ぼくは世界からきらわれてしまいたい #13
しばらくすると老女が降りてきた。何かを買ったわけではなさそうだったけれども、それまで彼女に応対していたらしいアオマブタは、ゆっくりとした老女の足取りに付き従いながら、ぼくを鋭い目で見た。その目は、帰る客のためにドアを開けるという動作についてさえ、ぼくが信頼に足る人間ではないことを告げていた。
ぼくの開けたドアを通ったあと、去っていく老女の背中に向かってアオマブタは深々と長く頭を下げていた。その疑いのない、美しい姿勢に見入っていると、アオマブタは兵士のように勢いよく踵を返してぼくに詰め寄った。
「あなた、棒立ちしていたでしょう。見てたわよ、お客様がいらしているのにドアを開けないで。最低限の仕事もしないで、どういうつもりなの」
舞台裏で身構えていた垢人形が、エサとなる時を見出した――その感覚は、アオマブタの圧によって萎んでいこうとするぼくのもう一つの心の方向性に対して、ひとつの放水路を構築した。
「なにを黙り込んでるの。あなたもう、いい大人でしょう。失敗したら、言うことがあるでしょうに」
邪悪な石となって忌み嫌われてしまいたいような思いが、叱責に麻痺する脳の下層で滞留していた。これでいいのだ、世界にはどこかしら、タンツボのような地点が必要なのだ……
なお沈黙するぼくの顔に、けれどもアオマブタは何か同情すべき重大な欠損を見出したとでもいうように、嫌悪や排斥とは異なる表情を見せた。それは親を亡くした児童に対する神父の目を思わせ、ぼくを困惑させた。
「なに、あなた、ひどい顔色じゃない。体調悪いの?ちょっと下で休んできなさい」
休憩室のドア横に架けられている小さな鏡を見ると、確かにぼくは乾いた粘土みたいな皮膚をしていた。
「お昼はちゃんと食べたの?外に出ていなかったわよね。お弁当も持ってきていないように見えたけれど」
そのいかにも自然な他人への気遣い、その土台となっているものについて、ぼくは途方もない遠さを感じた。その人間的作法は、アオマブタの長年の経験から構築された、彼女そのものの血肉としての態度にちがいなかった。タンツボが目の前にあったとしても、彼女がそれを使うことは到底ありそうもなかった。
「すみません、食べてないです」
糸くずみたいに発された言葉が、自身のうちにはらりと落ちた途端、ぼくは空腹と渇きを強く感じた。胃のうちに、数十匹の凶悪なミミズが這いずりまわって、それを排出しようとする収縮の動きが生じた。
「ちょ、すいません」
ぼくはトイレに駆け込んだ。便座を上げて膝をつくと、いかにも便器は吐瀉物を受け止めるのに適切なかたちをしていた。陶器のツヤに浮かぶ水が、醜い内部の漏出をすべてなかったことにするはずだという確信が、便器を頼もしく見せて、ぼくは躊躇なくそこへ汚物を排出しようと喉を力ませた。
けれどもぼくが吐いたのはわずかな消化物の欠片を含む痰のような液体だった。それは浄化されるにはあまりに小さな汚れであるように思えた。反省する猿のようにぼくはそれを流した。
「ほら、飲みなさい」
トイレから出たぼくを待ち受けていたアオマブタがペットボトルの水を渡してきた。ぼくは朦朧とする意識が、おのずから生じているものなのか自己弁護のため生じさせられたものなのか、判然としないまま礼も言わずにそれを飲んだ。
気付くと強力なポンプのようにぼくの身体はそれを吸引していて、口を離すと僅かな分量しかそこには残されていなかった。残されていない肉体の記憶を探って、ぼくはじっとその容器を見つめた。
「水も飲んでいなかったんでしょう。自分の身体に責任を持ちなさい。人様の前に出せる形に整えておくことができないと、どんな仕事だってできないわよ。もう今日は帰っていいから、しっかり寝て体調整えなさい」
アオマブタの声の調子はやわらかく、ぼくは自身の一部となっている暗い渦が、心地よい触手に包まれていくのを感じた。そうじゃないのに、とぼくは思った。
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