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浅川口大山道

大山道シリーズ、これまで、

と、来ましたが、今回は、浅川口大山道です。

浅川口大山道とは、甲州道中の浅川を起点とした大山道のことですが、甲州道中の浅川とは、

今昔マップより、1894〜1915年と現代のの高尾駅周辺、京王線は未だ無いですね。

この地図をご覧頂いてお分かりの通り、今、"高尾" 駅と呼ばれている駅は嘗て、"あさかわ(浅川)" 駅と呼ばれていました。

この辺りは、"浅川" という地名だったからで、甲州道中のここで接続する大山道だから、浅川口大山道と言います。

道筋は、甲州道中と町田街道との接続点から、町田街道あるいは旧町田街道(以下、(旧)町田街道), 大戸、川尻八幡宮、津久井道の原宿、鮎釣街道、相模川の小倉の渡しで、ここからはナント!!!陸路ではなく相模川を船で下り、田名、あるいは当麻、磯部の渡し付近で、八王子通り大山道、あるいは府中通り大山道から大山に向かっています。今回船には乗れないので、崖線上の古道を行きますが。

しかし、

高尾から大戸までの(旧)町田街道は、横山党シリーズ、

絹の道シリーズ、

で、走ってますし、磯部、当麻は、武田信玄小田原攻めで走っていて、新鮮味に欠けます。

さてどうするか。

浅川口大山道、で、検索すると、頻繁に出てくるのが高尾山大山道です。大山橋もあり、古地図を見ると薬王院から大山橋、455mピークを経て、南東の尾根伝いに梅木平に向かう道のようです。

今昔マップより、右の現代地図のほぼ中央、〇がある所が大山橋。現代地図では道がありませんが、古地図では、この大山橋を経由する薬王院から東南への一本点線徒歩道が確認できます。これが大山道です。梅木平手前で一際太い両実線道に出合いますがこれは現在のR20ですね。

梅木平からは草戸峠を経由して大戸に向かい、浅川口大山道に接続します。

今昔マップより、右の現代地図左下の〇が草戸峠です。梅木平から南へ一本点線徒歩道の谷の道を行き、草戸峠手前で東の尾根に上がり、草戸峠から境川沿いの道に下り東へ進み大戸へと行きます。

この道は、逆向きでしたが大戸から草戸峠へは行ったことがあります。

が、高尾山から草戸峠までは未踏破です。薬王院から梅木平まではさすがにチャリは憚れるので、梅木平から東を行きましょう。

◆□■◇

高尾駅まで輪行、甲州道中と町田街道の交差点、ここが浅川口大山道の起点です。

左奥へ進むのが浅川口大山道、あるいは(旧)町田街道で、右が甲州道中

このまま畠山重忠も通った(旧)町田街道を南下するのが浅川口大山道ですが、今回は上記の通り、R20を梅木平まで。

Google Maps では関東綱五郎住宅跡ですが、ここには上椚田口留番所がありました。甲州道中は高尾から西浅川の二股を右、が、古い道筋だというのはご存じの方も多いと思いますが、入り鉄砲に出女の取締が厳しい小仏関所を避ける為、こちらのルートを使う人も多かったようです。こちらのルートは武相国境まではほぼ今のR20と同じ道筋で、そこから南西に赤馬、千木良に向かう道がありました。正に、甲州道中裏街道です。幕府もこれを見逃すはずがなく、この道筋のここに番所を設けたのでした。

梅木平林道に入ります。

割りと直ぐにグラベルになります。に、しても、寒いんですね。落ち葉は霜でパリパリ、道も全体に霜が下りて真っ白です。

程無く、東の尾根へ上がる道との追分に大山道道標がありました。やはりそうでしたか。確かに、この道は、高尾山からの大山道だったんです。

右が梅木平林道、このまま進むと峰の薬師です。左に上がる道が草戸峠、大戸を経由し浅川口大山道に通ずる道です。
見て下さい、ほら、左大山道と彫ってありますね。右は三井道で、方向は合ってます

東の尾根に乗り、

ここまでなかなかの斜度で細いトラバースだし、勿論チャリは押し、時々担ぎなんですが、キツかったですよ。

草戸峠から、

草戸峠、チャリの向きは逆です
高尾山も見えます

境川の谷に下り、境川を下り大戸です。

下りた所に馬頭観音が。実は倒れてましたので起こして立て掛けて撮影しました。古道の証拠ですね。その右の山から下りてくる道を来ました。
大戸に向かう境川沿いの道、ここもうっすらと霜
子育て地蔵、彫った字が読めなかったので撮影しませんでしたが、このお地蔵さんの右側に道標がありました。"右高尾山近道 山道" とあるようで、正にその道を来たわけです。

大戸観音堂にも、"西 高尾山近道" の道標が。

"西 高尾山" は、読めますが。しかし、上記の通りの彫り字のようです。改めて、ですが、先程の子育て地蔵の道標、そしてこの道標からも分かる通り、ここ大戸から高尾山に抜けられるわけですね。ということは冒頭の上椚田口留番所を回避出来るということです。はい、つまり、このルートは、甲州道中裏の更に裏街道だったのです。
大戸観音堂

浅川口大山道に復帰です。

どんと焼き

神奈川県道48号線鍛冶谷相模原線を行くと相原堺松風橋線との交差点に大山道道標を兼ねた馬頭観音がありました。

探しましたよ。”左大山厚木道” とあるようですが読めませんね。

先を行くと川尻八幡宮です。

1525年創建

また、浅川口大山道と参道線との丁字路にも大山道道標がありました。

これは、"大山みち" の文字が読めます、左の方です

先を行きます。原宿で、津久井道と出合いますが、そこにもお不動さんが乗った大山道道標がありました。

これぞ、大山道道標

先を行きます。GoogleMapsでは、ここからは、鮎釣街道とありますね。

新小倉橋を跨ぐ手前で、崖線下に下りる道があります。古道が残っているんです。

コンクリートです。相当な斜度です。乗れません。

神奈川県道510号線長竹川尻線まで下り、明王坂を更に下り、ここにもショートカットする古道が残っています。

こちらは乗れました

谷津川と相模川の合流点に、お不動さんの座像があり、ここが小倉の渡しです。実際は、ここから対岸に渡り、河岸場から乗船したようです。

左が首は無いですが不動明王座像
小倉の渡し場跡
渡った先はこの辺り、河岸場があった。今はデイキャンプ。

はい、船には乗れないので、ここからは相模川が作った河岸段丘の端っこの古道を田名まで行きます。

鮎釣街道の崖線下に下りた地点まで戻りここからリスタートです。大島の集落に行くと、諏訪明神があります。

一の鳥居
諏訪明神

覚心師によって永正年間(1504年〜1521年)に創建と伝えられると共に、延喜式の石楯尾神社の論社でもあります。

その先、大島坂の下り口に祠があり覗いてみるとナント!不動明王が!いやいやこれは期待してなかったので嬉しい!

やはりこの道も大山道だったか!

大島の東寄りには1157年に再建され、その際、10歳だった頼朝が松を植えたとの伝承が残る日々神社があります。

嘗て日の宮と呼ばれていた、と、なると、西党を追った私としては、気になりますがまぁでもエリアが違いますかね

ここら先は大山道との関連を示すものも無ければ、諏訪明神のような特筆すべき古社古寺も無く田名に到着です。

河岸段丘下に下りる前の相模川の向こう、大山方面の眺望

田名に着いたら宗祐寺の脇を下り、集落の中心部には799年創建とも言われる八幡宮があります。

田名八幡宮
その先で八王子通り大山道が合流します。

そして今日のゴール、高田橋、久所の渡しです。

高田橋袂にある久所の渡しの碑
でも迅速測図を見るともう少し下流のこの辺りと思われます

しかし、大山道には、"くぞ" という地名が多いように思います。六本松通り大山道でもありました。五所八幡宮のある所です。

■◇◆□

如何でしたでしょうか。

梅木平林道から東の尾根に上がる古道、道標を兼ねた地蔵も残っていて、ここをexplore出来たのは非常に良かったです。

が、この道はチャリ付きだと相当にキツカッタですね。お勧めはしません。

しかしその後小倉の渡しまでは道標が続いていて時空を超えたexploreが出来ました。

期待してなかった、相模川左岸河岸段丘edge古道に不動明王があったのも嬉しかったです。

これまでご紹介した柏尾通り大山道と田村通り大山道、六本松通り大山道、保土ケ谷通り大山道は東海道を起点とした大山道でしたが、甲州道中を起点とした大山道もあったわけですね。

そう考えると八王子通り大山道も甲州道中の八王子口が起点、府中通り大山道も甲州道中の府中口が起点の大山道ということになります。

帰りは八王子通り大山道で橋本まで戻りました。

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