どうしても偏る
世はそこらじゅう問題ばかりになっちゃったが
どこで、何が、どんなふうに問題なのか、
どこから何を切り出しても現状の深刻さは理解せず平和と思っている人はまだ…
話す相手が、よく知る友人知人でも、
何か質問をする組織や団体や企業での対応する人でも、
誰であっても、
切り出し方や、話す順序は大事だと思った
相手がどこまでの知識や情報を持っているか?
どんな観点を持っているか?
事前に少しわかることもあれば
そうではないこともある
人は誰でも偏った見方をしてしまうものらしい
もちろん私もそうなのだけど(きをつけよう…)
話が始まる時の最初の一言を聞いて
瞬時に相手が話そうとするストーリをある程度予想して作り上げちゃう、
って事は多いような
様々な偏見に加えて
情報や知識不足で質問の内容を把握、理解できないとか
感情が混ざってしまってややこしくなっちゃったりとかも
そうして予想範疇外の事が起きた時、 オロオロする人、怒り出す人、黙り込む人、あらさがしをしたり他の話題でごまかそうとする人 それぞれの性格によって反応が様々
どう向き合うか、
向き合う気があるのか 、
どう生きてきたか、
普段どう在るか、
みたいなことが浮彫になるというか
論点がかみあい、意見を交わす、
会話をするという事が難しく感じる事がとても多い
やっぱり、自分で納得して決めて生きている人は本当に少ないんだと思う
そうできない言い訳はやまほどある現代社会
お金、仕事だから、〇〇のため、人の目、ルール等、
その根本がおかしいと思っても深堀りしない
もしくは、気づいている、考えていても黙っていたり、
納得していないことを選んでしまう
サイレントマジョリティ
そうして、多くの人がしていることが「常識」「ルール」になる
そのルールの中にいたらルールがおかしいとは考えなくなり、
攻撃されないよう、面倒にならないように生活することが良し、となるのではないか
麻痺していること(麻痺していることにも気づかない場合も)
そういう人たちはそっちで好きにやっていてくださいよ、とはいかないんだな
納得しない事でも、健康や安全に関わることでも、
多数派が正義で多数派に従う世の中だから共倒れっつうか巻き込まれちゃうの
様々なことから、人を観察し自分自身も省みる
いつもその必要があり、近年はさらにじっくり観察し考える必要性を改めて感じるこの頃
やっぱり自分であることの大切さと同じように、
有機的な循環を無視した生き方はしたくないなぁ
自分の消費の仕方がどう影響するか、
どこからきてどんな道のりできたのか、なども
お金や便利を優先して決めない
長い目でみる、俯瞰する