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津久井通り大山道荻野ルート明治期

大山道シリーズ、これまで、

と、実走しました。

相模川と酒匂川の間の東海道から出る大山道は全て制覇、相模川以東も、柏尾通り、田村通り、保土ヶ谷通り、矢倉沢往還と制覇しています。

甲州道中の方はと言うと、ふじ大山道(上飛田給口), 府中通り、八王子通り、浅川口と来ました。

今回は、甲州道中からの大山道で、津久井通り大山道荻野ルート明治期をexplorerしたいと思います。


津久井通り大山道荻野ルートは、Wikiによれば、

甲州街道関野宿 - 名倉 - 日連 - 青田 - 鼠坂の関 - 沼本の渡し - 三ヶ木 - 関 - 長竹 - 韮尾根 - 半原 - 馬渡 - 平山 - 中荻野 - 下荻野村新宿 - 八王子通り大山道を経て大山へ

ですが、このルートは明治期のルートで、江戸期は、韮尾根から、

韮尾根 - 志田峠 - 田代 - 打越峠 - 中荻野、以降明治期と同じ

のようです。江戸期ルートは熊がいる山を行くので、今年は避けた方が良いかな。

ということで、今回は明治期です。

しかしこのルートは何度か走ってるんですよね。

でも、大山道としては実走していないので、好きなコースでもありますし、行くことにします。

藤野駅まで輪行、、、と、思ってたんですが、ボーッとしてたら過ぎてまして、上野原で降りました。

甲州から大山に向かう参詣者のケースということでスタートです。

新町の二又は旧道を選び、甲州最後の一里塚、塚場の一里塚です。

塚場の一里塚

この先、桂川に向かって下り始めた所に、諏訪番所があります。

諏訪番所

説明によれば、男は上り下り不要、女は江戸へ入用、下り不要とあります。男はとにかく不要だったんですね。

女の方は、ちょっと説明がよく分かりません。江戸に向かう時は必要で、下りは不要という意味なら、当時は京都に向かうのが上りですから、江戸は下り。矛盾します。現代のように、もうこの頃は、江戸に向かうのを上りとしていたなら、上りは必要下りは不要ということで筋が通りますが。

諏訪番所を通過して、境川橋を渡って、河岸段丘を上り名倉に入ります。

今日はこの繰り返し

上り切る直前で石楯尾神社への分岐に入り、石楯尾神社です。

石楯尾神社

延喜式式内社で、文徳実録という国史に、857年、従五位下の神として官社になったことが記載されています。三増合戦では信玄に焼き討ちに遭っています。

この先、秋山川を秋川橋で渡り、また、河岸段丘を上って日連に行きますと、ここに、津久井通り大山道宮ヶ瀬ルートとの分岐があります。

右が宮ヶ瀬ルート

行くなら冬で、且つ、熊が多い今年ではないですね。何れにせよ、杉峠は通行止めですが。

青蓮寺、1222年寂の宥珍が中興開山。後北条氏家臣津久井三十六騎の一人、守屋左太夫の菩提寺で日連神社の別当。

記事は探し出せませんでしたが、目の前を武田軍が通った訳です。守屋氏の菩提寺で、館も隣りにあったと言われます。この道筋の先、石楯尾神社は焼かれましたから、ここも当然、やられたでしょうね。

日連神社、創建詳らかならずも、鰐口は応安7年1394年に藤原友守が奉納したということで、その前には既に存在していたということになる

青田から鼠坂関までは湖底に沈んでますから、勝頼橋を渡り、相模湖大橋を渡って、本日3回目の河岸段丘を上って迂回し、鼠坂関です。

鼠坂関、1638年設置、相模国から他国への食料の流失防止が目的で、口留番所、穀留番所と呼ばれた。地元の林業や農業に従事する者達以外は、通行手形が必要だった

今日は冬ですから、下まで行ってみましょう。

石碑が倒れてました。大山道道標だったらな、と思って直そうかと思いましたがとてもとても。
こんな感じの道が続いてます

そして、

ここが、固定に沈んだ津久井通り大山道です。ズームアップしてご確認頂ければと思いますが、正面に船着き場があります。そこまで津久井通り大山道が続いていたのです。

ほら、この通り。上の写真の撮影地点と向きです。

今昔マップより

本日2回目の関所です。通行手形が無いと通過できません。逆に言えば、通行手形を持つことができた人のルートと言えます。

沼本の渡しに向います。

こちらも冬ですので下まで行ってみましょう。

今昔マップより、左の古地図を横切っている道が津久井通り大山道荻野ルートです。その下、十字マーク部分が巾着袋のようになってますがここが沼本の集落でした。右の地図と比べると一目瞭然で、ほぼ全て湖底に沈んだのです。
坂の下り口に南無地蔵大菩薩
向かって左は高尾道、右は大山道じゃないでしょうか。高尾道は、阿津から寺尾の渡し、赤馬、大平、梅木沢、高尾へと行く道です。
更に下ると、左はお稲荷さんですね。右は何でしょうか。
二十三夜塔など、固定に沈んだ集落にあった石碑が集められていました。
こちらは雨降り地蔵だそうです

そして、固定に沈んだ津久井通り大山道と沼本の渡しです。

沼本の渡し

証拠です。

今昔マップより

本日4回目の河岸段丘上りをして、今の道志橋で迂回して対岸の三ヶ木に向かいます。

大山道と津久井道の追分、津久井通り大山道は撮影者である私の背後から来てここを右です。津久井道は左。

そして三ヶ木鎮守、

三箇木神社、1308年創建

もうここは4, 5回来てますが、やはり、巡見道(上記にリンク)での話が忘れられないですね。

三ヶ木から青山に入った所で、青野原への分岐となりますが、ここに、大山道道標があります。

左大山道

青山村関まで上りです。ここが地味にキツい。

いつものように、せき製麺で大休止です。

うどん、美味いです。せき製麺の "せき" は地名ですね。

そして、青山神社です。ここに、お不動さんが乗る大山道道標があります。

青山神社、1371年の創建

お不動さんが乗る大山道道標、と言っても台座は崩壊してますね

裏を見ると大正十二年でした。左は庚申塔ですね。

この先、橋を渡って長竹に入り、串川駐在所から串川方面に下りますが、その下り口に、お不動さんが乗る大山道道標があります。

東大山道、西上野原道

来迎寺を過ぎ、串川を渡って、本日5回目の河岸段丘上りでR412に復帰します。

韮尾根で、津久井通り大山道荻野ルート江戸期と分岐し、いつものようにオギノパンで小休止です。

あげぱん

いつも苦労する坂を逆に下り、半原です。

半原神社、1569年の三増合戦の際、信玄は、ここの東正面の向山に諏訪神社創建し、勝利を祈願したが、その後、山崩れが発生し、現在地に遷座した

その後、馬渡橋、平山橋と渡り、

平山橋

沓掛坂の旧道を上って稜線を越え荻野に入り、

上荻野の石塔群
津久井通り大山道、あるいは甲州道の一里塚
この辺りで大山が顔を覗かせます
そして荻野神社

この後、荻野新宿で八王子通り大山道に合流し、完走です。


如何でしたでしょうか。

津久井通り大山道荻野ルートは、基本的に、甲州道中の相模国部分、小原宿、与瀬宿、吉野宿、関野宿から大山に向かう道であり、上野原宿など、甲州の相模国側から大山に向かう道でもありました。小仏峠を越えた武蔵国の相模国寄りの場合は、浅川口大山道を利用したと思われます。

それに加え、むしろこっちの方が多いと思いますが、津久井の人々が、大山詣りする道筋だったのだと思います。

しかし、最低でも、鼠坂関を通過しなければなりません。通行手形が必要です。

通行手形を持ってない場合、どうしたんでしょうか。

1つは、上記、"津久井道番外編、甲州道中裏街道" にも書きましたが、鼠坂関近くの宿屋に幾らか払って通してもらう、という手と、もう1つは、甲州道中小原宿→千木良→赤馬→寺尾の渡し→若柳→阿津→沼本の渡しという迂回ルートを行く手です。

まぁ、何とかなったということですかね。

阿津の、津久井通り大山道と迂回ルートの追分。センターラインの無い道からここで津久井通り大山道(センターラインのある道)に合流し、写真の奥側が沼本の渡し、鼠坂関はずっと後ろです。

もう一つ、今回ご紹介した寺社、石楯尾神社、青蓮寺、日連神社、三箇木神社、青山神社は皆、1300年代までの開山、創建でした。

津久井は山ですが、意外に古くから開かれていたんですね。

調べると、津久井は嘗て、奥三保、と呼ばれていて、保、は、平安後期に成立した行政単位で、国衙領内に設置されたとのことです。

記録によれば、奥三保は、1323年、北条貞時の所領であったことが分かっています。

だからなんですね。

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