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そのカレーの味は知らない

3月12日

先生は今日をもって、長年勤めていた居酒屋の仕事を辞める。

 長年と言っても4年余りだと記憶しているが。先生と私は同職場で1年半もの間、交わされた会話の数は全体的に多くは無かったものの、共に汗を流し、給与をもらった間柄である。私はホール業務を、先生は主に厨房を担当していた。そして結果的には、先生より遅れて入ってきた私が、先生より早く辞めてしまった。

 先生は、どこかの教室で生徒を受け持っているとか、専門的な何かの造詣が深いわけでもない。私がここでアルバイトを始めた時から、先生は「先生」とみんなから呼ばれていて、自然と私もそう習ってしまったのである。ある日、どうして彼に「先生」という愛称を付けたのか、店長に聞いたことがある。

『だって、先生っぽいやん。雰囲気とか佇まいとか』

 その答えに、当時研修期間中だった私は少しがっかりした、そんな思い出がある。おそらく、彼のまじめで黙々と調理をし続ける様子がその決定的な理由だろう。ただ私は、「先生」というよりは「職人」とか「師匠」とかそんな愛称が彼には相応しいのでは、などと思い浮かべていた。しかし今になって思いついたことではあるが、先生は最初ほとんど日本語が話せなかったことから、できるだけ簡単な日本語で、そしてみんなから親しまれるような、「先生」という愛称を彼に付けたのではないかと私は推測する。なお、誰がそのように呼び始めたのかは誰も知らなかった。

 前述したことからおよそ予測できると思うが、先生は日本人ではない。遠いインド亜大陸の下に位置する大きな島国、スリランカから来たスリランカ人である。年齢は確か30歳近いくらいだったと思う。先生は24歳の頃、友だちと2人で一念発起し縁もゆかりもない日本にやってきた。先生はその愛称とは裏腹に、日本語学校の生徒であり、日本語の勉強をしながら熱心に働いていた。居酒屋だけでなく、ホテルやスリランカ料理店でも働いていて、彼の稼働時間は朝早くから夜は深夜まで、といったものであった。今日では日本語はえらく上達している。もう一度言うが、そんな彼をみんなは大いなる尊敬と愛でるような親しみを込めて「先生」と呼んだ。少なくとも私にはそういう響きが十分に感じられた。

 私の家から前職場までは自転車でおよそ15分も掛からないほどでたどり着く。出勤していた当時は、決まってピッチリとしたジーンズを履いていたので、今夜はあえてゆったりとしたオーバーオールを選択した。私はこういうことを欠かさないのだ。自転車の後輪に確かな違和感があったが、そんなことは気にしないで少し重くなったペダルをしっかりと漕いだ。(後に発覚したのだがパンクしていた)

 前職場の居酒屋が段々と近づくにつれて、働いていた頃の気怠さ、不安、達成感が嫌に生々しく込み上げてきた。そして同時に、もうあそこで働かなくていいのだという安堵が、上からフッと私を覆った。その精神的サイクルは繰り返し訪れ、大きな交差点のあの信号は、いつもそうするように私を立ち止まらせた。今日、先生はバイトを辞める。

 今日の日本全国および経済は、終わりの見えない氷河期を迎えようとしている。勿論私の前職場も例外ではない。連日サラリーマンで大盛況だったのにもかかわらず、以前の常連客を含め大半のお客さんは、今では外からチラッと店内を覗くだけであるらしい。…と聞いていたのだが、私が見たところ、店内はこのご時世の割には非常に賑やかであった。

 入口のドアが開くと同時にパチンコ店のような自分勝手なうるささ(時にそれは閃光弾に似ている)が私の鼓膜を震わせた。

 店長が居た。店長は、お客様ではなく元従業員の私が来たことを厨房からひょっこりと顔を出して認めると、何も言わず作業へと戻った。店長にはその優しさがゆえに少しよそよそしい所がある。私は入り口付近から、先に来ていた友人をすぐに見つけて、彼が座っている4名テーブルに腰をおろした。友人は、私の同僚であったと同時に小学生の頃からの幼馴染である。私がこの職場を辞めて3か月が経ったが、この友人はまだそのことに納得がいっていない。

 店内を見渡したところ、私が働いていた頃に知っていたお客さんがチラホラと居た。そして勿論、先生も働いていた。先生は厨房から私の姿を見つけると、にっこりと笑った。先生はいつもこういう風にして笑う。少し疲れた体をグッとこらえるようにする。
私は忘れないように、買ってきたチョコレートのロールケーキを渡した。

 『先生、久しぶり。これ、どうぞ』
 先生はありがとうございます。と言った。

 私は友人とハイボールをすすりながら談笑して、先生が退勤する時間を待った。先生は夜の12時に、言葉通り明日が到着すると同時に、最後の退勤をする。それから先生は私たちと3人で酒を飲むのだ。

 12時、先生は退勤した。今から私たちのささやかなお別れ会が開かれる。また、その頃には終電に魂を握られているかのように、酔っ払い達はゾロゾロと店を後にしていて、店内はホッと一息をついたような静かさがあった。

 先生の様子は普段と変わりなく、落ち着いていて謙虚だった。私たちは時々冗談を言い合いながら、これからどうするだとか、しんどかった仕事内容だとか、スリランカに在る先生の家の話をした。先生は近いうちにスリランカに帰国し、かねてから付き合っていたガールフレンドと結婚するらしい。先生の話し方とその内容には、しっかりと勘考されてから出てきたものが感じられる。それがカタコトの日本語だからなのか、先生の性格なのか、日本人と話すことに何かしら警戒感があるからなのか、私には最後まで分からなかったが、少なくとも先生のコミュニケーションは絶対に誰かを傷つけるような性質を持ってはいない。

 そこで先生は2杯目のハイボールをすすりながら、『最後だから言うけど』と急に口を開いた。それを聞いた私たちは覚悟し、期待に似た好奇心を忍ばせながら耳の奥に神経を集中させた。

『私はスリランカでは警察官をしていました。とてもしんどい仕事だった。私めっちゃ頑張りました。それ、最後だからね、言いました。』と、とても小さな声で言った。

 その時私は、先生が黄色のリボンやレースが付いている紺色の制服を着て、交通整備をしたり、昼の休憩で同僚とカレーを食べている姿を思い浮かべることができた。(これはその時に先生が私たちに聞かせてくれた、少しばかりの母国の話から連想することができた)その場所で先生はスリランカの言葉をおよそ慣れた早口で話し、「先生」じゃない違う名前で呼ばれて、歌だって唄うこともあって、先生の時々言うジョークは最高に面白いのだと、仲間内で評価されていているのかもしれない。そしていつもそうするように、先生は噛み締めるみたいににっこりと笑うのだ。

 先生は明日、日本語学校を卒業する。もしかするともう二度と日本語を話すことは無いかもしれない。私たちは最後に握手やらハグやらを交わして、再会の約束をしてお別れ会をお開きにした。

 先生は今日をもってアルバイトを辞める。

 先生の抜けた穴は大きい。

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