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あの頃の話 -じゅんちゃん-

じゅんちゃんは小学校来の友達である。
今では数年に一度、会うか会わないかの関係で、もしかしたら、今尚、友達と思っている事も一方的な勘違いなのでは?と、そんな事も考えなくは無いでいる。
結婚式には行かないかもしれないが、葬式には行くであろう。
じゅんちゃんとはそんな関係だ。

じゅんちゃんは僕の人生で、スターウォーズと同じ位に決定的な存在であると言う事が出来る。
今回は、そんなじゅんちゃんの事を是非とも紹介したいと思う。

じゅんちゃんを話すに当たって、テーマは「かっこいい」である。
出会った時から、じゅんちゃんは零戦の様なかっこよさがあった。
あるいは、日本刀の様であり、リボルバーの様にかっこよかった。
当時の僕の「かっこいい」とは、黄色や赤のペイントがされた怪獣の尻尾ではたき落とされる飛行機や、何処かが回ったり光ったりする戦隊物の剣や鉄砲の事だった。
それとロボットと宇宙人。
色と光にくらくらしていた僕が、そんなじゅんちゃんのかっこよさを分かるはずもなく、何となくそれに気が付き始めたのも、学校が別れた高校や大学生になってからの事だった。
それでも、じゅんちゃんはかっこよくて、一緒にいると楽しかった。

こんな思い出がある。
小学校3年生か4年生頃の事だったと思う。
数人の友達とじゅんちゃんの家に遊びに行った。
遊びに行く事自体は珍しい事でも無いのだけれど、その日、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」がテレビでやっていた。
何をして遊んでいたのかあまり覚えてはいないのだけれど、カードゲームとかそんな事で僕らはテレビに背を向けてはしゃいでいた。
じゅんちゃんは僕らに背を向けて「バック・トゥー・ザ・フューチャー」を観ていた。
「外で遊ぼう」みたいになっても、じゅんちゃんはテレビの前から動かなかった。
そんなじゅんちゃんを横目に、僕は他の友人を追って外へ出たのだ。

じゅんちゃんがいない。
みんなは、その事に気が付いているのだろうか?
そんな事を考えながら遊んでいると、いつの間にかじゅんちゃんも一緒になって遊んでいた。
じゅんちゃんの周りにはいつも人がいた。
じゅんちゃんはそんな人だった。

じゅんちゃんを話す上でどうしても欠かせない事がある。
それは、じゅんちゃんの足がとても速かったと言うことだ。
じゅんちゃんは本当に足が速かったのだ。

小学校女子の間で、足の速い男子にやたらと好意を抱きやすいと言う、特有の現象が見られる事は、皆さんご存知の事と思う。
女子では無いが、僕もこの現象を体感した一人である。
無論、そうなるに至ったのもじゅんちゃんの走っている姿を見てしまった為だ。

しかし、どう言った訳かこの現象は、「幼さ故の迷い事」として、荒唐無稽な取るに足らない事実の様に世間では認知されているらしいのだ。
この解釈は正しく無い。
幼さから「何かを勘違いしてしまった」と言った点では正しいが、「何を勘違いしてしまったのか?」と言った点で正しく無いのだ。

「足が速い事は、人を好きになる理由として相応しいと言えるか?」
僕らはこの問題を、ついこの様に考えてしまいがちなのだが、本当に考えるべきは、そうでは無い。

「好きになった彼は、本当に足が速かったのか?」

「“足の速い男子”の足が、実はあまり速く無かった」
多くの場合、この様に考える事で恐らくこの勘違いがどの様なものであったかを納得する事が出来るのでは無いだろうか?

「なんで、足が速いだけで好きなってしまったのか…?」
もし、その様に嘆く事があるとするならば、もしかしたらそれは、
「なんで、あの程度で足が速いと思ってしまったのか…?」
そう嘆くのが正しいと言えるのかもしれない。
その点は、慎重に見定める必要性がありそうだ。

じゅんちゃんの走る姿を見てから20年以上が経つ。
かっこいい人、かわいい人、頭がいい人、面白い人、絵が上手い人、色んなすごい人がいたけれど、じゅんちゃんの俊足っぷりに適う人はいなかった。

じゅんちゃんの足の速さは、フィクションの世界でも一目置く事が出来る。
いくつか読んだ野球漫画のどの瞬足キャラと比べても、じゅんちゃんの足は引けを取らない。
むしろ勝っていると言って良い。
これはいい加減なものではない。
ヘルメットや帽子を背中の方へ飛ばして走るシーンをよく目にする事があると思う。
これが俗に言う「足が速い」事の表現であると思うのだが、実際はそうでは無い。
いや、じゅんちゃんはそうでは無いのだ。
想像も出来ないだろうが、加速したじゅんちゃんは進行方向ヘルメットを飛ばすのだ。
その原理は計り知れる物では無い。
だから、やはり軍配はじゅんちゃんに上がる。

しかし、世間広しとはよく言った物で、流石のじゅんちゃんもずっと圧倒的な訳では無かった。
ここが、この世界の生きていて面白いところである。

偶然、小栗旬を見かけた時には驚いた。
つい、潰れた蛙のような奇声を漏らしてしまった事から、小栗旬はじゅんちゃんといい勝負だと言える。
また、福山雅治もかなり良い線を行っている。
テレビで見掛けただけであるにも関わらず、「あれ?今、こっち観た?」みたいにソワソワしてしまった事から、きっと実際に会ってみたらかなりいい勝負になるだろうと踏んでいる。

さて、そんなじゅんちゃんの存在は、僕の人生に影響を与えないはずが無かった。
「将来の夢」みたいな事を考える時、「どうせ自分には…」と考えてしまう人が居るらしいが、僕はそうは考えない。
じゅんちゃんが、僕をそうはさせなかった。
じゅんちゃんと言う、まるでフィクションみたいな人が本当に存在してしまった事で、絵描きや漫画家、作家になりたいなんて荒唐無稽な絵空事でも、容易く手に取ってしまえる様になってしまった。
それは単に、岩石みたいな胃袋では消化出来そうに無い物でも、とりあえずは飲み込んで腹の中に納めてしまえると言った程度の事であり、それを栄養に出来るか、あるいは単に腹を痛めるのかは、また別の問題ではあるのだが。
兎に角言えるのは、じゅんちゃんが僕の前を走って見せた事で、この世界はこんなにも面白いと言う事を僕は理解してしまったと言う事だ。
当然、全部が全部、素晴らしい方へ変わった訳では何のだけれど、もし選び直せるとしてもやはりじゅんちゃんの走った世界を僕は選んでしまうだろう。

最後に、それからの話をしてこの文章を終わりにしたいと思う。
最初にも書いた様に、じゅんちゃんとは数年に一度、会えるか会えないかが続いている。
小学校からの趣味であるスキーは相変わらずに、バイクや自転車、サーフィンを始め年中シーズンと言った感じだ。
趣味に打ち込む様はかなりストイックで、手に鉄板を入れたとか、肩と肘はボルトで固定してるんだとか、そんな事を楽しそうに話してくれた。
「体に埋め込むアクセサリー」
手術で入れた鉄板やボルトの事を、じゅんちゃんはそう呼んでいた。
じゅんちゃんが語って聞かせる粋な話のひとつひとつに、僕はますます嬉しくなった。

「何にそこまで駆り立てられるのか?」
僕が聞くと、じゅんちゃんは間髪入れずに答えたのだ。
「オレはやっぱり、スピードが好きなんだよな」
あまり長くは生きそうにないロックスターの様な一言に、その夜、僕は胸を熱くした。

「気をつけなよ」「もう、やめなよ」
そんな事は、これから奥さんになる人に言って貰えば良いだろう。
だから僕は友達として、「いいぞ!もっとやれ!!」みたいな感じで、応援している。
たとえ愛想を尽かされようと、墓場までは付いて行くつもりだ。

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