見出し画像

津久井道、橋本から甲州道中吉野宿まで

津久井道シリーズ、前回は、大山道分岐から小山内裏公園の鮎の道までexploreしました。

津久井道は、津久井の生糸や絹織物、柿生周辺の黒川炭などの炭、登戸宿の職人達による日用品を、江戸に売りに行く道でした。

また、多摩川の将軍専用献上鮎を江戸城に運ぶ道でもありました。多摩川の鮎が将軍専用献上鮎となった1843年以降は、相模川の鮎が、庶民に売られるようになり、その鮎は、津久井から小山内裏公園の鮎の道を通って府中からは甲州道中で江戸へ運ばれていました。

さて今回は、小山、橋本から先、津久井の山を通って甲州道中吉野宿まで、exploreしたいと思います。

□◆◇■

橋本まで輪行、まずは原宿村を目指します。

原宿村は風土記によると、

"村内に十(ママ)條の道あり道幅凡二間、東方高座郡上相原村より來り、村内を經る事九町許にして上川尻村に達す"

とあって、

上相原村~原宿村~上川尻村

という道筋、恐らくは津久井道が記されています。

原宿から上川尻方面の津久井道

また、

"編戸の民相對して軒を並ぶる事、四十四戸、往古より市を立て米穀及び庶物を賣買すること久保澤と相對抗して每月七の日を定日として市を立てり頗る賑はへり"

とあって、市が開かれ大変賑わっていたことが分かります。

原宿市の守り神、市神社

上記風土記の、"庶物" ですが、風土記によれば、津久井県の産物は、

  • 漆: 縣中村々に產す年々貢税とす

  • 川和絹: 世に所謂川和縞是なり、中野村の内、川和里の産なるが故に、是名を負へり、比隣の村里是に傚て、多く織出せり

  • 柏皮(薬): 澤井村、佐野川村邊の山に産す、海邊の漁夫、漁網を染る是を佳とす

  • 桃: 葉山島村より産するを佳實とす

  • 蕨: ところどころの山より多く産す

  • 香蕈(しいたけ): 志比多計、靑根村邊の山より多く產す

  • 牡丹石: 靑野原村に產す本草綱目に井泉石と見へたるは卽是石の類か

  • 貝石: 道志川に產す

  • 魚類: 此餘川中に産する魚類◯鰷阿由、相模川及五川より産す、道志川より産するもの一種の佳品にて、其形も亦少しく異にして、上腮頗る長くして曲れり、故に道志川の鼻曲りと呼て、賞美し、歳每に一千七十五を貢獻すと云、按ずるに長衡が西京賦に所謂大口、折鼻などと見えたるは、卽かゝる鰷の形の類を云ふものならんか、◯[魚衆]也麻女最多して且佳なり

ですから、これらの産物が売買されていたのだと思われます。前回mentionした絹、鮎も登場してますね。

先を行きます、上川尻村です。

風土記によれば、

"村内に一條の道津久井往還にて、甲州への通路なり東西に亘れり、東方下川尻村より來り、村内を經ること廿四町にして西方中澤村に達す道幅凡二間"

とあって、

上相原村~原宿村~下川尻村~上川尻村~中沢村

という道筋で、ズバリ、津久井往還と呼ばれています。また、津久井が終点ということではなく、甲州への道筋と意識されていたんですね。

川尻から中沢方面の津久井道

また、

"小名久保澤の一區には民戸相對して軒を並る事五十、是所には古ヘより市を立て米穀及び庶物を賣買す每月三の日を定日とす是故に近隣の村々より群聚していと賑はへり"

とあって、原宿村同様に、市が立ち、大変な賑わいだったようです。

温泉坂を下り切った所にある久保沢観音堂の市守神社

原宿村は7日、上川尻村は3日が市の日ということになり、競争していたようです。

先を行きます、津久井湖畔まで、ここは中沢村です。

ここで津久井道消失、ダムの底。正面は荒川。

風土記によれば、

"一條の路係れり、東方上川尻村より來り西方太井村に達す、村内に亘ること十三町道幅凡二間、是は津久井街道にして甲州への通路なり"

とあって、

上相原村~原宿村~下川尻村~上川尻村~中沢村~太井村

という道筋で、やはり、津久井街道と書かれ、甲州街道でもあった、ということです。

ここは上記写真の通り津久井湖によって、ダムの底に沈んでいますから、神奈川県道513号〜R413と大きく迂回です。

対岸の荒川村に来ました。

振り返って撮影、津久井道ここで復活、正面は先程の中沢

風土記によれば、

"渡船場一所、荒川より中澤村に達す、是を荒川の渡と呼ぶ此渡船、當村、及び中村澤(ママ)の持なり 冬より春までの間は土橋を架す、長六十間、幅九尺(中略)津久井街道にして甲州への通路なり"

とあって、中沢村とここ荒川村の間は渡船で渡っていて、渡船を含め、津久井街道で甲州への通路だったとされています。

南下し太井村です。

風土記によれば、

"一條の路係れり、東方中澤村より來り、西方中野村に達す、村内を經ること十町許道幅二間程、是は津久井街道にて甲州への通路なり"

とあって、

上相原村~原宿村~下川尻村~上川尻村~中沢村~太井村~中野村

という道筋で、同様に、津久井街道であり甲州街道であり、と書かれています。

太井から中野方面の津久井道

先を行きます、中野村です。

風土記によれば、

"一條の街道東西に係れり、甲州への往來なり 東太井村より來り、西、三ケ木村に達す、村内に亘る事十六町三十間道幅九尺街道の東寄りの小名を川和と呼ぶ、此所は民家相對して軒を並ぶ事八十二戸、往昔は每月六度の市を立て、世に所謂川和縞其外庶物を交易して土地も賑はひしが、延享年中より市廢して今は寂寥たる村落なり"

とあって、

上相原村~原宿村~下川尻村~上川尻村~中沢村~太井村~中野村~三ヶ木村

という道筋で、やはり、津久井街道が触れられ、甲州への道筋とされています。

(中野の津久井道、撮影し忘れ。東屋撚糸店、蚕業取締所が無くなっていたショックか。)

また、ここでも市が開かれていたことが分かります。

既述のように、1600年代前半に、先の原宿村と下川尻村で市が開かれました。

そして、1713年に、上下川尻村から、ここ中野村で市が新たに開かれることに対して反対の訴えが出ていますから、ここ中野村の市は、原宿村、川尻村の百年程後、ということになります。

そして、川和縞ですが、1781〜89の天明期に出てきたものですので、風土記の、"延享年中(1744〜1748)" というのは間違いだと思われます。

川和縞は、縦糸は生糸、つまり、絹で、しかし、横糸はくず糸を撚り合わせたもので、だから素朴な風合いで普段着として、最初は津久井街道を通って甲州に売られ、その後、京都の商人の目に止まり京都大阪で人気が出て、最終的には江戸でもたいそう人気が出たそうです。

はい、ということで前回津久井道は津久井の生糸や絹織物を江戸に売りに行く道だとし、実際、柿生・竹花(宿)には絹問屋松やが、登戸宿には東京から絹問屋が生糸を買い付けに来ていた痕跡を訪ねましたが、津久井の生糸や絹織物織物とは、少なくともその一部は、ここ中野村の川和縞だったということが分かりました。

津久井道で甲州に入り、諏訪に出て、中山道で京阪に行ったこの道も絹の道、津久井街道逆走で江戸に向かったのも、江戸期までの絹の道ですね。

その後、ご存知のように、絹の道は横浜に向かう道となります。

が、横浜港から海外に輸出されたのは生糸であり、絹織物ではありませんでしたから、横浜港開港以降は衰退していったのだと想像します。生産した生糸を、川和縞に向けるより輸出に向けた方が、経済的だったからです。

そしてここ中野村には中野神社がありますが、ナント!!!, 承和2年(835年)の創建で、祭神は、御穂須々美命と聞いたことない神様ですが、建御名方命と同神とも言われていて、この津久井道が甲州への道筋であることを示唆しているのではないでしょうか。甲州道中の終点は諏訪ですから。

拝殿に人が集まってました。なので、邪魔は出来ず、これ以上は近付けませんでした。

また、相殿に栲幡千々姫命があり、"幡" からも分かる通り、機業、織物の神様です。ここにも養蚕です、そりゃそうですね、川和縞ですから。

先を行きます、又野村です。

風土記によれば、

"一條の道係れり東方中野村より來たり西方三ケ木村に達す、村内に亘ること十町餘道幅二間程、卽是津久井街道にて甲州への通路なり"

と、

上相原村~原宿村~下川尻村~上川尻村~中沢村~太井村~中野村~又野村~三ヶ木村

という道筋で、同様に、津久井街道が甲州街道として書かれています。

うっすらと上りが続きました。又野から三ヶ木方面の津久井道

先を行きます、三ヶ木村です。

風土記によれば、

"當村には縱横に數條の道係れり、凡縣内四方の往來津久井街道と唱へ、甲州への通路なり、皆此里に由らざるものは寡し、先其槪を謂はゞ南北に亘る大路は南方靑山村より來たり、村北に至て東西の一條に合す、村内を經る事十七町許道幅二間程、即其東西の一條亘り九町程、も皆隣里への往來なり東方は又野村に達し、西方は道志川を渡て、寸澤嵐村に達す"

とあって、

上相原村~原宿村~下川尻村~上川尻村~中沢村~太井村~中野村~又野村~三ヶ木村~(道志川)〜寸沢嵐村

という道筋で、やはり、津久井街道が甲州街道として書かれています。

また、南北の道は青山村からということで、こちらは道志道になります。

三ヶ木から寸澤嵐方面の津久井道、左から合流してるのは道志道

この道志みちは暫く道志川を遡り、道志村からは山越えで谷村に行き着きます。正に、甲州街道です。

先を行きます、が、ここも津久井湖によって本来の道筋を行けません。

三ヶ木から寸澤嵐方面の眺望、津久井道はダムの底

道志道〜R413と大きく迂回し寸沢嵐村です。

津久井道復活、寸澤嵐から三ヶ木方面を望む

風土記によれば、

"当国厚木通り、吉野宿へかゝり、甲州への往来なり"

とあって、

上相原村~原宿村~下川尻村~上川尻村~中沢村~太井村~中野村~又野村~三ヶ木村~寸沢嵐村~吉野宿

という道筋で、ここでようやく甲州入りするわけですね。

ここから先は、鼠坂を経由して吉野宿なんですが、

鼠坂関の説明板と新し目と思われる鎌倉街道道標
新し目と思われる鼠坂関の碑
本来の津久井道の道筋には新し目と思われる甲州路の碑

相模湖が出来たので本来の道筋は行けません。

今昔マップより、鼠坂~吉野宿の津久井道今昔。青矢印間に津久井道、相模湖の底。

ということで、神奈川県道517号奥牧野相模湖線で峠越えし、篠原〜大久和〜馬本〜日蓮村杉〜日蓮村と大きく迂回です。このルートも古地図にある古道です。

一つ目の峠手前
篠原まで下り切った後の二つ目の峠手前、11%でした。
二つ目の峠
この高低差
鼠坂から日蓮村へと続く津久井道、今はダムの底ですが、その日蓮村からの勝瀬橋から吉野宿を望む
甲州道中吉野宿高札場、甲州道中に合流です。ここから江戸期の甲州道中で与瀬宿まで戻り、相模湖駅から輪行で帰りました。いやはや、この甲州道中がキツカッタ。上りが。

さて、これまでを振り返ると津久井道は津久井から江戸への道筋であると同時に、津久井から甲州へと続く道筋で、言わば、甲州道中裏街道のような位置付けであったことが想定されますが、それを裏付けるような話がありまして、江戸から西進する場合なら、甲州道中の小仏関所を避ける為、東海道を大磯まで、今度は東海道の箱根の関所を避ける為、大磯から北上し、伊勢原、津久井と来て、津久井からは津久井道で吉野宿に入り甲州道中を行って、上野原、吉田、山中、三島と甲斐路を行って東海道に戻るルートがあったと言います。

いや、津久井道というとその名の通り、津久井が起点でその先は江戸だろうと思っていて、実際、一回目のexploreではその通りの痕跡だったんですが、二回目の今回は、津久井と甲州の結び付きの強さを感じさせられました。

津久井道のもう1つの顔は、甲州道中裏街道ですね。

尚、本記事は、以下のサイトを大いに参考にさせていただきました。いつもお世話になってます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?