#エッセイ『知識をつなぐ』

 人類が共有する知識は膨大なものがあります。とても一人の人間では全てを吸収できません。まぁ当たり前ですが・・・。一人の人間が生きているうちに吸収できる知識はおそらくごく僅かな量だと思います。そして世の中には碩学と呼ばれる人が多く存在しています。そんな人たちを僕はもちろん心の底から尊敬しています。おそらく中世より以前の社会では、一人の人間で知識の多くをカバーできていたようですが、近代から現代にかけてはやはりそれぞれの分野において学ぶべきことが膨大な量になった為かそれぞれの専門に特化して政治、経済、科学、哲学その他の国際関係や環境問題など多岐にわたって多くの専門家が存在し、それぞれの国や組織で活躍をしています。僕の中で不思議なのは、かつて歴史の中で活躍した多くの科学者や哲学者が、その人生の長い時間をかけて積み上げてきた事が、後世の人たちにいとも簡単に吸収されてしまうという事です。そしてその上にさらなる学説や定理などの発見を載せていくという事をしています。おそらく、最初に定義や定理を作った人は膨大なデーターとかを採って相当な時間を費やしたのでしょう。それが後世の時代に引き継がれるときは、教科書や参考書でほんの数ページで説明されてしまい、その後に幾つかの練習問題があって終わり・・という感じで後世の人たちに吸収されていきます。
 では、なんでそんなことになるんでしょうか?もうここから先は素人考えです。やはり最初に考え出す人は何かを考察して何回も検証するという行為に膨大な時間がかかったのでしょう。そして後から他の人が検証をするのはそんなに大変な事では無いのでしょう。例えばニュートンが作った力学(ニュートン物理学)は、コペルニクスの地動説からケプラーの惑星の運動の法則、そしてガリレオの物体の落下の法則を経て、その上に最後にニュートンが運動の三法則と万有引力の法則という考えにまとめ上げて長い時間をかけて手に入れた学問体系です。それぞれの学者はその時代の当代の碩学と言われた人たちです。でもそれが現代社会では教科書の中では多くてもほんの数十ページで解説されています。その中で出てくる運動方程式のF=ma(力=質量x加速度)などという式に至っては、少なくとも理系の人たちにとっては常識的な事で、何だったら会話の中で使う言語の中に組み込まれた普通の言葉(単語)と同等の位置付けにあるように思われます。この現象をどう表現すれば伝わるのか難しいのですが、過去の時代の最先端的な知識が時間をかけて多くの人に共有されて常識になるとその内容は更に一般化されて教科書の中に落し込まれていくという事なのでしょうか?そしてそれらを基にしてその上に次の知識を載せていくという事なのかな?と思ったりします。現代の科学の内容でいうなら、アインシュタインの相対論のE=mc²なんかもそうかもしれませんね。僕は専門的に物理をそんなに深く学んだことは無いので、現代の最先端の物理学が何を目指しているのかと云うのかという事がよく分かっていは無いのですが、少なくとも今日では最先端の研究に入る為には学ぶべきことが多すぎるという事は何となく分かる気がします。20世紀の初めごろにはすでに理論と実験の両方を一人でこなすという事は難しくなっていて、その時点で一つの学問の中で住み分けが始まっていたという事は解説書などで読んだ記憶があります。それはおそらくは物理学だけではなくその他の分野の学問においてもそうだったのだと思います。
 その上でまた僕の中で不思議な事があるのですが、最先端の学説は結局のところ元の知識の焼き直しの様な感じがあるような気がするのです。例えばアインシュタインはニュートンの墓を訪ねた時に『私のやったことは結局はあなたの作った運動方程式が正しいという事を証明しただけです』というようなことを言ったそうです。それは、僕なりに解釈するとニュートンの運動方程式を形を変えて表現したという事なのだと思っています。それによって調べられる事の枠組みが広がったという事なのかなと思っています。また、哲学の世界でも近代のビックな哲学者も結局は古代ギリシャのアリストテレスやプラトンが唱えた事と本質的には同じ事と同じ事を言っていたりすると書かれていたりします。そう考えると人間は常に形を変えて同じことを繰り返しているような気にもなりますし、その形を変えることによってそれまでは見えなかったことが見えるようになったりしているのでしょうか?さらに細かい世界やさらに大きな世界、もしくはさらに視野を広げた世界観だったりと、その結果として複雑に基の知識を組み替える事で、多くの事を成し遂げる原動力になっているのでしょうか?それを私たち人間はその行為を発展と呼んでいるのかな?と思わなくもありません。同じ事の繰り返しといっても、後の時代に発見されることは前の時代より高度な事の為、簡単には理解が出来ない事なのでしょう。それをさらに後から学ぶという事はそんなに簡単な事では無いというのも何となくですが分かります。そんな知識ですら学問の中で環境整備(?)されると後の時代ではやはり数ページ分の知識になるのかな?と思ったりします。何となくですが、知識の在り方に対する堂々巡りをした話になり分かりにくなっていたら申し訳ないです。
 そして最後になりますが、知識やノウハウという物は基本的には人間の各個人の中に蓄積されていきます。教科書やマニュアルは知識を書き込むことは可能ですが、その中身を吸収するのはあくまでも生身の人間だという事です。中世のフランスで活躍した化学者のラボアジェがギロチンで処刑されたときに数学者のラグランジェは『彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つ人が現れるには百年はかかるだろう』と言ったそうです。そのことがからも分かるように世に言う当代の碩学と言われるような人が世を去ると、その死と共にその知識とノウハウが闇に消えていくような感じがします。ですがその意思を継いだ人たちの中にその知識が受け継がれていくような感じで人類の積み上げた知識は継承されていくのでしょうか・・。そうなると教科書という物は学ぶための道具であり、その中に知識が保存されるという側面はあるとは思うのですが、知識とはやっぱり人から人に教え込んで伝えていくものなのかと思います。そうやって知識とは有機的に人から人へと繋がっていくのかなと思てならないです。その逆の現象を探すなら、カンボジアがいい例かもしれません。ポルポト派はカンボジア国内の知識人の殆どを虐殺してしまい、そのことによりカンボジアでは教育が停止しただけではなく、知識の継承が止まってしまったという事がありました。その結果、カンボジアでは今でも国民の知的水準はまだ戻り切っていないと言われているそうです。そう考えると、今回は知識という事を主眼としましたが、人から人へ継承をしていくという事は本当に大切な事だと思うのです。

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