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人間における「シンボルグラウンディング問題」と「本質観取」

現在、人間社会において、経験に裏打ちされていない概念が多用されている。

社会学者の宮台真司さんがいう「言葉の自動機械」とは、つまり、記号だけの世界に閉じこもり、複雑でカオスな<世界>を忘れている融通の効かないロボットのような人たちのことだ。

これは、20世紀最大の哲学者が「頽落」と呼んだ状態とも完全に重なる。

人間におけるシンボルグラウンディング問題

これは、AIにおけるシンボルグラウンディング問題をメタファーに考えるとわかりやすい。

シンボルグラウンディング問題とは何か?

シンボルグラウンディング問題とは、記号システム内のシンボルがどのようにして実世界と意味と結びつけられるかという問題。
コンピュータには、記号の「意味」が分かっていないので、記号の操作だけで知能は実現できない。シンボルを、その意味するものと結びつける(グラウンドさせる)ことが必要であり、困難である。
出典:第一回:人工知能の概要とディープラーニングの意義(東京大学 松尾豊教授)

これまで、「記号(シンボル)」が、実世界における経験に根ざしておらず、シンボルの世界に閉じこもってたことで行き詰まっていた。これが、シンボルが実世界に接点(グラウンディング)していない問題。

例えば、社会を設計する会議で、「自由」「幸福」を語る人間が、それを経験したことがなければ、どんな議論もまとまるはずがない。

コンピュータで言えば、「自由」について、辞書的に「何も制約のない状態」など他のシンボルの組み合わせで定義しても、実世界とは繋がっていない。

以下、こうした概念についての実世界との着地点を取り戻すために、「本質観取」という営みが有効であることを説明する。

本質観取とは

◯◯とは何か?

という問いは、哲学の原点であるが、その答えとなるものがその名で呼ばれるものの「本質」である。

この、本質を問う営みが哲学(現象学)で、本質観取と呼ばれる。

本質観取とは、真理を想定してそれに近づこうとする「独断論」の姿勢ではない。

また、真理を否定し人それぞれの考えがあるだけだとする「相対主義」でもない。

互いの実体験をていねいに聞き合いがながら、どんな人の体験にも共通することと、人によって多様であることを区別し、中心的な意味を取り出すことを言う。

この本質観取のルーツは、ソクラテスの「〜とは何か」という問いにある。

プラトンの初期対話篇で描かれるソクラテスは、勇気、正義、知恵、節度などをテーマに、対話者たちに向けて、「◯◯とは何か」という問いを向ける。

しかし、プラトンでは、対話者がアポリア(行き止まり)につきあたって終わるのが常となり、「答え」が出されることはない(答えの方向性は示されているが)。それゆえに、「こうした問いは答えがでない」という理解を呼び起こしてしまう。

さらに、プラトンは中期になると、答えはでないのではないかという疑問に対抗するために、「〜とは何か」の答えとしてイデアがあると語る。しっかり議論を重ねれば必ず相対的で流動的な回答ではなく、永遠不変の真実にたどり着くという主張。

本質観取の定義は以下の通り。

<とは何かの問い>つまり本質観取の営みを、さしあたり<ある事柄がその名で呼ばれるための必要不可欠な条件を取り出すこと>と定義することができる。そしてこれんついて”だれもが納得しうる共通了解”をつくりあげられることも、理解していただけたと思う。『現象学とは何か: 哲学と学問を刷新する』 |(竹田青嗣,、西研 等)

本質とは何か

本質とは、<ある事柄がその名で呼ばれるための必要不可欠な条件>であり、さらにその条件について”だれもが納得しうる共通了解”をつくりあげているもの、ということ。

つまり、ある名を持つ概念を、多くの人が納得するくらい(十分に)言語的に説明したもの。

なぜ本質を求めるのか

本質とは何のために求められるのか。

なぜソクラテスとプラトンは、「よさの根拠」を問おうとしたのだろうか?生き方上の諸価値(正義や勇気や幸福)やポリスの制度のよしあしが、自明なものとして与えられなくなった時代を、彼らは生きていたからである。

現代を生きる私達もまた、彼らと同様に、価値の根拠があいまいななかを生きている。そのことは、生の方向を不明確なものとするだけではなく、生の意欲を削ぎかねないことでもある。

そういう現代だからこそ<〜とは何かの問い=本質観取>は意味を持つ。

それは、個人、集団、社会などの様々な次元において、あらためて価値の根拠を問い、自分(たち)を方向づけようとする動機をもつのである。

このような本質観取は、価値不在の現代において、われわれがまた連帯を取り戻すためには必要な営みといえるだろう。

連帯は必要なのか

良識ある知識人はだいたいこういう結論に至る。

しかし、最後に一つ問いたい。

そもそも共通言語を強化し、連帯を取り戻す必要はあるのか?

今の情報化社会において、各自がそれぞれ違うメディアで無数のコンテンツに触れる。

代替案は今のところ思い上がらない。

たしかに、本質観取のような営みがなくなれば、人々がある概念に対して持つ意味合いがズレていき、どんどん話される言葉が空洞化していくだろう。

ただ、だったら、それに代わる異なるコミュニケーション方法が出てくる可能性もあるだろう。




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