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日本のシルクロード、中津台地

日本のシルクロードシリーズ、これまで、noteでは、

と、来ましたが、今回は、相模川と中津川の間の中津台地をexploreしました。ここも、迅速測図では桑畑だらけ、です。

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本厚木まで輪行、八王子街道を北進、環境センター入口の信号を過ぎたらお誂え向きのY字路、古道マニアならピンと来る所で右に古道を取ります。

R246, 大和厚木バイパスを潜り畑の中の道。左を向けばほらこの絶景でした。

雨降山は流石!雲がかかってます。

程無く、中依知の集落に入りまして、そこに中依知浅間神社があり、境内社に蚕影神社があります。

蚕影神社、左に浅間神社の鐘楼の庇が映り込んでます。この鐘は1350年製作です。

この蚕影神社の縁起は調べ切れませんでしたが、昭和50年頃まで、中依知では蚕影講が営まれていたそうです。割りと大規模で、下依知、金田の人達も集まったそうです。

今正に通ってきた道筋ですね。金田、下依知にも寺社はあるし桑畑だらけなのに養蚕痕跡が無いなと思ってたんですが、こういうことだったんですね。

相模川右岸の河岸段丘エッジ道古道を快適に進みまして、関口の集落で日枝神社を訪問です。ここにも、境内社に、蚕霊神があります。

恐らく左の新しい石塔がそれです。右は金毘羅さんのはずです、象頭山、と彫られてますから。ここにこうして並べられているのは何か意味があるのでしょうか。あまり例は無いですが、金毘羅さんも蛇ですから養蚕守護神として崇められていた、ということでしょうか。

さて、道筋は相模川右岸河岸段丘エッジ道古道から、八王子街道となります。暫くし、上依知の集落に入りますと、大山道と出合います。そこを右なんですが、いやはや、スゴイ下りです。しかも一直線、帰りはここを上ります。上れるかな?!

下り切って右に宝泉寺があります。ここには、非公開ですが、金色姫があります。

山門と本堂

非公開だから外観だけ撮影しお参りだけしようと境内に入ったら、これがありました。

宇賀神

調べ切れてないんですが、蛇ですからね、養蚕守護神として崇められていた可能性もあるかもしれません。

そのまま低地を行きまして、浮島弁天です。

浮島弁天

依知の昔話、に、この弁天様に養蚕の無事をお祈りすると、夜、屋根裏でガタゴトといった鼠の音がしなくなり、覗いてみると大蛇がとぐろを巻いていた、弁天様の化身がお守りくださったんだ、という話があります。

養蚕守護神として崇められていたんですね。

また、境内掲示では、この浮島弁天は相模川の中洲 = 浮島にあったが、この中洲が洪水の原因と見做され、明治初年に爆破されたが、その直後から、弁天様の化身(大蛇?!)が現れたということで、今のこの地に建て直したということでしたが、明治13〜19年の迅速測図に描かれてますね、この弁天様。

歴史的農業環境閲覧システムより、迅速測図で十字マークの上に鳥居マーク、これが浮島弁天です。左の電子国土の鳥居マークは今の位置。そして、八王子街道は中洲を上手いこと利用してることが分かります。

今来た道を八王子街道と大山道の交差点まで戻ります。はい、先程の激坂を上ったんですが、、、残り50m程でギブしました。この坂、逃げ場がありません。直登なんです。いや、キツかった。足より腕、胸が。

歴史的農業環境閲覧システムより、十字マークを八王子街道と大山道の辻に持ってきました。その右を見て下さい。当時から直登だったんですね。

中津台地に上がったら大山道をそのまま西へ。下川入の集落に入ります。

ここには、田んぼの真ん中に稲荷神社があり、ここに、繭型の石があります。お稲荷さんに繭ですから鉄板の養蚕守護神ですね。

稲荷神社
宝珠型の石3つもあって分かりづらいですが、ブロックのような石の直ぐ右に2つあり、1つは欠けてしまっているのが繭型石です。

また、ここ下川入には、田んぼの真ん中におしゃもじさまが嘗てあって、しゃもじがうず高く積まれていて、繭が鼠に食われるとそれを借り、繭部屋に刺しておくと、しゃもじが蛇に変わり、繭を守ってくれるという言い伝えがあります。

田んぼ越しの大山、田んぼの中の祠は登伊多御前ですが、おしゃもじさまはこんなイメージでしょうか。

先を行きましょう、中津台地に再び上がります。今度は中津川左岸の河岸段丘エッジ道古道です。

程無く、蚕稲荷神社です。

蚕稲荷神社

蚕と付くお稲荷さんですから、初午の日は繭玉飾りをし、大いに盛り上がったことでしょう。

先を行きましょう。なかなか良い風情の道です。

古民家山十邸
龍福寺、冒頭の写真はここから撮影しました。
原箕輪から箕輪耕地を望む

角田の集落に入りまして、子の神社です。ここも県道からの上りが凄まじく、最後は押しでした。

子の神社

境内掲示によれば、この神様は古くから養蚕守護神として崇められていたそうです。

繭を食べてしまう鼠が養蚕守護神とは?!ということなんですが、鑓水で事例がありますね。

鼠様、どうか、繭を食べないで下さい、あるいは、鼠は大国主の神使いで、大国主は蛇ですから、ということなのか。

平山橋で中津川を渡りまして、

その1、上流方向
その2、1925年完成のこの美しいトラス橋をご覧あれ!

渡河後は現道を行かず沓掛坂古道を。しかし、残雪に急勾配でまたしても押し!

しかし、振り返ればこの絶景

津久井通り大山道で厚木へ戻りつつ、養蚕痕跡を見ていきます。

津久井通り大山道は基本的に荻野川によって出来た谷を行く道です。

先程までの台地ではありません。一面の桑畑は無理。山間の少し開けた場所に桑畑を設けていました。

今昔マップより、左上から右下に行く両実線が津久井通り大山道です。所々にY + Lの桑畑が確認出来ます。

まずは田尻の蚕影神社なんですが、この通り、

この山中に神社があるはず

猪除けでしょう、金網が強烈に据え付けてあって諦めました。

先を行きまして、、、

津久井通り大山道と道中の石塔群、ここに、二十三夜塔がありました。二十三夜は勢至菩薩、金色姫の本地も勢至菩薩ということで、二十三夜のお月様は養蚕守護神でした。

清田谷の佐藤稲荷神社ですが、

佐藤稲荷神社

こちらもこの通りの荒廃振りで、倒壊の危険があるからでしょう、冊がしてあって諦めました。

先を行きまして原集落には、豪農で養蚕も盛んにやってた古民家岸邸があります。

岸邸

相当な、豪華な家です。繁栄振りが伺えます。

先を行きましょう、中荻野の蚕影神社です。

蚕影神社

社に残る木札には、"蚕安全穢悪退散、夜守日守幸賜、豊受姫大神一宇所願祈所" と書いてあるそうです。なら、豊受神社ですね、蚕影神社ではなく。古事記では、神産巣日神は、豊受姫から五穀・養蚕の道を受けたといいますから養蚕守護神ではありますが。発願人は八郎右衛門で、江戸時代の人ということですから、この神社は江戸期の神社ということになります。

先を行きましょう、荻野新宿の交差点、津久井通り大山道と八王子通り大山道、府中通り大山道の交差点ですが、ここを右折し大山方向へ。及川の集落に及川八幡神社を訪れます。ここに、蚕影神社があります。

蚕影神社

風土記には記載が無く、大正14年の再興時の棟札が残っていますから、その間に勧請されたということになります。尚、及川八幡神社自体は、ナント!弘法大師が開いたとの伝承がある古社でした。

先を行きましょう、林の集落に入りまして林神社です。ここにも、蚕影神社があります。

影になってしまってますが、崩壊が激しい石祠があります。

明治43年の建立とのことです。養蚕が最も盛んだった時期ということでしょうか。

尚、ここ林神社も、武内宿禰が開いたということで、この辺りはとんでもなく古い時代から開かれていたんですね。

ここからは、R412で本厚木まで直ぐです。

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如何でしたでしょうか。

前回の相模原台地同様、ここ中津台地も気になっていたのです。迅速測図で桑畑だらけ、桑畑の周り、川沿いにある集落では、養蚕信仰の痕跡が残っていました。

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