#エッセイ 『努力と才能』

 今年も夏頃までコロナ禍の中で多くの事が制限されてチョットつまらない日々が続ましたね。そんな中でも昨年くらいから徐々にですがスポーツの方は色々と再開されつつありますね。昨年は緊急事態の中で開催が危ぶまれた昨年の東京五輪ですが、いざ大会が始まればやはりそれなりに盛り上がりましたよね。そして日本人の僕らにとってもう一つ盛り上がったのがアメリカのメジャーリーグですよね。大谷翔平の活躍で今年も多くの人がテレビに釘付けになったのではないかと思います。毎朝試合結果を見ることが多くの人に少なからずささやかな楽しみを与えてくれたのではないかと思います。僕にとっても投打共に活躍する大谷選手の映像は見ていると本当に元気つけられた一年でした。

 さてここに来て才能を爆発させた大谷選手ですが彼はかなりスイトックに練習をするそうですね。チームの同僚も彼が常に練習をしているとコメントしています。そうするとプロの野球選手はどれだけ練習をするのかがチョット気になりますよね。実際に見たことは無いのですが・・・。せっかくだから野球の話からひも解いて人の才能のあり方と努力をする事に付いて考えてみたいと思います。

 先ずは先に努力についての話からからです。これについては日本ハムの栗山監督の著書『野球が教えてくれたこと』に書かれていた内容は凄く参考になりました。努力は練習量と比例するので、以下に書く事は練習をすることをイコール努力として捉えて読んでください。チョッと強引で申し訳ないのですが・・。
  栗山監督の本によると、基本的に野球は量の練習と質の練習があるとの事です。量の練習とは基礎体力を上げる事と基本的な動作を体に覚え込ませる練習です。それはリトルリーグや高校野球の練習を思わせますよね。体力をつけつつ常に自然な動きでプレーを出来るようにするという事は容易に理解出来ます。ですがこのことにおいては自分の中で昔から疑問に思う事がありました。実は子供のころから不思議だったのですが、往年の名選手である王さんがテレビの中で練習をしている光景が流れているときに、なんでこんなにスゴイ選手がそこまでしてバッティングの素振りで汗をかくほど練習をするのだろうかという思いがあったんですね。“もう充分出来るでしょうに!”なんて思ったものです。素振りでは球も飛んでこないわけですしね。また別のスポーツの話でいうなら剣道では何故あれほどの面打ちの素振りや、空手なら型の稽古をするのかと同じようにずっと疑問に思っていました。それらの武道も相手がいて初めて練習になると思っていたし、また対戦相手も常に同じ動きはしてこないのになぜ型の練習をそんなにするのだろうか?と子供の頃はそう考えて過ごしていました。それに対してある時自分なりの答えを見つけて納得した事があります。それは剣道についての話を聞いた時の事です。何故竹刀であれだけの面打ちの素振りの稽古をするかいえば、武士が活躍した時代では剣道は剣術と呼ばれ、本来は戦での大切な戦闘行為に直結していました。もし戦場で体の一部を切られたらどうなるかと言えば、基本は“痛い”と思いがちですが実際の所は“熱い”と感じるそうです。痛いと熱いは同じような神経感覚とは確かに聞いたことがあります。そしてその熱さで体が硬直して動かなくなるとの事です。その時にそこで体が動かなくなると致命的ですよね。相手の次の一振りで簡単にやられるわけにはいきませんから、その時自分の体が自動的に、もしくは反射的に体が動く様にその動作を体に染み込ませる必要があるという事です。基本的な正しい動作がどんな場合にでも自然に出来るからこそ実践の場に臨んでもその場に応じた動きが出来るという考えにはなるほどと思いました。確かに現代人の会社での仕事にもそんな側面はありますね。毎日同じような懸案が持ち込まれますが、全く同じ内容の仕事は何一つではないですね。何回もやって鍛え上げられた(慣れたという方が正確かも・・・)からこそスピーディに正確にこなせるという考えが頭の片隅にチラッと出てきちゃいますよね。チョッと強引な例えで申し訳ないのですが・・(笑)。話を野球に戻して、野球選手の素振りも基本これと同じ考えだと思われます。また、そうやって考えれば量の練習とは何も野球や剣道などのスポーツに限ったことではないと思います。例えば数学を学ぶ場合も、最初は理屈抜きに計算力を鍛えますよね。掛け算や割り算などの理屈なんて実は後から付いてくるものですよね。それに特化したのが算盤なのでしょうがそれはさておき、科学の研究者に限らず優れたビジネスマンもその場での瞬発的な計算が得意という人は多いですよね。計算力に限ったことではないですが、こういう人たちは基本的にやはり子供の頃に学校や塾でなんかで鍛えてきたのでしょう。その観点のみで語るなら『学力=学歴=その人の社会的価値』という見方も分からなくはないですね。このような見方で人を判断する方法は基本的に僕自身は好きではないのですが、現実社会がそういう見方をしている事もある意味事実です。ともあれ、話が少し逸れましたが、この量の練習とは僕たち日本人の感性で別の見方をするならば”形から入る教育”という事に繋がるのではないでしょうか。その中には『礼に始まり礼に終わる』という躾の側面まで込めて鍛え上げるというやり方はとても日本的かなと思っています。かつて西武や巨人で活躍した清原選手はどんなに調子が悪くてもグランドに出入りするときには一必ず礼をしていた姿がテレビで映されていて、その光景を見た時に“やっぱりいいなぁ”と思っていました。その姿には『やっぱり何処かでちゃんとしているんだな』という事を思わせされてしまいますね。ですがここに日本人としての不味さも含まれていることは同時に考えておくべきかもしれませんよね。その形から入る教育には人格形成の指導という意味合いも十二分に含まれていると思います。そうすると世にいう、いき過ぎた指導という事が起きかねませんね。そしてそれの最も悲しい形がシゴキという名の暴力とイジメですね。これの難しいところは、指導する側に大きな権限があり過ぎてその匙加減が指導者その人に託されてしまうという事です。これは本当にイカンですよね。年長者が若者の上に立ち教え導く時に“指導”と“イジメ”の区別がつかなくなっている場合が多いですよね。当の指導者本人がそのことに無自覚という場合が多く、意味をなさない厳しさが現代社会のパワハラ問題だったりするのではないでしょうか。但しこの形から入る教育には、日常の挨拶や礼儀などの生きる上で大切な習慣の取得も込められており、理屈では教え込めない部分を担っているという側面もあります。負の側面も書きましたが、以上よりそれでもやはり基本的には量の練習は大切だと思います。それは人が生活するどこの場所でも形を変えてみんなが経験してその人なりに自分の中に染み込ませるように力として蓄えていくのではないでしょうか。
 では次に質の練習とはという事もについても触れてみたいと思います。それはある程度その道で鍛えられてから出てくる練習方法なのかなと思います。試合前の野球選手なんかはそんな感じで練習していますよね。バッティングゲージに入って自分の感覚を確かめるように軽めの調整とでもいうのでしょうか。もちろん何かの道で鍛えている途中にもそんな方法をとる事もあるでしょう。学生が期末テストや入試の前日にノートを見返す行為なんかはそういう感じがしますよね。この間テレビで見たのはベテラン漫才師のおぼんこぼん師匠の舞台袖の姿は印象に残りました。二人はこの数年仲が悪かったとの事ですが、舞台にはいつも二人で出てきます。舞台袖で自分たちの出番を待つ短い時間でお互いが目も合わせずネタの打合せをしていました。その軽いやり取りで舞台に出ればお客さんの前で爆笑を取れるのですね。これは二人が今までに散々稽古を重ねて経験を積んだからこそできる芸当なのでしょう。本番前の練習も無しにここまでの事が出来るとはやっぱり彼らなりの積み上げた力があったからなのでしょうね。この感覚を取り戻すための軽い打合せが彼らにとっての質の練習なのだろうかという感じがしました。ここまで書いて思うのですが、果たして僕自身にこの人生でそこまで積み上げてきたものがあるかと思いけえしてみると、何もないような気がして恥ずかしくなってしまうのですが・・・。

 一生懸命努力を重ねて鍛錬を続けるという事はとても大切ですが、世の中ではそれに加えて才能という事にも時には話題になりますよね。これは野球評論家の野村克也氏が生前の著書に書いていたのですが、その輝く才能は持って生まれた天賦の才であり、どうしようもない物であるという事でした。プロ野球の世界でいうならば田淵幸一選手や新庄剛選手がそれに当たるとの事です。彼らは野村氏の目から見るとプロの選手としては本当に練習が嫌いだったそうです。それでもあれだけの活躍をしたのですからその才能は恐ろしいですよね。選手として困る事が無かった為か野球について考えないと野村監督はその著書で語っていました。ある日、野村監督が田淵選手に『お前はキャッチャーとして何を一番大切に考えているんだ?』と聞いたところ、田淵選手は『そっすねー、ボールを後ろにそらさない事じゃないですかぁ?』と真顔で答えたそうです。流石にリトルリーグじゃあるまいし・・・と野村さんは溜息をついたとか・・。新庄選手の場合はその才能にほれ込んで色々教えこもうとすると『あまり色々言われてももう理解できないからやめてください!』と平然と言ってのけたそうです。それでも試合に出せば結果を出すというので、それはそれでその才能に舌を巻くと同時に他の選手の手前困ったそうです。才能とは本人の生まれ持つ素質と直感とでもいうのでしょうか。僕自身はそんな野球選手を目の前で見たことは無いのですが、自分の中で類似するであろう話としてはこんな子はいました。その子はいわゆる天才肌だったのでしょうが、一回聞いたことをその場でほとんどの事を理解して知識として自分の脳に定着させるような子でした。勉強はほとんどしていないように見えたのですが、抜群の成績だったのを覚えています。その子は日本でも有数の難関高校の入試の前日に行方不明になって警察や学校の先生が総出で探した挙句、夜になってゲームセンターで見つかるとの騒ぎを起こしていました。期待をかけていた両親を始めとする周りの大人たちは明日の試験はダメだろうと思いつつ当日の試験に送りだしたら、なんとその子はポッコリと合格して周りが二度ビックリしたという記憶があります。その子の事についてもう少し話すなら、その子は高校に進学後しばらくしてから重い病気になり、長い間寝たきりの生活になった、という話を後日聞きました。その事を後日聞いて、世の中はそういう意味では何とも言えない所で変に公平な感じがすると不謹慎ですが当時はそう思って驚いた記憶があります。世にいう『神に愛された者』とでもいうのでしょうか。その子は亡くなったわけでは無いのですが、才能に恵まれすぎた人は夭逝するという歴史上でもよく見られるジンクスを思わせます。何に対しても才能のかけらもない僕にとっては単にひがんでいる話になってしまうのですが・・・・。(笑)
 話がまたそれてしまいましたが、僕にはこの才能の差だけはどうしても埋めがたい物を感じずにはいられません。ですがそれは後天的な努力によって決して、ある程度の所までは埋められない物でもないとも思っています。それは自分自身が何を目指しどういう努力をするか、その過程で誰と知り合いどんな指導や助けを得られるかという事も大切な要素と思っています。そしてその努力を積み重ねた過程で自分の人格を築き上げていく側面があるのではないかと思います。それはテレビなどで見るスポーツ選手にもよく表れていますよね。血のにじむような努力を重ねたであろう人は、その人なりの哲学をキチンと持っていて話す内容も深みを感じますし、才能に恵まれすぎた人は何となくですが軽い感じであまり人として深みを感じない事があるように思える事もあります。スポーツ選手なら引退、サラリーマンなら定年退職とみんないつの日にかはその活躍の場から去っていきますが、その時にそこまでに努力と才能で培ってきて事がノウハウや思想としてその人の中には残ります。そうやって人は人になっていくのではないかと思わずにはいられません。

 でも、普段の生活の中で何かに夢中になって取り組んでいるときは自分が今努力しているとか、自分の才能という事は頭の中には意識として出てこないもんですよね。それでいいんだと思うのです。何かをやっている最中に自分の資質や頑張りを意識しているなら、それは夢中になれていないという事なのではないでしょうか?逆に・・。ふと手を止めた時や、夢中でやっていることに一区切りついた時にはそんな事も意識されやすいとは思いますが、僕の場合はあまり突き詰めて才能や努力の事を考えすぎると自分の人生がチョッと苦くなくなるような気がして、それはそれで嫌なんですけどね・・。(笑)





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