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あなた、野生味に欠けていませんか!

*タイトル画像出典:毎日新聞
#野性味 #キュビズム #野中郁次郎 #ねじまき鳥クロニク#インサイト #センスメイキング #マーケティング #フェルマーの料理

【はじめに】
 早いもので,年末が近づいてきました。
そんな折、日本のGDPはついにドイツにも抜かれて世界第4位、さらに数年後の2026年には、インドにも抜かれると今朝(11月10日)の日経では報じています。
(スイスのビジネススクールIMDの世界競争力ランキングでは、日本は,現在35位まで低下。)

いまだに日本が失われた30年から抜けきれない要因を改めて整理してみます。

①【組織の融通性がない】
 経路依存症にその原因がある経営学者はいいます。
会社や組織は、様々な要素が絡み合っていて、時代が変わっても、一部分を変えても、他がかみ合わないから結局は変わらないし,変えられない状況だそうです。

表層だけの組織変更では,新しい思考はなかなか生まれないし、実行に移りません。
なかなか新しい知が入りづらいようです。

②【目的の創造が実はまだまだ出来ていない】
 DXについて、ほとんどの企業が上手くいかない要因は、それがただのデジタル化で、目的と手段の履き違えで,明確な目的がないことに起因しているということを何度もこのnoteで論究しています。

それでは、イノベーションも引き起こせない。
自分の意思をはっきりと共有化することが必要です。

やっているふりだけ、ガワだけ,表層だけで,深くは考えないことにも原因があるでしょう。
(深く考える習慣が失われたのか、そのチカラが養われていないと感じます。)

③【野生喪失】
 10月8日日経朝刊にて、
「人間を取り戻す。」失われた時代の中で、本質を如何に取り戻すか!
”【野生味】の喪失”と経営学の泰斗である野中郁次郎一橋名誉教授教は、話されています。「野生味とは我々が生まれながらに持つ身体知だ。計画や評価が過剰になると劣化する。」
・・本来は、人の営みである経営戦略に人間を取り戻そうという動きが出てきている。(日経新聞 10月8日 第二面 直言から抜粋)


今回は,この③の人間性喪失・・【野生味】が大切ではないか、ということを現在起きている現象の中でいくつかを捉え、それを取り戻す方法も模索したいと思います。

1.現象①
今秋のTB S系ドラマ「フェルマーの料理」の科学アプローチを超えた人間味アプローチ

 この10月から始まった新番組、新ドラマです。
最近は料理が題材となる番組・ドラマは多くなっていますが、これは従来の長寿番組の「きょうの料理」や「孤独のグルメ」のようなものではなく、料理と食を通して時代や人間を見つめるような番組作りをしています。

数学科を目指した主人公は、食材をみると数値化できてしまい,その組み合わせを数式で表しながら、料理を作る。
しかしながら、例えば、旨味成分の相乗効果を数値化するという科学的アプローチで、数式による料理の味はできても、本当の美味しさを得られない。主人公はそのことを人間との対話から理解していきます。

この対話は、個人に眠る暗黙知のプロセスを料理人全員で共有するプロセスでもあります。

料理人同士の徹底した対話と顧客との対話を通して暗黙知を言葉や論理による形式知に変換。
最終的に料理人全体で獲得した知を、更に実践を通して、料理人個々の暗黙知として高めていく。

 旨み成分は,数を多くすればよいのではなく、グルタミン酸とイノシン酸の旨み成分は2種だから意味がある。
そのことを主人公は、数値化で見いだすだけでなく、父親が喜んだ記憶や思い出を掛け合わせることで、料理の味だけでなく、その形状や提供したときのかたちも想定するアプローチをしている。
若き料理人同士が対話と実践を通して深く思考し、自らの力を向上させる姿が描かれています。

2.現象②
現在開催されているキュビズム展は、時代を読みながら、人間味アプローチをした活動

現在,国立西洋美術館で開催されている「キュビズム展 美の革命」ピカソ,ブラックからシャガールへ、をご覧になった方もいるでしょう。

パリのポンピドゥセンターから140点も出展された50年ぶりの大キュビズム展です。

キュビズムとは、20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって生み出された芸術運動。
伝統的技法である遠近法や陰影法からの脱却、幾何学的に平面化された形で画面を構成する試みにより、それまでの常識から解放された。
名称は,ブラックの描画が,キューブ(立体形)だったことに由来する。

1907年、パリの民族誌博物館を訪れたピカソがアフリカやオセアニアの造形物に衝撃を受ける。

日経新聞記事

中でも、初公開、ロベール・ドローネの作品「パリ市」。

幅4メートルを超える広大なパノラマのようなフォーマットに引き伸ばされたまるで万華鏡を覗いたような作品が、象徴的であると感じます。

一枚の絵画の中に、【古代と現代,現実と想像】を同時に入れ込む作業は、その前19世紀末まで続いた写実的な絵画ではない。
写真という科学技術の進展に対して、人間にしかできない表現、それこそがまさに【野生味】ではないかと思います。

 1903年に亡くなった(つまりキュビズム以前の)ゴーギャンが、私の大好きなゴッホに送った手紙にこのように書いています。

「特に今年,わたしが描いているのは,素朴な農民の子供達です。(中略)
ただし、戸外の騙し絵はわたしの好むものではないので、これらの荒涼たる人物像の中に、そこに見える、そして私の中にも存在する【野生】を描こうとしているのです」

1889年12月13日のゴッホへの書簡

つまり,ゴーギャンのいう野生とは、【束縛や規制,見せかけの現実や現実の模倣からの解放】ではないかと思います。

そう捉えれば、今までこのnoteで論じてきた、観察から本質を捉える、インサイトを描く、見えている物だけではない内面を描く方法、のヒントになるものがあるのではないかと考えるのです。

3.現象③
村上春樹原作の「ねじまき鳥クロニクル」の公演・・・言葉を超えて人間存在・根源を身体で表現する

 現在(11月7日〜26日)池袋の東京芸術劇場プレイハウスでは、村上春樹原作の「ねじまき鳥クロニクル」が上演されています。

 注目すべきは、演出・振付・芸術がインバル・ピント、脚本・演出アミール・クリガーという2人のイスラエル人によって作られているということです。

【言葉を超える】表現で、相手に感動を与える。
インバルは、100の言葉を敵わない一つの動きがあることを気づかせる。

成河 (出演ミュージシャン)の発言

 言葉に置き換えない。暗黙知から暗黙知への変換作業に思います。
文字から声へ、身体表現に変えたこの村上春樹作品を観た原作者村上春樹も絶賛しています。

とにかく難解な村上春樹ワールドで、現実ばなれしながら心を揺さぶられる。
人間の多面性を創作する。
優しく、子供を愛しながら、戦争もする、人間。
表層の現実と内面の違いがある深層心理。

村上春樹は,数多くの作品で、【井戸の中】での深層心理と下界の表層的世界、善と悪、悪にもなり正義にもなる曖昧さを表現しています。

大体、この舞台の面白さを言葉だけでは語れないところに、人間味、人間性理解があるのです。

◎ここに語り尽くせない人間味や人間性をどのように理解したらよいのか、マーケティングでのインサイトを掌握することでの共感を引き起こすことのヒントがあるように感じる。

「ねじ巻き鳥クロニクル」のインバルの演出・振付・美術、アミールの脚本、演者やダンサーが相互作用により意味を増幅させていく。

企業と顧客・生活者,そこに介在する商品とサービスの関係は、もはや主体と客体ではなく、一体となりストーリーを紡ぐ関係になっていくことで、生活の意味を増長させていくことになるのではないかと妄想します。

どちらにしても、原作や演出家や脚本家の内容を演者がそのまま表現しているのではなく、演者が一年以上かけて稽古をしながら、さらに作品の要素を分解して,演者自らが新しい要素を生み出す。

よりよく表現する思考過程、これは至福のときであり,幸せなのではないでしょうか!
よりよく表現することはよりよく生きることに通じます。

主人公が井戸を降りて、現実世界から全く異なる潜在意識、さらにインサイト領域に向かうところの狭間を考えることが、人間味を理解する重要な視点であり、エスノグラフィーの価値なんじゃないかと考えます。

4.①と②と③からのアプローチ仮説

何故、共感や共鳴がひきおこるのか。
どうやったら、上手にインサイトを探索できるか。

上記①〜③は1つの例ですから,まだまだ様々な現象を体感して仮説を作りたいですが、今までの自分の考えていたものを一度白紙に戻して考えてみます。

①のフェルマーの料理では,子供の時の父親と楽しく食した思い出

②のキュビズムでは,アフリカのプリミティブをピカソが観た時の遠い昔の人間の記憶

③のねじまき鳥のクロニクルでは、井戸の中にある記憶に閉じ込められた自分の本性の記憶

ドラッカー先生の金言である、「顧客を創造する」「新しい価値を提供する」為に、顧客や生活者に何らかの眠っている記憶や思い出に触れる商品やサービス、情報の提供をすることが私達マーケッターに必要なことではないでしょうか!

「人間味・・野生味のある人間本来の素性に近い記憶を呼び覚ます。」

私は、エスノグラフィーで対象者と接点を持った時に、そんな事を考えながら、【主観の客観化】とぶつぶつ唱えながら、臨んでいます。


今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。