スポーツは優勝しかゴールはないけど、人生なら人の数だけゴールが準備されている。なのになんで人と競うの?
人の数だけゴールがあるのに競う理由。
例えばこういうことでしょうか。組織が定めたルールに従い上を目指して、たったひとつの金メダル(ポスト)を目指す出世競争の影響?
ここまで30年以上働いてきた私は何かとこうした状況下にあった気がします(ただ、自分がちょっと違ったのは、端から出世競争に興味と縁がなかった)。
仕事だけではありません。
昭和時代に生まれ、社会が準備した階層社会の中で、上へ行くことが人生と信じ生きてきましたから。
義務教育前から常に階層の中で、自分の立ち位置を他者との比較で確認しながら安心を感じ生活していた気さえします。
どうでもよいことまで無意識にそうだったのかなぁと。背筋が凍りそう。
逆に、この階層社会が感じられない状況だと不安になりそれを探し始めたりします。
どこかでマウントをとり、勝ち負け白黒つけて安心や安全を感じようと。受験戦争がひと段落した大学の自由な時にまさしくそうやって心の平和維持をしていました。
今になって思えば、こうしたことが昔からぼんやりと抱いていた生きることへの不安の原因だった気さえしています。
とはいえ、生まれてからずっと続いてきた他者比較の中でしか自分を確認できない生き方は、そう簡単に修正できません。
いま、60年近く生きてきて、言葉尻ではなくこんな思いにやっと至れましたヨ。お恥ずかしながらやっとやっとなんです。
<競わなくてもゴールはたくさんある>
ひとつのゴールしかないオリンピック競技は他者比較の中でしのぎを削り、たったひとつの金メダルを奪い合いますよね。勝ち負けしかない。
でも、ゴールがたくさんあるとわかれば、人は他者と競わなくなります。
自分だけのゴールを見つけて、そこを目指していくものですよね。
現在の情報化社会にあっては数多のゴール(価値観)があることを知れますから、人から押し付けられてきたゴールには全く興味を感じません。
会社の中でも同じ。
多様性重視、ワークライフバランスの時代は、競わないゴールをそれぞれ設定し取り組む。
会社は他者比較で従業員の競争を煽らず人との違いを肯定的に評価する。
そうすれば、従業員はお互いを理解して協力し合い、やがて自分の情報や知識の共有シェアを始め力を結集するはず。
こうしたシェアのために、コミュニケーションや雑談が始まる予感もします(シェアが進めば不祥事の芽を摘むことさえ可能と感じます)。
すでにコワーキングスペース、フリースペースや"スナバ"では、様々な異業種のみなさんによる横断的コミュニケーションが活発になってますよね。
コミュニケーションには課題突破のきっかけがたくさん包含されており、雑談のような目的や生産性に直結しないインフォーマルなコミュニケーションにそれを強く感じます。
それができる時代はすごいこと。昭和の時代には想像もつきませんでした。
ゴールはたくさんあります。昭和な私にも見えてきましたよ。
他者比較で自分の立ち位置を確認したり評価するのではなく、自分だけのゴールを見据えます。
自分がやりたいと思うことをまず見定めて、いろんな人と交流し刺激を受け自己満足を目指してみたいですね。
自分的には30年ちょっと遅れてしまいましたが、ようやく自分の人生が動き始める感じなのです。
yoitenki4110