、何も反論ができないのではないかと思う。

少なからず私は、「自己について考えることを放棄したベージュ系の人たち」と捉えている。

哲学者鷲田清一は、衣服は第二の皮膚ではなく、皮膚が第一の衣服であると言う。そのとき、衣服は「第二の衣服」として、身体の一番外側の表層として、人間の存在を規定し、「人間」を「個人」にするのだ。

衣服が人間の存在を規定する役割をも果たすということを考慮すると、ベージュ系はファッションによる身体の範囲規定や自己規定を行わず、常に外界と溶け込み、順応したいという思いを持っているのではないかと考えられる。

ファッションは自由?


服は自由、ファッションは自由というけれど、自由って、誰かが不自由になったら成立しない。
ベージュ系には、実際それを着ている人たち一人一人が一体誰であるのか、我々がそれを判明するまでに時間がかかるという不自由さがある。

そもそも、ファッションは本当に自由なのだろうか。誰かがどこかで提示してくれた流行りを知って、選んで、消費しているのだから、初めから主体的では無いのではないかという議論も可能だろう。(ここではしないでおく)

in my opinionだからお手柔らかに

私にとって、ファッションは命懸け。だって自分を好きに表現できる機会の一つだから。
自己と向き合って生み出されたファッションに心が惹かれる。

既に皮膚として身体にある色を再びもってくるなんてナンセンス!と思ってしまう。そんなことさえファッションを通じて表現してみようか。
こういうところにもファッションの命懸け的要素があると思う。

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