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【表現しなきゃ、思考ではない】~暗黙知↔︎形式知の変換作業で新しい知を創造する~


#センスメイキング #野中郁次郎 #SECIモデル #村上春樹 #ねじまき鳥クロニクル #ダイヤログ・イン・ザ・ダーク #マーケティング #リサーチ #インバル・ピント #暗黙知



■はじめに

 12月も最後の週になって、皆様の中では、すでに冬休みに入っている方もいらっしゃるかと思います。
今回は(一社)日本マーケティング・リサーチ協会の理事で、(株)トークアイのCOOである池谷雄二郎さんをお迎えして、対談をいたしました。
 池谷さんは、このnoteでは2回目のご登場となります。
 日本のマーケティング・リサーチの文字通り重鎮であリ、現在も第一線で鋭い着眼点でクライアント対応をされ、我々とは様々な相談をさせていただきながら、常日頃切磋琢磨している方です。
12-13年間、公私共にお世話になっております。

今回は、従来までのマーケティングの戦略立案や新商品開発をする作業前に、更にリサーチの前に、よりよい思考をすること、それを表現することの大切さについて一緒に考えたいと思います。
テーマは、【表現しなきゃ、思考ではない】です。

ここまで何回もこのnoteで論じてきましたSECIモデルを使った思考の方法について、今回は【暗黙知→形式知→暗黙知・・】を反転させる力は、どうやって生じるのだろうと考えてみました。

結論からいいます。

【ズレ】と【余白】を感じ取ることができる力こそが暗黙知を形式知に転換できる。

 これまでビジネスで特に重視されてきた論理思考で実施してきた、<調査・分析→議論→企画→開発>という思考プロセスは、精緻ではありますが、【ズレ】や【余白】は生じにくい。
説明は上手くできますが、息が詰まるような感覚があります。

この作業内容を、<具現化→フィールド・バック→具現化→・・・>(イタレーション)を繰り返す作業に切り替えます。

具現化という形にする作業、デザイン作業、言葉にする作業は明らかに主観的作業で、それを見たり聞いたりした人間が違和感を持つなら、【ズレ】を感じる。
そこに対話が生じて、また具現化作業に移る。
この【ズレ】を感じて、次のステップで修正するには、【余白】が必要ではないでしょうか。
いわゆる完成品を最初から作らないで、ベータ版を作ることです。
なんでも知らないことをすぐにリサーチして、完璧な完成品を作るという発想ではない。

今回テーマとする“表現すること”は、まず【自分ごと】で感じたこと(暗黙知)を言葉にすることから始まります。
感じたことを誰かに向かって表現する。
すると誰かが、その表現に感じたことを更に表現する。
それを繰り返すことによって、いわゆるアブダクション(仮説生成)が生まれます。
アブダクションとは【ズレ】と【余白】を生み出す作業になっているのではないでしょうか!

まずは、池谷さんと、ほとんど同時期11月に観た池袋芸術劇場の演劇 村上春樹の"ねじまき鳥のクロニクル'から何を感じたかから始まり、【人を動かす表現】の方法の在り方を考えてみました。
それでは、はじめます。

1.まず、自ら体感してから、考え、解釈する
・・・自らの体感を大切にする。固定概念を崩してから考える。(原作村上春樹を超えた表現力・・・伝える力とは)→【ズレ】

(池谷) 
前々回のnoteで黒木さんが今を語る現象として取り上げて語っていた、村上春樹原作の舞台「ねじまき鳥クロニクル」を私も観ました。

私は原作を読んでいませんし、村上作品自体2つしか読んだことないです。
 難解だろうなと覚悟して観ましたが、舞台の仕掛けと音楽と踊り、場と身体と音と声が重なりあって、調和しながら表現されている感じが、【心地よかった】ですね。

 黒木さんがnoteで話していたような理解はできませんでしたが、表現の力は感じました。
後からネットでストーリーを確認して、なるほどと感心して。
理解するよりも、まず感じることから始めるというのが、センスメイキングのscanning(感知)ってことですね。

黒木さんがこの舞台を観た時は,まずは何を思いましたか?

(黒木)
 まず、池谷さんは、原作を読まないでこの舞台を観た。原作を読まなくても楽しめる。いや、原作を読まないからこそ、この演劇は、自由に作品を楽しめるということですね。

私は、観た時、原作を芝居で表現するとこんな風に表現できるのかと驚きました。

演出家や,脚本家が、村上春樹の原作を読みこなして、解釈して,表現をする。
それを更にアクター・・・演じる人間がそれを自分なりに解釈して,また表現し、情報がどんどんと新しい価値を生み出して、面白いなぁと思いました。
特にアクターの動作と舞台の色が、村上作品に新しい価値を生み出していました。

最初に注目したのは、村上春樹の作品にも出てくる【井戸】です。
井戸に入る前と、入った人間で、演じる人間を変えました。
一人の人間が【井戸】を基点に変化した場を展開しました。

(池谷)
 ラテン語のid=イドは、精神分析で、人格構造に関する基本概念だそうで、井戸は、このイドも意味しているという解釈があります。
潜在意識はまさに井戸の中にあるんでしょうね。

(黒木)
まず人間の潜在意識をアナロジーで見える化したわけですね。

2.【井戸】や【壁】は、人間と社会・世界との関係性を比喩するもの
(村上春樹とイスラエル演出家インバル・ピントを繋いだコンセプトは,潜在意識の見える化)→創造力の【余白】

(黒木)
 面白い解釈ですね。
 確かに、【井戸】は不思議な存在だと思います。不思議な力を感じます。

 話し変わりますが、明治神宮の庭園にも加藤清正の掘ったという井戸がありますね。
(パワースポットとして有名で)今だに毎分60リットルの水が湧き出ています。
清らかな水が湧きでる、地球上の地表の裂け目から湧き出るエネルギーですよね。

村上春樹作品では,井戸の中に入ると、その人間が全く異なる感覚になる。
身体が自分のものかどうかすらわからない、時に時間すら変化する場面が多くあります。
それから【壁】という概念も比喩的に出てきますね。
(cf最新刊の"街とその不確かな壁"で表現されている「壁抜け」)

(池谷)
ダイアログ・イン・ザ・ダークという真っ暗闇を体験するイベントがあります。
確かにあの闇の中では,自分の身体感覚も溶けている感じがしますし、自我を超えた感覚だけが浮いているような感じがします。
真っ暗闇での体験なのに、おばあちゃんの家の居間に靴を脱いで上がって、帰りにちゃんと自分の靴が履けた体験や家の広さやそこに向かうまでの木や葉っぱの感触から情景を覚えているから不思議です。

(黒木)
 確かに,ダイアログ・イン・ザ・ダークは、人間には不思議な力があることを感じます。
 心と身体は切り離せないのでしょうか。

 文明人は,なんでも利便性のある社会で生活するのが当たり前になっているけれども,人間に電気がないもっと前の時代、1万8000年前にクロマニヨン人がアルタミラ洞窟に描かれた壁画に記録された暗闇の世界を想像してしまいます。
 あの色彩の豊かさやボカシの技法をどうやって洞窟の中で描けたのかは、ダイアログ・イン・ザ・ダークに関係しているのかもしれません。


アルタミラ洞窟壁画

(池谷)
絵を描くことも靴を履くことも目で見ていなくてもできるということですね。
現代は、見ること、聞くことの情報が多すぎるので、感じることが衰えているあるいは封じ込まれているのかも知れません。
その封じ込まれた状態を井戸や壁で表現しているように思います。

(黒木)
今回の演出家・振り付け師のインバル・ピントさんは,今年5月にも、「リビングルーム」(世田谷パブリックシアター)で、自己と他者との関係、相互作用を【壁紙】、椅子、机を使いながら、表現しています。

ここら辺りに、村上春樹とピントさんの共通する表現アプローチがあるのかもしれません。


3.【目的を創造】すると、人間の在り方・方向性がはっきりする。→【余白】を生かす。

(池谷)
 真っ暗闇の中で、どこに行こうとか,何をしようとか【目的】も持たずに、闇の中に身体を預けて,聴こえてくることや感じることをただ受け入れていると、とても楽ではありますが、表現は限られ、その分人間の本性のようなものが現れると感じます。
情報処理すべきものもがないからじゃないでしょうか。

(黒木)
 面白いご指摘ですね。
数回前のnoteに【あなた野生味に欠けていませんか!】で論じましたが,それに繋がりますね。

もしかしたら,日本の企業の中に目的を持たずに、闇の中に身体を預けて、聞こえてくることや感じていることを,ただ受け入れているだけの組織人がいるのかもしれませんね。(笑)
空白の30年と言われる日本経済・産業の元凶的存在ですね。

真っ暗闇というのは今のVUCAの時代の象徴で、目的を持たない方向性を持たない企業ということでしょうか。

ご案内の【ダイアログ・イン・ザ・ダーク】こそ、・・・暗闇で色彩を奪った時の対話には、人間の在り方そのものを、考えるヒントがあるのかもしれません。

4、暗黙知→形式知への変換作業のイタレーション(反復運動)が新しい知を創る。
(言葉→言葉だけでなく、身体知で変換することで、新しい知を創出する)
→【ズレ】を感じ、【余白】を生かす。

(黒木)
 話戻りますが、「【美しい】舞台でした。ありがとう」と村上春樹がお礼を演出家に言いました。
インバル・ピントさんが、アウスヘーベンする根源には、日本人の美意識の理解があります。
インバルさんの暗黙知が高質化し、言葉を超えた表現に私たちは共感したのでしょう。

佐野洋子の「100万回生きた猫」芥川龍之介の「羅生門」などの演出も手掛けてからの村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」であり、インバルさんは【余白を創る色彩】が日本人の美意識にあると話されています。
人に伝える【余白を創る色彩】という言葉がとっても印象的です。

逆に日本人にもともとあった美意識が、気がつかなくなっている、もしくは欠けてきているのかもしれないと思うと、ハッとさせられます。

(池谷)
 大谷翔平がインタビューで「フィジカルは時間をかけて積み重ねないと強くならないが、スキルはある日突然開花する」というようなことを言っていました。
もともとあった美意識は長い年月で積み上げられたものなのに、それを失ったり、気づかないから使えないというのはもったいない話ですし、その土壌がなければアブダクションにもつながらない。

今回、改めて気づきましたが、暗黙知を形式知へと変換するということは、感覚で捉えたことを分かりやすく言葉で説明する、職人の勘をマニュアル化するようなこととは限らないのですね。
感覚を言葉や文字にすることだけではなくて、感じたことを別の形で表現することと捉えるということなのですね。

(黒木)
 そうですね、インバル・ピントさんは、再度自分で感じたことを変換して、振り付け師として、身体で表現したんでしょう。
 暗黙知→形式知への変換は,暗黙知→形式知→暗黙知へ、更に次の形式知は、言葉ではなく、身体で表現されたものへと,今までの表現→解釈されたものとは異なるものへと止揚したのでしょう。
【知の創造】というか、増殖活動みたいなものでしょう。
これが【表現する】ということなんでしょうね。

(池谷)
 知の増殖活動ですか!おもしろいですね。
思考過程をよくスパイラルで表現する図を使いますが、その場合は上に行くほど狭いトルネードですが、増殖となると逆に広がっていくトルネードです。

あの舞台は,出演者も時間をかけて練り込んだということでした。
それぞれが感じたことをそれぞれに表現して、それをぶつけ合って,作り上げていくという過程は,相互主観といえますね。

黒木さんがよく言う知的コンバットは,これも勝手に言葉で交わされるものと思い込でいましたが,言葉とは限らない,要は表現することなんですね。
表現するというのは、まさに人間らしさでもあります。

(黒木)
 はい。知的コンバットは、野中郁次郎先生がよく使われますが、徹底した【対話】だと思います。対話は会話とは違います。
異なる価値観のもの同士が、言葉を交わしながら、納得した事柄をお互いに認めて、一つになることだと思います。
演出家・振付師と演技する人間が、それぞれ自分の考えをぶつけて一つになる時に、初めて新しいものが創造できる。
それが表現の原点ではないでしょうか!

あの舞台の背後にあった【自己と他者の関係性】を明らかにして、【他人と対話するという相互作用】が大切であることを教えてくれているように思います。

(池谷)
我々リサーチャーも生活者やクライアントと対話することが極めて大事だと思います。
調査が終わると次は完成品としての報告書を作ろうとすぐに収束に向かいがちですが、違和感も大事にしながら、対話を通じて余白を広げていくことで、より深く生活者を理解できるのだと思います。

(黒木)
はい。ズレが余白を作りますから、違和感は大事です。
そしてそれを表現することはもっと大事なことです。

🔳まとめとして

マーケティングやリサーチで今気をつけなければならないのは、考え方が予定調和になっていて新しいコンセプトが生み出せなくなってくることだと思います。

この村上春樹原作の舞台「ねじまき鳥クロニクル」は、
A:原作を読んだ村上春樹ファン。
B:原作を読まなくてもなにか新しいものを模索している方。
C:さらに原作を読まなくても、演劇好きな方。
分類は3つではなく、さらに色々できるでしょうが、
舞台の観客を見ていると、単なる村上春樹ファンではなく、BやCの方が結構いらっしゃるように感じました。

つまり、村上春樹ファンではなく、村上春樹+インバル・ピントの間にある考え方の【ズレ】と【余白】が作り出す新たな世界観によって、表現が進化していることに魅せられた人たちがたくさんいたのではないかと思います。

前々回、現在国立西洋美術館で開催されているキュビズム展(2024年1月28日まで)の幾つかの作品に触れました。
ピカソやブラックによるキュビズムの作品も今回取り上げてみた【ズレ】と【余白】に関係しているのではないでしょうか!

 リアリティの追求をしたジョルジュ・ブラックの"円卓"を見ると、多視点からのリアリティを追求することや、ピカソの"ギターを弾く男”の表情が、複数の感情を描くことを実験的にできたのは、時間と空間の【ズレ】と【余白】によるものであったのかと思います。

ジョルジュ・ブラック「円卓」
パブロ・ピカソ「ギターを弾く男」

絵画や文学、演劇、音楽の世界でも、新しい創造が、新しい意味を持たせる表現する試みが同時に起こったのかなと思います。

新しい共感領域を作るには、想像できない、予定調和できない面白さをちょっとだけ創造できるかいなかが大切なのではないかと考える次第です。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。