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気が紛れるということ|「ということ。」第25回

十五の頃に出会ったいまの恋人とは、山も谷もない、けれど年月とともに深度を増すような日々を送ってきた。今度の夏、わたしたちは同じ苗字になる。

以前、「心変わりするということ」という記事で登場した、心変わりをした相手だ。当初付き合ったきっかけは、たぶん、気が紛れるからだった。当時のわたしと言えば(実はいまも)相当の甘ったれの依存気質で、恋人という存在がいなくては、自分の時間も精神も余してしまうようなつまらなさだった。極論、そばにいてくれるなら、ある程度、誰でもよかった。

歳を重ねたせいもあるかもしれないが、彼とともに過ごすようになってからこちら、わたしは少しずつ豊かになった。つまり、退屈をしなくなった。途方もない淋しさや、暮れたところで仕方のない絶望なんか視界にも入らない。彼が息をして、おまけに笑ってくれたなら、それだけで嬉しくなれる単純明快な生きものになった。

結局、彼と居ることで気が紛れる事実はいまも変わらない。ただ、気が紛れるという現象が、どれほど素晴らしく尊いことか!と繰り返し飽きずに感動するだけだ。ひと一人にとって、必要な悲しみも苦労も、いったいどれほどあるというのだろう。生きていると、必要のないそれらもきっと多量にあって、わたしたちは意外と、そういうものものに凹まされる。気を紛らすのは、それに対抗する武器なのかもしれない。

「人生とは死ぬまでの暇つぶし」と聞いた。それならわたしはもう、暇つぶしには困らない。気を紛らわせてくれる強い味方が、これからずっと隣にいるのだ。

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