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2021年1月の記事一覧
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #9
背後から店員が近づいてくるのを感じ、ぼくは穏やかな笑顔でそれを迎えようと思った。準備した顔の筋肉は、けれども振り向いた先の女の険しい表情によって凍りつき、ぼくは慌てて真剣な、業務に向き合う表情を繕った。それはアオマブタとは別の、背の小さな仏像を思わせる女だった。
彼女はぼくではなくて、その向こうの往来を暗い目で見ていた。気付くと奥にいる他の女も、同様の暗さをそれぞれの目に浮かべていた。咎める視線
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #10
アオマブタに昼休憩を告げられ、ぼくは屋上階へ向かった。滞った血流に、借り物のようなぎこちなさで動く脚を腹立たしく思っていると、上から若い女の店員が降りてきた。彼女の身のこなし方は、ぼくの肉体との接触の可能性を極端に避けようとするものだった。けれどもそれはかえって、彼女の肉体を脅かされるものとして強調していた。
「すいません、この辺コンビニありますか?」
軽薄な鈍感さを装ってぼくは言った。その軽
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #11
昼休憩が終わりに近づくにつれ、内臓の機能は正常に戻っていき、息をひそめていた空腹が目を光らせはじめていた。仕事が終わるまで彼は伏せたままでいるだろうか。不安が、自身の健全な機能に沸き立つ肉体を尻目に、低い温度のまま脳を焦がしていった。
ところが溜まった尿が、どこかから転移してきたみたいに膀胱に重くのしかかり、より緊急性の高い肉体の要求を伝えた。階段を駆け降り、地下の従業員用トイレのドアノブを勢い
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #12
脊椎から魂を吸い取られたみたいに、身体が自分のものではなくなって、それは雑然とした元素の集まりであってもよく、しかし表を歩くひとたちはそれをひとまとまりのものとして飼い慣らしているように見える。光とか音とかさまざまな粒子が、信号となって脳に摩擦を起こし、生じる欲望、そういうものすら、彼らは従順なペットみたいに躾け終えている。彼らは見られることができる……
ぼくは縋るように、事物との対話をこころみ
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #13
しばらくすると老女が降りてきた。何かを買ったわけではなさそうだったけれども、それまで彼女に応対していたらしいアオマブタは、ゆっくりとした老女の足取りに付き従いながら、ぼくを鋭い目で見た。その目は、帰る客のためにドアを開けるという動作についてさえ、ぼくが信頼に足る人間ではないことを告げていた。
ぼくの開けたドアを通ったあと、去っていく老女の背中に向かってアオマブタは深々と長く頭を下げていた。その疑
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #14
翌日、ブティックの裏口でぼくを迎えたアオマブタは再び、地下でぼくに上裸になるよう命じた。定規を持ち出しながら、彼女はぼくの体調を案ずる言葉を発した。はい、大丈夫です、と答えるこの肉体が、彼女の心労となっていることを思い、身体に疎ましさを感じる。
ぼくの肩をアオマブタが掴んで位置を整える。ぼくがぼくであることが、彼女によって成り立っていると、そんな気がしてくる。
「そう、よかった。今日はね、午後
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #15
持ち場に戻ると街には平板な像に収まった人間が、なにかを待ち構える背景となっていた。あらゆる動きのうちに、なにか一様の志向、統一する流れのようなものが感じられた。
それは人々のあいだで、適切な像への変換コードが共有されていることを想像させた。ぼくだけがそれを共有していない……感染したゾンビたちが平穏な日常を送る区画に迷い込んだみたいに、ぼくは自身の正体が露呈することを恐れ身を固くした。
ぼくはど
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #16
事物が我に返ろうとするのを、敗戦の近い国の警官のように装飾が必死に押しとどめていた。肉体はさきの晴れやかさを忘れ、重々しくTの字からはみ出そうとしていた。危うく感染するところだった――そんな考えが浮かんだ。
崇高な理念の裏で私腹を肥やすことに腐心する教祖……気付けば店の誰もが、そのことを暗黙のうちに了解しているように思われた。形成された秩序もすべて、彼の快へと通ずる回路となっていることを、幹部た
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #17
二度目の休憩をアオマブタに告げられぼくは再び屋上に出た。剥き出しだった岩肌が均一な角度で削り落とされたような平板さが、そこに広がっていた。これは先ほど見たままの景色だろうか。その平板さはかえってぼくを落ち着かなくさせた。
ぼくは先の尿の跡が残っていないか、ファンのあたりを見渡した。ファンは世界のはじめからそうしているみたいに佇んでいた。ぼくは周囲の事物を見渡すけれども、事物たちは電車で奇声を発し
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #18
背の高い、髪を編み込んだアフリカ系の女が、やたらと湿った発音でぼくの知らない言語をスマホに垂れ流していた。伸縮性の高い、身体のラインをぴっちり浮かび上がらせる蛍光オレンジのレギンスが、街の文脈を弾き飛ばすように跳ねていた。
ぼくは躍動する尻を呆然と見送っていたが、ふと、ぼくは自分がその躍動する尻に肉欲を感じていないことに気付いた。知らない素材でできたなにか……そう思った途端、女の尻がひとつの、得
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #19
自らの異常性を熱望する心が肩透かしをくらって、仕方なくぼくは異常者をみずから演じることにした。ぼくがぼくを演じながら、ぼくが〈良心〉となって対話を行おうというわけだった。
――こういう試み自体が、想像力の欠如した人間に特有のものだと、気付いているはずだがね
――しかし実際、演じるうちに本物になる、ということもありうるじゃないか
――本物……きみはさっきも、それを気にしていたね。君にたいする、
ぼくは世界からきらわれてしまいたい #20
溢れようとする欲動は、しかしかえって慎重に、自身を擬態するようにぼくに要求していた。ぼくはTの字とスーツを意識しながら、目の前の、心臓の萎みきったようなマリの表情に対して、なしうる限りの慈しみの表情を浮かべた。
「そんな、まさかそんなことが……辛かったでしょう……そんな、立場を利用して……」
心臓の血流が少し正常に戻ったように、マリの表情が内圧を感じさせた。
「就職、苦労したから、怖くて……