#42 「普通」って何だろう?

このところ、長男が小さかったころの子育てを振り返り、障がい受容や特別支援とからめて書いてきました。

#41 子育てで精神的に行き詰ってるときは
#40 学ぶことで、強く柔軟になっていく
#39
無知が持つ力 傷ついた経験から分かったこと
#38
長男の小学校入学 特別支援学級にて
#37
障がいを受容する4
#36
障がいを受容する3
#35
障がいを受容する2
#34
障がいを受容する1

私が長男の障がいを受け入れられた時期

障がいを受容する、ってタイトルにしましたが、これは「その子を、その子自身として受け入れる。障がいがあってもそこにとらわれず、ありのままのわが子でいいと思える」というような意味合いで書いています。

結局、私が、長男は長男のままでいい、凸凹があっても仕方がない、と障がいがあることがショックではなくなったのは、口唇口蓋裂のときは3か月くらいしてから。知的障がいについては3歳のときに知って、結局長男が8歳くらいになってから。特別支援を学び始めてからじゃないかなと思います。

口唇口蓋裂という見た目のことは、手術すれば一見分からなくなるということと、見慣れてしまうことによって、精神的なことよりも受け入れやすいかもしれません。精神的なこと、発達的なことは、目に見えないし、もともと知識がなければ障がいの概念自体もよくわからなくて、葛藤が起こりやすいかもしれません。

「普通」って何?

そこで問題になってくるのは、「普通って何?」ということです。
障がいがあって生まれてくると、その子の周りにいる支援者(大人のほかに、兄弟なども含め)は、ついつい、できないことをできるようになってもらって普通に近づけようとしてしまいます。

周りにいる人が迷惑だから。
見ていて気になってしまうから、自分が気にならないように相手になってほしい。
周りに迷惑をかける子になってほしくない。
友達ができないと困るだろうから。
自立するときに、その子が将来困るから。

色んな理由をつけて、苦手なことを克服しようとさせます。できないことをできるようにさせようと頑張ってしまいます。

では、「普通」って何でしょうか
将来困る、ということの主語は誰でしょうか。

(ちょっとここで止まって、考えてみてください(よかったら、あなたの考える「普通とは何か」をコメントに書いてみてくださいね)

普通っていうのは、私は多数派のことなんだと思っています。
今、日本では、多様性の尊重、といいつつも、実際のところなかなか進んでいかないなと思っています。多様性といわれながらも、学校でも会社の多くは、結局は多数派の尊重、周りに迷惑をかけない、とか、輪を乱さないとか、そういったことが大事にされてるようにみえます。

多数派でいられれば安心、という固定概念が強いと感じます。日本って、島国で独自の文化があり、また、日本人の多くは、皮膚も髪の色も似ています。大陸で色んな髪や目の色の人が混ざり合い、今でも移民が多い欧米と比べたら、「一緒」が安心な国なんじゃないかと思います。
もちろん、その良さもあります。けれど、生きづらさもあると思います。特に、少数派の子どもたちにとっては。

ご自分が少数派であること、何かありますか?

ずっと「普通」つまり多数派の中で生きてきても、どんな方も個性が際立ってることって、何かあるんじゃないかと思います。
人より背が低い/高い、でもいいし、感覚が敏感であるとか、この食べ物が嫌い/好きであることが少数派なことかもしれません。コンプレックスに思ってることは、もしかしたら人と比べて自分が少数派なことかもしれません。こうしたいのにできない、多数派が正しいと思っていることに入れない。

そして自分の思ってるその「普通」は、自分が思ってる多数派、自分が知ってる母集団の中での話なんですよね。日本でコンプレックスだと思ってることが、海外に行ったら全然気にならなくなった、という話はよく聞きます。

私は、自分が少数派なこと、たくさんあります。エシカルな食べ物や日用品の選択、シングルマザーであること、苦い経験をたくさんしてきたサバイバーであること、男の子3人のママであること(東京では珍しいと思います)、移住したこと、障がい児の親であること、女性で大学院卒であること。何時間もじっとしてることが苦手(卒業式とか、運動会の待ち時間とか、じーっと待ってるのが昔から苦手です)とか、ひとりでいる時間がないと苦しくなる(みんなで○○しよう、っていうのも子どもの頃から実は苦手)なんていうのも、少数派じゃないかな。
例えば移住ひとつとったって、最近増えてきたとはいえ、多数派か少数派か、でいえば、少数派だと思います。ワーキングマザーも、まだまだ社会全体から見たら少数派じゃないかと思います。高学歴であることも、私の場合生きにくさにつながったり、コンプレックスの原因になることもありました。
そうした少数派であることが、その人らしさを形作っていることもあります。一方、少数派の中で、人から理解されにくい部分が、生きにくさにつながっていることもあります。

理解されにくい少数派の子どもたち

私は、子どもたちと接したり学んだりするまで、想像したこともなかった少数派の子どもたちの特性、色々ありました。ついつい、行動ばかりに着目しがちなんですが、感覚が違うことに由来していることも多いです。
特に発達障がいと言われる子どもたちは、感覚が人よりも敏感だったり鈍感だったりすることも多いです。
エビフライの衣が針みたいに感じる、とか、ちょっと触られるだけでも強くつねられてるように感じるとか。隣で話している人の声と同じくらいのレベルで、教室中の音を耳が拾ってしまう、とか。

知的障がいの子どもたちも(息子を含め)、ついつい多数派の目から見て「できるようにしてあげよう」なんて思って、支援をしてしまうことがあるのですが、彼らの目には、この世界は全然違うふうにうつっていて、私たちよりずっと自由な感覚を持っているかもしれません。
忙しいと、なかなか長男の視点に立ってあげられなかったりしますが、同じところに立ってみると、こんな風に世界を見てたのかと感動したり、彼から学ぶことも多いです。

色んな感覚を持っている人を、彼らが自分自身でいられる世の中になったらいいなと思います。とはいえ、私自身、特性の強い子と一緒にいると、なかなか大変なのも事実。社会で、もっと少数派の人たちがいることを知ってもらって、支援が厚くなって、本人も本人を支えている人も、もっと当たり前に支援が受けられるようになったらいいなと思います。
障がいが、少数派であることが特別なことではなくて、もっと当たり前に思いやりの支え合いができる世の中になったらいいなと思います。

そしたら、障がいがあるない、だけではなくて、子育て中とか、体調が悪いときとか、介護とか、ライフステージで起こってくる大変なときにも、当たり前に支え合える社会が実現するのではないかと思います。

多様性を認める、ということは、少数派を無理に多数派のシステムや枠に合わせることではなく、少数派の人たちが生き生きとできるシステムを一緒に考えることだと思います。

終わりに

わが子の障がいを受け入れる、ときにも、この「普通」について考えたことが大きな一歩になったと思います。
障がいを受け入れると言っても、あるとき突然受け入れられるようになるものではありません。育てている中で、ふと腑に落ちたり、何かのきっかけで肩の力が抜けたり、「普通」に憧れるのはやめていいのだと思えるようになったり。少数派でいたっていいんだ、と思えたとき、私はとても楽になりました。
子どもを産み落とした瞬間に、「母」になるけれど、時間をかけて「母親」になっていくように、障がい児の親と言うのも、障がいを告げられた瞬間に、その時点から障がい児の親になるわけではない。障がいという名前があったって、その子がその子なんですよね。

どんな子も、どんな人も、生きづらさを抱えていても、自分らしくいられるようになるといいなと思います。
そのためには、まずは自分を知ることから。
明日は、そのことについて書いていけたらと思います。

読んでくださってありがとうございました。

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それではまた明日!

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