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#書く

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衣食住書。
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#気づき

280日毎日投稿から、毎日投稿を辞めて起きた変化、あるいは苦悩、展望

毎日投稿を辞めてから、早いもので1ヶ月以上経つ。 振り返ってみると、毎日投稿を辞めてからの直近1ヶ月間は10記事しか公開していないらしい。 毎日投稿を辞めて起きた変化、結論、それほど大きな変化はない。 「やっぱり、書くことは自分にとって大切だった」 「無意識に書こうとしている自分がいた」 残念ながら、そのように感じるほど、自分にとって「書く」という行為はかけがえのないものではなかったらしい。 書かなくなった分その時間や労力が他の行為に充てられる、ただそれだけだ。

誰かに寄り添えるなら、暗さなんていくらでも見せられる

「僕のnoteの何が良いんですか?」 普段自分のnoteを読んでくださっている方とお話する機会があり、率直に聞いてみた。実際は、もっと温度感があって丸みを帯びた聞き方をしていたと記憶している。 その方曰く、「自分が何となく思っていること・感じていることを言語化してくれていて気づきがあるから」とのことだったのだけれど、その後に付け加えるように言っていた「暗い感じなのが良い」という言葉が何だか忘れられなくて、脳内で何度もリピートされている。 確かに、自分の書いてきた文章を振

"問い"と"気づき"を受け取ってほしいから、今年も書き続ける

何年生きていても、年の始まりは高揚感や去年の後悔、色んな感覚が入り混じっているのだけど、総じてやっぱり高揚感がある。 何なのだろう、この何かを決意したくなる、掻き立てられるような気持ちは。 去年の5月中旬から毎日noteを書き始めて、あっという間に半年、気づけば8ヶ月経過している。 初めのうちは目的や大義名分なんぞ、何も無かった。 「短編小説を書いてみたい」 というひょんな思いから書き始め(結局、短編小説はほとんど書かなくなったけれど)、 「毎日書けるかもしれない

「書く」に飽きたんじゃない、「自分のために書く」に飽きたんだ

ここ1ヶ月ほど、「書くこと」に全くが身が入らない。 どこか浮ついていて、書き切った後の達成感、書いている途中の徐々に高揚していく感覚、言語化できた時の安堵感、それらを感じられない。 自分のために書くことが誰かのためになると信じているし、それを原動力に書き続けているけれど、最近は、誰かのために書きたい衝動を我慢している気がする。 「誰かのために書く、それは自分のためになる」 という感覚を欲している。この感覚が「間違っていない」と確かめてみたくなっている。 前に、こんな

文章を書いていると、写真を撮りたくなる

日々文章を書いていると、何だか物足りなさを感じる。 つい半年ほど前まで、日常に「文章」の「文」すらなかった自分が、一丁前に物足りなさを感じるなんて、半年前に想像できただろうか。 例えば、文章中に写真を挿れてみたくなったり、音をつけてみたくなる。 きっと、こういう感覚が大切なんだろうな。 ひょんなきっかけで始めたブログ、気づけばもっとカスタマイズしたくなって、コーディングやデザインの技術を身につけたくなったり。 YouTubeで動画を観ていたら、自分でも動画を撮影した

文章を通して、結局何を表現したいのだろうか

noteで毎日文章を書くようになって、早いものでもうすぐ半年経つ。 ここまで特に「これ」と決めず、思うがままに、様々な形式や内容の文章を書いてきた。 自分は、文章を通して何を表現しているのだろう 書き続けているということは、きっと、自分でも言語化し切れていない“表現したい何か”があるはずだ。 160を超える文章の数々を思い出しながら、自分自身の表現したいものが何か、考えてみた。 - 『自らの生き様』 これまでの人生における選択、決断、その時のモヤモヤや葛藤。

承認欲求って、面倒くさい

スキとかフォロワーとかどうでも良いなんて思いつつ、実際そう簡単には意識をコントロールできない。 表示されてしまう以上、気にしたくなくても気になってしまう。 「リアクションを気にせず文章を書きたいから、紙のノートに書こう」なんて割り切れるわけもなく。 誰かが見てくれる安心感、誰かに見てほしい、あわよくばたくさんのリアクションが集まってほしいという願望、それらに依存しているからこうして懲りずにnoteで文章を書いている。 ありがたいことにそれなりにフォロワーも増え、一定以

誰かを思いながら文章を書くのも、やっぱり良い

ここ最近、『【企画】あなたの“モヤモヤ”で文章を書かせてください』に投稿されているコメントをもとに文章を書いている。 自分が感じたことを、自分のために、好きなように書くのも良いけれど、やっぱり誰かを思いながら書くのも良い。 どんな反応してくれるかな? 欲しい言葉ってこれかな? そんなことを考えながら、一つひとつ言葉を選んで文章にしていく。 「自分のために書く、それは誰かのためになる」のならば、「誰かのために書く、それは自分のためになる」こともある。 今まで文章を書い

「終わり」は自分で決めるものだった

「いつまでnote書くんだろう」 かれこれ130日近く毎日書き続けているけれど、ふと「終わり」を意識する瞬間がある。 自分で「書く」と決めて書いているだけだから、いつでも「書かない」と決めることができるし、「終わり」を自分で決められる。 「何を終わらせたいんだろう?」 毎日書くことを終わらせたいのか、書くこと自体を終わらせたいのか。 毎日書くことも、書くこと自体も、別に終わらせたいわけではない。 けれど、「終わり」が無いと、モヤモヤする。 - これまでの経験を

いつの間にか、なぜか、毎日noteを書いていた。

「そういえば、どうしてnote書いてるんだろう」と2日に1回くらいは思っているけれど、随分前に「noteを書く目的」について文章を書いていたことを思い出した。 せっかくだから振り返ってみようと思い、眺めてみると、当初の目的が全て達成できてしまっていた。 ①頭の中を整理したい・言葉にしてみたい ②文字の方がうまく表現できそう(←これは目的というより理由かも) ③何か一つでも継続してやり切りたい だいぶ頭の中を整理して言葉にできるようになったし、相変わらず文字の方がうまく表

noteを書くから、モヤモヤするんじゃないか

「人生について考えてない時が一番良い感じ」と思っているけれど、毎日noteを書いているせいで、人生について嫌でも高頻度で考えてしまっている。 自分の書く文章のテーマが「人生のモヤモヤや葛藤」ということもあって、より考えてしまう。 人生について考えていない時、考える暇もないくらい、何かにのめり込めていたり集中できている時が一番良いよな、と思いつつ、実際は毎日考えているという自己矛盾に気付いてしまった。 自分と向き合う時間とか人生について考える時間とか、そういう時間は意味が

整理したいなら「書く」、気づきたいなら「話す」

書くことで言語化できるし、話すことでも言語化できる。 書くときは、自分のペースでじっくりできるから、散らかった脳内を整理できて、自分が思っていることや感じていることを、一つひとつ言語化できる気がする。 話すときは、他者の存在があるから自分の思い通りのペースにはならないものの、思いがけない発言があったり、新たな視点を得られるから、一人でじっくり書いていたときには気づけなかったことに気づける。 書きながら、新たな気づきを得られる時ももちろんあるけれど、自分の場合は誰かと話し

noteの初心って何だっけ

はじめは、「文章を書きたい」、「自分の思いを表現したい」、そんな気持ちで始めたnoteも記事が読まれるようになって、フォロワーが増えて、欲が出てきて、いつしかリアクションに一喜一憂するようになって、モチベーションに波が出て。 そうやって、「何のためにやってるんだっけ」と書く理由や目的を見失っていく。 書くのに、理由や目的なんていらなかったはずなのに。 そんな時、note CXOである深津さん(@fladdict)の「もっとも大事なこと(noteのはじめかた)」という記事

「さて、何書こうかな」から始まる、自分とのおしゃべり

「自分と向き合う」 言葉にするのは簡単だけれど、これがまた難しい。 物理的に自分と向き合いたいなら鏡を見れば済む話だが、自分自身の内面、本音や気持ちは鏡を見ても分からない。 自分ってどうなりたいんだろう?自分って何者なんだろう? そう問いかけてみても、答えが出ずモヤモヤして終わることがほとんど。 答えを出せない自分に嫌悪感を感じてしまうことさえある。 そもそも「自分ってどうなりたいんだろう?」との問いに対してすぐに答えが出せるなら、きっと今こんなことで悩んでいないは