見出し画像

【分布意味論時代の本棚】「亜人ちゃんは語りたい」①意外と真面目な「マイノリティとマジョリティの関係論」?

以下の投稿を嚆矢とする「第三世代フェミニズムの弾薬庫シリーズ」は、そのうち吸血鬼論について大幅にページを割く予定なので、その前準備として投稿。

全体の鍵を握るのは、以下の「とりあえず乳首と股間を両極とする平面座標から出発し、これを「任意の対蹠の一つ」とする極座標系に拡張した身体意識MAP」となります。

「身体意識MAP=窃接系と運動系と感覚系のレイヤーを深層学習的過程によって統合した全身を被覆する身体部位概念集合(平面図)」
上掲の身体意識MAPの指数/対数座標として得られる球面座標系(俯瞰図)。こうして「乳首と股間を結ぶ無数の非ユークリッド曲線」が「乳首と股間を任意の対処の一対とする球面座標系」に拡張される。
上掲の身体意識MAPの指数/対数座標として得られる球面座標系(上面図)。ここに「両端としての乳首と股間から等しく離れた赤道線」概念が浮上してくるが、まさにこれが(時代的地域的制約を受けた)深層学習的過程を経てしか定まらない訳である。


上掲の身体意識MAPの指数/対数座標として得られる球面座標系(上面図)。まさしく文字通り「両端としての乳首と股間が一点に重なる」様子が窺える。

それでは、かかる「(時代的地域的制約を受けながら窃接系と運動系と感覚系のレイヤーを統合する深層学習的過程を経て定まる)身体意識MAP」と吸血鬼概念はどう結びついてくるのでしょうか?

  • 近世は愚か近代に至ってなお西洋文明において女性は身体の殆どを覆う衣装を身につけていた。一方、その一方で「あまり執拗に隠されない」例外箇所の一つたる喉元は感覚系レイヤーにおいて「防衛システムの要=くすぐったさを感じる最重要箇所の一つ」だったのである。

  • 実は吸血鬼概念の大源流は概ね古代ギリシャ時代まで遡る東欧文化圏で、これが西欧に伝わったのはオスマン帝国が第2次ウィーン包囲(1863年)に失敗して逆に追撃を受け領土を大量に失って以降。そして新たに獲得した領土を調査した神聖ローマ帝国官僚の報告書に現地民間信仰における吸血鬼についての記載があった事が発端となった訳だが、これに濃厚なエロティズムを吹き込んだのはバイロン卿(George Gordon Byron, 1788年~1824年)の恋人としてギリシャ旅行に同行した同性愛者の医師ポリドリのゴシック小説「吸血鬼(The Vampyre, 1819年)」であった。それもその筈、この小説は英国社交界において「娘だけでなく息子も隠せ」と恐れられた「両刀使いの食い散らかし遊び人」バイロン卿を主人公を襲う吸血鬼にこっそり重ね合わせた「鍵小説」として大ヒットした作品だったのである。なお歴史のこの段階では吸血描写そのものはなく「若い美女が怪しい麗人と結婚したり、それらしき人物に付き纏われる様になったら、次第に衰弱して早逝してしまう→検死したら首筋から小さな噛み跡が見つかるが、到底それ自体が致命傷とは到底思えない」なるパターンをレ・ファニュ「カーミラ(Carmilla,1872年)」もブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ(Dracula.1897年)」も踏襲。

つまり上掲図における「(時代的地域的制約を受けながら窃接系と運動系と感覚系のレイヤーを統合する深層学習的過程を経て定まる)赤道ライン」が、西洋文明においてはまさに首筋だったという次第。そして「吸血鬼が首筋に牙を立て、血がダラダラと流れるビジュアル」が見せ場となったのは、芝居化や映画化の過程を通じてだったのでした。この様なメディアのバトンタッチによる表現の変遷、意外と重要。もし分布意味論に従って人類の語彙全体を被覆する言語ネットワークの構築を志すとしたら、かかる歴史的アプローチを避けて通れないのである。

それでは、こういった19世紀から20世紀にかけて存在した拘束条件がまとめて「歴史の掃き溜め」送りとなって久しい21世紀、吸血鬼がどういうイメージに到達したかというと…

なんと「血液は政府から支給される血液パックで補充。首筋は眺めるだけで服の上から肩や二の腕をガジガジ甘噛みするバンパイア」が登場。

そう、乳首や股間に続いて首筋までもがある種の到達不可能地点に昇格してしまったのですね。「いきなり噛み殺さなくなった」という点では原点回帰、さらには「衰弱死の心配もしなくて良くなった」という点でもなかなかの改良版とも?

「伝承の多くが当てにならないが、感覚が鋭い代償に日光に弱い部分は本当」という解釈。

とはいえちょっと油断すると…

で、こういう話が他の亜人の性質への言及とも相まって、かなり解像度の高いマイノリティ論を構築していくのがこの作品の特徴といえましょう。

「それでは亜人の話を広めよう」という段階になって選択したメディアがWEbラジオという辺りもまた渋い…

「亜人ちゃんは語りたい」11巻

かといって特定の誰かを裁定する事なく「(過去に拘泥せず)現状を現実として受容しつつ、各個人が虎視眈々と自分が改善に関与する機会を狙い続ける」カジュアルな態度は、経済人類学者カール・ポランニーが「大転換 (The Great Transformation 1944年)」の中で英国の囲い込み運動を詳細に分析した結果到達した結論「後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ 」に通じるものがあります。思えば連載期間が重なる九井諒子「ダンジョン飯(2014年~2023年)」堀越耕平「僕のヒーローアカデミア(2014年~)」のアプローチにも通じるものがある一方、キリスト教文化圏が到達するには難しい考え方らしく最近国際的ヒットを飛ばしてる日本作品に共通する時代精神の一つとなってる模様?

この作品において、この考え方を貫徹する道具として重視されているのが「ディスクールの整備」と「ハグの効能」。

そして、実はそこに登場する「人間の情緒生活は喜怒哀楽といった感情全てを被覆する虹色たるべき(そういう方向に人類は進化していくべき)」なる理想論、実は2010年代前半のTumbrに割拠した第三フェミニズムの姉様達が目指し、私が上掲の身体MAP論に継承した目標設定でもあったりします。
シャボン玉は知っている

数学的にいうと、いわゆる「等周問題の最尤推定」が背景に潜んでいるという次第。ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill,1806年~1873年)が「自由論(On Liberty,1859年)の中で「文明が発展するためには個性と多様性と天才が保障されなければならず、それを権力が妨げる事が正当化されのは他人に実害を与える場合に限られる」と前置きした上で語った「最大多数の最大幸福」論とも重なってきます。

  • 周の長さが一定である長方形のうち、正方形の面積が最大となる。

  • 周の長さが一定である三角形ののうち、正三角形の面積が最大となる。

  • 周の長さが一定である四角形のうち、正方形の面積が最大となる。

  • 周の長さが一定であるn角形のうち、正n角形の面積が最大となる。

  • 長さが一定である閉曲線Cのうち、Cを囲む面積は円が最大となる。

流体力学におけるパスカルの原理と表裏一体の関係にある法則ですね。「風船は(余計な力が掛からない限り)自明の場合として自然に丸く膨らむ」というアレです。

パスカルの原理

そしてミルが「自由論」を発表した背景には、確実に当時の欧州民主主義における参政権拡大が大衆による多数派専制をもたらし、その様な自然状態を乱そうとする事への懸念が存在していたという次第。

  • その危機感は同年に「経済学批判(Zur Kritik der Politischen Ökonomie.1859年)」を発表したカール・マルクス(Karl Marx,1818年~1883年)と彼をパトロネージュしていたフェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle,1825年~1864年)も共有。この二人、同じ「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制(いわゆる封建制)の終焉は歴史的必然だが、それはただちに誰もが納得のいく形で各個人に私有財産権などが行き渡る事を意味しない」なる法的見知から出発しながら、前者が「だから最終的には革命が不可避となる」と悲観的に考えて「共産主義の父」となり、後者が「(英国が囲い込み運動を乗り切った様に)問題は準安定状態を保うちに時間が解決する」と楽観的に考えて「社会民主主義の父」となった訳だが、歴史のこの時点ではまだかろうじて関係決裂を免れていたのである。

  • 同年にはダーウィンが一見不連続に見える種の系統進化過程について言及した「種の起源(On the Origin of Species,1859年)」を発表。今日では系統進化は(当時の様な自然選択原理主義ではなく)分子進化中立説や回路方程式的準安定状態遷移や収斂進化などの組み合わせによって説明される様になったが、その直前までダーウィンが「創造主介入説」を検討していた事を考え合わせると、やはり最初のパラダイムシフトは「種の起源」が起こしたと考えられよう。

コンピューターOSの場合の回路方程式的準安定状態遷移で、このフローに従ってスーパーユーザーモードに切り替えたりバージョンアップを推敲したりする。実際の種の進化過程には始まりも終わりもないので、ある準安定状態から別の準安定状態への推移(つまり系統進化)は、落雷のメカニズムの様に「電荷の蓄積と発散の繰り返し」によって達成されるものと推測される。

この様にそれぞれが以降の時代精神の一柱を担う画期的考え方が1859年に一気に出揃った事を、私は「1859年認識革命」と呼んでる訳ですが…

そこで懸念された「大衆による多数派専制」は、残念ながら英国における「(自動車は人間の歩行速度を超えて走行してはならないと定めた)赤旗法(1865年~1896年)」、フランスにおける「(エロ表現が聖書や神話の逸話に準た場合だけ許される伝統に逆らったフローベール(Gustave Flaubert,1821年~1880年)や、ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire, 1821年~1867年)や、マネ(Édouard Manet, 1832年~1883年)を標的とした)売春婦芸術(Pornographie)弾圧運動」といった形で実際に顕現してしまったのです。

「赤旗法」は蒸気バスに旅客をとられた馬車運送業者の議会への圧力や煤煙や騒音による街道住民の反対運動に配慮した結果。「売春婦芸術弾圧運動」に至ってはフランス芸術を牛耳るアカデミズム界と、それに媚を売って自らの社会的地位を高めつつ(己自身が最大顧客たる)売春産業を不可視状態のまま置こうとした新興ブルジョワ階層の共謀であった。
一方、現在の表現規制派、すなわち「売春婦芸術弾圧運動」の末裔達は自らの大源流たるアカデミズム界や新興ブルジョワ階層が必死で守ろうとした(当時の価値観において品行方正と判断した)アカデミック美術に真っ先に食いついた。まるで「近代科学の父」ラヴォアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier,1743年~1794年)に対し「もはや革命は科学に勝利した。科学者の出番は既に終わった」と高らかに宣言して死刑宣告し、数週間後には自らも内ゲバに敗れ同じギロチンの露と消えたフランス革命当時の裁判官の様に。そういえば日本の大学紛争当時、この種の考え方に陶酔して大学図書館に突入し全書物を焼き払おうとした学生運動家グループはあっけなく警察に引き渡されたという。こうした人々には「衰弱した対象を検知したら、それが仲間でも平気で群れで囲んで食い尽くそうとする」鮫の本能以上の知性を感じる事が出来ない。そうした人々に限って、しばしば「今も昔も未来もみんな同じ良識に従ってるだけ」と強調するが、実際にはこの様に伝統への配慮も、未来に繋げようとするビジョンもなく、ただただ「憂さ晴らしに、絶対抵抗してこない相手を思いっ切りサンドバックにしてやりたい」なる脊髄反射に盲目的に従ってるだけなのである。

こうした歴史を踏まえた上で、上掲の様な「亜人ちゃんは語りたい」における「マイノリティとマジョリティの関係論」を読むと、表現こそカジュアルながら、なかなか含蓄に富んでいるという話。

「亜人TYANNHA語りたい」11巻
「亜人TYANNHA語りたい」11巻

こうしてざっくりながらシリーズ全体のコンセプトとの関連性を確認しながらの全体像俯瞰が出来たところで以下続報…


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?