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日本のシルクロード、半原越

日本のシルクロードシリーズ、これまで、

と、来ましたが、今回は、半原越です。

神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷は、嘗て、養蚕が盛んでした。

今昔マップより、小鮎川右岸のなだらかな斜面に桑畑(YとL)
画面手前の斜面や、画面中央、道路の向こうの民家が点在する辺りはなだらかでここにマルベリーフィールドがあった。

蚕の餌となる桑を植え、蚕を育て、繭が出来たら糸を作り、布にしますが、煤ヶ谷では繭までで、生産した繭は半原越を越え、半原に出荷していました。

半原越、越は同じ位置ですが、越までは異なりますね。古道は川を遡ってます。

半原にも桑畑があって、養蚕もして、江戸初期には生糸などが年貢になっていたほどでしたが、1800年代に入ると撚糸が主となり、煤ヶ谷から繭を仕入れていたのです。

今昔マップより、半原もご覧の通り、中津川右岸のなだらかな斜面に桑畑

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伊勢原まで輪行、津久井通り大山道宮ヶ瀬ルートを北上します。

東名を越え、津古久峠を経由する大山道への分岐も越え、第二東海道も越えると、いよいよ長閑な景色となります。

大山

やがて七沢に至りますが、ここは上記リンクの通り、以前訪れています。

程無く、煤ヶ谷です。煤ヶ谷は、小鮎川沿いというのが最も大きいと思いますが、川 = 水神 = 蛇 = 龍への信仰が盛んです。

まずは緑小学校脇の中津川支流門原沢廃道に宇賀神様があるとのことで訪れますが、、、

廃道は見つかりましたが

この通りで先に行けず、宇賀神様は見つかりませんでした。

謂われは不明ですが、この廃道は門原沢沿いの道ですから、立地からしても恐らくは既述の通り、水神関係と思われますが、蛇ですから、養蚕守護神でもあったのだと思います。

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昔、煤ヶ谷は谷太郎部落の天王めいの深い淵には、身の丈二十メートルもある雄龍が住んでおり、二キロほど下った寺鐘の淵にも優るとも劣らない大きな雌龍が住んでいた。二頭の龍は仲が良く、雨を降らせては会う機会を作っていたが、やがて結婚して、天に昇ったのだそうな。

時移り天保のころ、日照りが続いて村人は天を仰いだが、ただの雨乞いでは一向に雨が降らなかった。このとき、ある若者が、雌雄の龍を作り、天王めいと寺鐘の淵に沈めてはどうかと提案した。皆は一も二もなく賛成し、そのようにすると、途端に三日三晩の大雨が降ったという。
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これは煤ヶ谷の龍伝説です。

天王めい、は、天王前、で、天王とは牛頭天王、今の八坂神社です。

八坂神社
天王前の淵

また、雨乞祭では、八幡神社を出発点とし、雄雌の龍は、そこで別れ別れとなり、それぞれ、雄は天王前に、雌は寺鐘に沈められるのです。

八幡神社、治承年間(1177〜1180)に、当時の領主、毛利太郎景行勧請、建暦年間(1211〜1212), その子、毛利小太郎同小次郎が、現在地に移した。

大雨による小鮎川の水害を、雄雌の龍の逢瀬によるものとする伝説ですね。

それを逆手に取って、日照りの時は、村人がそれを再現するわけです。

何れにせよ、水神関係ですが、龍、蛇、ですから、養蚕守護神としても捉えられていたかもしれません。

龍信仰の最後です。神奈川の県木にもなっているしばの木がありますが、その根元に、蛇神が祀られています。

蛇神様

煤ヶ谷の最後です、正住寺です。

正住寺、三ツ鱗、後北条加護の寺、ですね。

ここは養蚕には無関係、というか関連を見つけられませんでしたが、境内掲示によれば、仏果山は、室町時代の始め、ここ正住寺を開山した仏果禅師こと天鑑存円上人が座禅修行した山とのことです。

そう言われれば、この辺の山は、仏果山、経ヶ岳、華厳山と、修験道と思われる山が多いですね。ゴールは大山でしょう。

さぁ、半原越です。登りますよ。

皆さんご存知の通り、私は古道に忠実に行きたいのでこの道を行きます。

現代地図をご覧下さい。スクリーンショット撮った時に立っていた位置はキレイに尾根に乗った道でこちらが古道ですが、ご覧のように途中からは徒歩道、山道になっています。その東、谷側にも道があり、こちらが現代の一般に使われる車も通れる道です。古地図によればこれら2つの道を繋ぐ尾根道からトラバース気味に斜面を下りる道がありますね。

が、ご覧の通り、、、

廃道と化していて先にいけません。

戻って地図通りに行きます。

獲得標高: 299m
登坂距離: 4.2km
平均勾配: 6.2%
同上りのみ: 10.2%

いや、キツかった!!!

何台かに抜かれましたが、彼らはクルクル回ってました。私のチャリは30年前のパーツのクロモリですからギヤが重い!!!彼らにしたらアウターのリアは2段目で漕いでるようなものです。我ながらよくやった!!!

半原越

峠を越えたらあっという間に半原です。

嘗ての桑畑の真ん中を通る古道を行き、撚り糸発祥の地碑です。

撚糸発祥の地碑、右は道祖神、左は水神様

ここに水神様も祀られていますが、これは、中津川から引いた用水路に設置した水車が無事に機能するように、との願いから来ています。水車は撚糸器の動力でした。

撮影者の私の背後に中津川。中津川から水を引いてご覧の水路を設けました。画面右のガードレールに囲まれた部分です。道路に並行しています。

1807年頃に、小島紋右衛門が、八丁式撚糸機を購入、半原で撚糸業が始まりました。

恐らく撚糸盛んなる時の建物
これも、撚糸工場か

"糸の町、半原の歴史" によれば、出荷先は八王子や江戸だったようです。

早速4軒の業者が生まれ、天保(1831〜1845)には8軒に、嘉永(1848~1853)には、水車利用が本格化していったようです。

以前津久井道でお話しましたが、江戸時代はとにかく全てのものは江戸に集まってました。半原の撚糸も同様でしょう。この辺りの場合、直接江戸ではなく、最大の集積地、八王子に一旦集められ、その後、甲州道中で江戸に行っていました。

しかし1813年頃からは、横柄な八王子商人に嫌気を指し、津久井の人々は、津久井道で直接江戸に出荷していたようです。

1859年に横浜が開港すると、商売相手がまた変わりますから、八王子鑓水商人に出荷するようになったと思われます。が、前回同様、それが次第に直接横浜に出荷するようになっていったと思われます。この場合、柿生から神奈川道で神奈川湊、横浜道で横浜港と行っていたのだと思います。

しかし明治5年(1872)に新橋横浜間で鉄道が敷設されましたから、再び柿生より津久井道を先に進み、どうでしょう、世田谷辺りで品川道に乗ったのかもしれません。品川からは電車輸送ですね。この時、登戸の大道橋で仲買人そくざしに卸したんでしょうね。

その後、明治22年(1889)に甲武鉄道が八王子〜新宿間を開通してからは、再び八王子に集まったはずです。

と、大きな流れを書きましたが、半原の撚糸出荷業者が直接、というよりは、恐らくは、中野に持っていったんでしょうね。中野は川和縞で賑わってましたし、ここには市が立っていましたから。もう無くなってしまいましたが、東屋撚糸店という近代建築も残っていました。

ということでオギノパンまでの激坂を行かなければならないということが判明したわけです。

半原でランチ込みの大休止後、オギノパン前激坂に挑みましたよ。証拠としてとりあえず撮影したので構図はグズグズですが。一口食べた後だし。半原越に比べたら楽でした。

オギノパンで再びの小休止後は、串川の谷まで下った後、再び丘を越え、先日訪問した雲居寺も過ぎ、

峠を越えて

中野に至り、本日のゴール、中野神社です。

今回で4回目かな

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如何でしたでしょうか。

煤ヶ谷は良い所でしたね。

半原は2回目でしたが、のんびりと、当時の撚糸工場と思しき建築を回れたのが楽しかったです。

さぁこれで、武蔵野台地と相模原台地の養蚕痕跡exploreは終わりです。〆をらどうするか、横浜とつくばの蚕影神社本社にしようかと思ってます。

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