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日本のシルクロード、八王子市鑓水、兵どもが夢の跡

(スミマセン、前置きがちょっと長いです。)

1858年の、アメリカ、フランス、イギリス、ロシア、オランダとそれぞれ結んだ修好通商条約、所謂不平等条約ですが、それにより、それまでに既に開いていた函館、下田に加え、横浜港も開港しました。

翌1859年6月28日、地元出身芝屋清三郎の店に英国人イソリキがやって来て、甲州産島田造生糸六俵を高値で買いました。

生糸の海外への輸出第一号です。

その後、怒涛の生糸生産、輸出により、50年後の1909年、とうとう、日本は生糸輸出世界一となりました。

世界一となった生糸輸出ですが、日本のどこで生産されていたかと言うと、主に、奥州、上州、信州、甲州、武州です。

これらの内、八王子より西側となる上州・武州の西側、甲州、信州の生糸は、八王子に集積し、横浜まで運ばれたと思われます。

日本の生糸はその殆どが横浜から輸出されましたから、八王子から横浜への道は、日本のシルクロードなのです。

しかし、日本のシルクロードは短命でした。

1889年、今のJR中央線、当時の甲武鉄道が開通します。

すると、生糸の運搬は甲武鉄道で八王子から新宿へ、新宿からは山手線で品川に、品川からは東海道線で横浜に運ばれるようになりました。

たった30年の、"兵どもが夢の跡", だったわけです。

しかし、短命が故か、その熱狂は凄まじく、その痕跡が、八王子市鑓水周辺には残されています。

今回はそれをご紹介します。

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まずは打越弁財天です。


※今は麓にお参りする建物がありますが、迅速測図によれば、山頂にあるこちらの弁天様が当時のもの

天正年間ですから1573~1591年に創建されました。

川辺に住むとされた弁天様は元々日本にあった水神と習合し、水害をもたらす蛇行した川は龍や蛇に例えられ、水神は龍や蛇に習合していきました。

蛇は繭を食べる鼠を食べますから、養蚕守護神となっていったのです。

八王子宿から北野経由で鑓水峠に向かうシルクロードにある打越弁財天は、生糸産業に関わる人々から篤く信仰され、巳年の秘仏弁才天御開帳の際は、数千人の参拝者で賑わったと言います。現地に行くと分かりますが、あそこに数千人とは、相当な賑わいです。参詣人目当ての茶屋も多く出されたでしょう。

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石橋入緑地に奇跡的に残るシルクロードを上り詰めると、

※訪れたのは桜が散った後。もう結構な藪で、この日は緑地内の整備された道を行きました。この写真は上り詰めたピークから撮ったもの。シングルトラックが残っているのが分かります。

その先は無惨にも開発されシルクロードは消失していますが、北野台堂の下公園に向かいます。

ここは鑓水峠で、熱狂の中心だった鑓水商人たちが作った道了堂跡が残ります。

※1873〜75年、浅草花川戸より道了尊を勧請し、後述する永泉寺の別院として開創。道了尊と養蚕守護の関係は分かりませんが、鑓水商人八木下要右衛門三代目敬信の弟が花川戸尾張屋に婿入してますからその関係でしょう。

当時は3軒程の茶屋もあったそうで、たいそう賑わったということです。

現地に行くと分かりますが、ここは元々大塚山という山ですが、ピーク部が削られ広い平場となっていて、中腹にも幾つか平場がありますから、茶屋も置けたんでしょう。

この道了堂から鑓水集落に下りていく道は、全く当時のまま残る貴重なグラベルロードです。

道は石が敷き詰められ、雨でも生糸を運ぶ大八車の車輪が泥濘にはまらないようにしていたんだと思われます。広さもダブルトラックより広いくらいで、この道がコストがかけられていることから、重要な道であったことが分かります。

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鑓水集落に下りると、鑓水商人八木下要右衛門屋敷跡に建つ絹の道資料館があります。

ここの石垣は大変立派できれいに整備されており最近のものと思わせますが、当時のものです。この石垣のせいで八木下要右衛門は、"石垣大尽" と呼ばれたそうです。

この辺りまでは横浜に住む外国人の外出が許されたエリアだったので、生糸を買う側の外国人達も鑓水を訪れていますが、ここ八木下家には、外国人を接待するスペースもあったそうです。あの、アーネスト・サトウも訪れたとか。

シルクロードを先に進み、一つ南の子ノ神谷戸には諏訪神社がありますが、ここにも鑓水商人たちの夢の跡があります。

この参道の階段を上ると平場があり、風土記によれば、

・番僧堂、石階の中腹なる平地の左の方にあり、五間に二間半、永泉寺より僧を置きて護らしむ。
・神楽堂、同所の右の方にあり、九尺に二間半
・宝筐塔、同辺にあり、高さ一丈六尺ばかりなり

と、たいそう立派な神社でした。

神社なのに、何故、番 "僧" かと言えば、諏訪神社はここ子ノ神谷戸の子の権現、絹の道資料館があった厳耕地谷戸の八幡神社、大芦谷戸の諏訪神社が、子ノ神谷戸の子の権現に合祀されたからです。子の権現は神仏習合ですから。だから上記写真の鳥居も両部。

そして灯籠は、

まずは先程から何度も登場している八木下要右衛門(台座の署名を見て下さい。), 続いて、

初登場ですがこちらも鑓水商人大塚徳左衛門の寄進によるものです。

この大塚徳左衛門、1655年から1870年までの215年もの間鑓水村の名主をつとめた村一番の名家で、屋敷は白壁に七つの土蔵と豪華絢爛、二代目直重はあの三井家の筆頭分家から後妻を迎える程の豪商でした。


しかし、1884年、敷地内で家事が発生し、白壁の屋敷と七つの土蔵は焼け落ち、盛者必衰、没落してしまいました。

生糸輸出が世界一になる25年前ですが、しかし、シルクロードが甲武鉄道に切り替わる5年前ですから、道了堂を開いた八木下要右衛門同様、熱狂の時代は謳歌したんですね。

大塚徳左衛門家が焼け落ちた際、近隣の永泉寺も焼け落ちてしまいました。

それを救ったのが八木下要右衛門です。屋敷母屋を寄進したのです。

※今尚永泉寺本堂として残る八木下家屋敷

先程、"救った" と言いましたが、実の所、八木下家も1870年頃から衰退し始め、四代目は引っ越してしまい屋敷は空き家になっていました。空き家だったから寄進できたんです。

あの石垣もこの屋敷も、生糸輸出が始まってから僅か11年の夢の跡なんですね。

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如何でしたでしょうか。

1909年に世界一となった日本の生糸輸出。1859年の横浜港開港から甲武鉄道開通までの僅か30年間のユーフォリア、兵どもが夢の跡が、ここ鑓水には濃厚に残っています。

しかし今、現地を訪れると、現代の感覚では、熱狂という言葉からは連想し得ない、実に長閑な田園風景が残るエリアでもあります。その意味でも一見の価値ありです。

さて、最後の写真は、横浜開港の6年後の1865年に、シルクロードが大栗川を渡る御殿橋の袂に建立された道標です。

北面に、"此方八王子道", 西は、"此方はし本津久井大山", 東は、"此方はら町田神奈川ふじさわ" と、彫られています。横浜へは原町田を経由するのでここは東へ。あるいは津久井も相当な生糸生産量を誇ったから津久井に寄るなら西へ、ということでしょう。

道標があるということはここが村境、鑓水集落の終わりです。ここを渡ると一山(実はこの尾根は相模湾と東京湾の分水嶺、つまり、嘗ての武蔵国と相模国の国境)越えて小山の集落に至ります。

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