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私が経営者になるきっかけを作った中高時代の海外留学〜STORY・想いを紡いだ先に②〜

こんにちは、株式会社Liberty 代表の三上結香(みかみゆか)です。

「想い」を書き留めるためのこのブログ、お読みいただきありがとうございます。前回の記事はこちらからどうぞ。

海外に触れ続けた中学・高校時代

小学4年生の時の体験がきっかけで、より広い世界で自分の実力を試したいという想いから、地元の公立中学ではなく京都の私立中学に通うことを決意しました。

当時、父親が勤めていた病院のすぐ近くにある同志社中学校を選んだ理由は正直よく覚えていないのですが、初めて学校の外観をみたときに、レンガの色が綺麗だったことや、チャペルが可愛かったことが強く印象に残っています。結果的に、その後11年間、同志社でお世話になるのですが、本当にいい学校で、ご指導いただいた先生方には今でも感謝しています。

中学校、高校時代は文化祭や体育祭、部活や日々の学業と、毎日とても充実していて楽しかったです。中でも一番心が踊ったのは、学校が提供していた交換留学制度を見つけた時でした。中学校はアメリカのヌエバスクール、高校はオーストラリアのウェスリーカレッジと提携をしていて、私は両親にお願いをして、そのどちらにも応募しました。

今から思うと、英語が全く話せない中、よく海外学生を受け入れることを許してくれたなぁと思うのですが、ありがたいことに三上家はホストファミリーとして留学生を受け入れ、また私も交換留学生として現地へ行くことが決まりました。

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同志社中学校の重要文化財でもあるチャペル。中学校時代には礼拝でお世話になった。(2019)

国や文化、言葉は違っていても、根底ではつながっている

中学、高校とホストファミリーとして海外学生を受け入れたおかげで、私は上記のことに気付きました。両親は全く言葉が話せない、でも話せないなりに一生懸命おもてなししたおかげで、数週間の滞在の後、涙ながらに別れを惜しむまでになりました。歌って踊るような家柄ですから、おもてなしの中に歌と踊りが入っていたのはいうまでもありません(笑)留学生が女優を目指していると聞いてからは、さらにそれが加速して、毎日大笑いしていたのを覚えています。

同い年の留学生たちは、私と何も変わりませんでした。当時聞いていた曲が、私は浜崎あゆみや宇多田ヒカル(敬称略)だったのが、BeatlesやQueenだっただけ。私は白黒の携帯電話で友達と連絡を取り合っていたのが、パソコンを使ってメッセンジャーで彼氏と毎日連絡を取り合っていただけ。私はマヨネーズが嫌いですが、彼女は納豆が嫌いなだけ。これらはあくまでも一例ですが、国が違うと何かたいそうな違いがあるのではないかと思っていたら、実際のところは、何も変わらないな、と感じたのです。

小学校の時に感じた「ワクワク感」とは別の「ワクワク感」を感じました。何もかも違う、こんな世界があったんだ!と視野が広がったことに対してワクワクしていた小学校時代。中学、高校時代は、どちらかというと世界を近くに感じ、自分の将来を考える上で日本以外の国がリアルに選択肢として入ってきたのです。やりたいことは明確ではありませんでしたが、「世界で活躍したい」と本気で思うようになったのはこの頃だと思います。世界で活躍している自分を思い浮かべて、ワクワクしました。

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中学校時代に初めてホストファミリーとしてアメリカからの留学生を受け入れた

進路を決める

将来のキャリアを考えるきっかけとしてはもう1つ、アメリカ同時多発テロ事件(9.11)も私にとっては衝撃的な出来事になりました。実は、中学時代の交換留学は9.11によって情勢が変わり、私は日本でホストファミリーとして受け入れはしたものの、自分がアメリカに行くのは中止になってしまったのです。

楽しみにしていた留学がなくなったことも残念でしたが、それよりもアメリカのワールドトレードセンターが煙でいっぱいになり、その後の報道番組がテロ事件一色で、イスラム教やアルカイダの話題で持ちきりになったことがとても印象的でした。また、アメリカにいる親戚や留学生のことも心配で、ひと事のようには思えなかったのです。

なぜテロ事件が起こったのか?ということを論じるつもりはありませんが、日本で生まれ育った私にとって、戦争は明らかに過去のものだと過信していました。だから今から思うと非常に恥ずかしいのですが、別の国では今でも戦争が身近にあることに当時は心の底から驚き、また、それを大統領が声高に宣言していることに疑問を抱き、まずはきちんと私自身が事実を捉え、勉強をする必要がある、と思いました。

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9/11 ワールドトレードセンターの様子。テレビで繰り返し放送されて記憶に残っている。

一方で、私の両親はどちらも医療従事者で、私は幼い頃から「手に職をつけなさい」と言われてきました。どこにいても自分さえいれば仕事ができるようになりなさい、という両親の助言は、進路を考える上でもずっと頭の片隅にありました。

両親を見て育ったことから医療業界、また担任の先生が大好きだったことから教育業界には興味がありました。世界で活躍したいという思いから、看護学校行って看護師になったのちに、青年海外協力隊に参加することや、医学部に行って医者になったのちに国境なき医師団に入る、そんな風に未来を想像していました。

結果、9.11をきっかけに世界で起こっている出来事を勉強しなければならない、という思いと、そのために取り組む分野を最初から狭めてしまって良いのだろうか?という一筋の疑問から、まずは幅広く学べる法学部政治学科の国際関係コースを選択したのです。

長くなりました!続きはまた次回へ!
最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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