ぼくは世界からきらわれてしまいたい #9

背後から店員が近づいてくるのを感じ、ぼくは穏やかな笑顔でそれを迎えようと思った。準備した顔の筋肉は、けれども振り向いた先の女の険しい表情によって凍りつき、ぼくは慌てて真剣な、業務に向き合う表情を繕った。それはアオマブタとは別の、背の小さな仏像を思わせる女だった。

彼女はぼくではなくて、その向こうの往来を暗い目で見ていた。気付くと奥にいる他の女も、同様の暗さをそれぞれの目に浮かべていた。咎める視線がぼくを捉えることを恐れ、ぼくはまた往来のほうに向きなおった。

往来を眺めながら、ぼくは彼女らの暗さについて考えた。あの、店の外側に対する怨恨めいた表情は一体なんであるだろう。外はぼくらに対して無関心だった。自分らに無関心なものに対して、あのような視線を送るだろうか。

ふとぼくは開店から誰一人として客が来ていないことに思い至った。来ていない、というよりも、店に興味を示す視線すら、これまでなかったように思えてくる。その事実はぼくのうちで、店の女たちの暗い表情と明確に結びついた。売り上げ、ノルマ、圧力、そういうものが、暗さの背景にはっきりとイメージされた。

経営が芳しくないのだ。ぼくは先ほどのまでの自身の勝手な想定、円満な関係のイメージを恥じた。そもそもドアマンなど雇う余裕などないのではないか?そういう事情を、彼女らはみな把握していて、新しく雇われたぼくを疎ましく思っているのではないか?彼女たちの態度と隙間なく符合していくそれらの考えは、星座の見取り図のようにぼくのうちに定着した。

背中のTの字が、文鎮のように密に閉じ込められた重みをもって、その存在を主張してきた。そこにはこの店の文脈、女たちの情動、そういうものが内包されていた。ぼくはそれに罰されなければならない。訓練されていない肉体をもってその場に現れたことを、女たちの目の前で咎められなければならない。

背中のTの字、その狂いのない正確な線から、雪どけみたいにぼとぼとと、矯正されていた筋肉が緩んで軸からはみ出していく。軸から次々にずり落ちていくものを、再び正しく枠のうちに収めようとするのだけれども、修正しようとする動きが新たなゆがみを作り、素人の陶芸みたいに取り返しようもない形をまとっていく。

細微な筋肉への動きに対する集中は時間の刻まれる間隔を細かくして、フレームレートの高くなった意識によって擦りおろされた精神が、垢人形をぼくのうちに作りだす……ゆがみただれたぼくの肉体から、垢人形が顔を出した瞬間、背後の女たちからそれを焼き尽くすレーザーが発されるだろうと思われた。

外の世界のひとびとは無垢で、涼しい人間の顔をしていた。彼らの肉体を覆っているさまざまな素材と彩り、その滑らかさと硬さは、彼らの肉体のうちを残酷な重々しさで流れる時間について、彼らに忘れさせるのに十分なほど、精巧に練り上げられたものだった。その形成過程のうちには、この店に流れるミキサーのような時間が必要なのだと思った。肉を細切れにして、それが肉であったことを隠す手つき……当然彼女らは、生臭さについてのもっとも鋭敏な感覚を持ちあわせているわけだった。しかし加工する肉が入荷されないとなれば、共喰いみたいにミキサーが、互いの身体を刻んでいくのではないかと思われた。

ぼくは店の外へと駆けていく自分を想像した。そのときのぼくの肉体は美しいだろうと考えた。あらゆる筋肉がおのずと隆起し、あらゆるマッチョがTシャツをそうするように、滑稽なTの字を弾き飛ばして新しい動きを欲し跳躍するはずだった。けれどもその可能性はむずがゆく固まった肉をわずかに痙攣させ、背骨の軋むような感覚が残された。

そのとき、有機物の酸化した臭いが排ガスをすり抜け鼻腔を突いた。目の前には泥まみれの黒いボロ布に、まだらな褐色の頭をのせた男が、ひとり歪んだ時間のなかを歩いてた。みごとに彼は隔絶された空間のなかを進んでいた。この街の意識から、彼は仕組まれたように排除されているのだった。

誰にも聞き取られることのない波長で、彼はしきりに何かを呟いていた。口角に溜まった泡粒が、この街の波長から彼の声を取り残しているのだと思った。彼の口元の皺をいびつに埋めるように、涎の乾いた跡が黄色く皮膚を変色させていた。

「ふらいはい、ふらいはい、ぶらん、ぶらん、ずいぶんかるそに、せおうじゃないの」

それは彼の臭いと同じように、往来から浮かび上がってぼくの耳に入ってきた。音のつらなりはその底流に不確かなメロディを感じさせた。意味はわからないけれども、ぼくはそれに魅入られていた。その音を聞いたことによって、ぼくはそれまでとは異なる位相に存在させられているのだった。

隔絶された彼の挙動のうちには、現実的なものの重みによって腐食へと進んでいく動きがある一方で、世界の外から現れぼくを連れ去ろうとする、質量のない抽象物のはたらきがあった。それらは二つの異なる運動ではなく、磯臭いすきま風が一瞬涼やかさをもたらすような、両義性をはらんだ懐かしさの情感そのものであるように思われた。ぼくはそのなつかしさの渦のような運動に、飲み込まれ同化していくことを想像したが、背後に聞こえた「やあねぇ」という女の声がそれを霧のように消してしまった。

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