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【日本】貧困問題の本質(2種類の社会的承認)

日本における失業、貧困、格差の社会問題について考えたい。キーワードは「資本主義的な承認」と「全人格的な承認」という2種類の社会的承認。

生存は既に保証されている?

日本には「生活保護」という制度があり、本当に経済的に厳しくなれば国が現金給付してくれるので、生活を保証してもらえる。

受給者は現在200万人ちょっとなので、日本の人口1.2億人の1.6%程度。それに関わる支出(医療費も含む)は3兆円程度なので、社会保障の年間支出120兆円と比べると小さいので、制度自体は持続可能といえるだおる。

ということで、現代日本においては既に何もしなくても、生きられることが「生活保護」でセーフティーネットで保証されている。

つまり、動物的な生存は既に保証されていると言えないこともない。

(もちろん、生活保護を申請するのが自尊心を傷つけ保護されたくないというスティグマの問題や、そもそも生活保護制度の存在を知らなかったり手順をしらない人がいるのも事実だが、根本的な問題ではない。ここは粛々と周知させ、明確な受給の基準を示していけばいい。私自身が第三者的立場でこのように一方的に理解するのはよくないが、より問題の本質に近づくために検討している)

であれば、失業、貧困、格差という言われる問題の本質は何なのだろうか?

社会的承認をどう確保するかが全ての人にとって核心的な課題

生活保護受給者における問題は、生活保護から抜け出して、生活保護以上の生活を望むことが不可能に近い、ということだ。(もちろん、生活保護の水準で全然OK,楽しいと考える人もいるだろうが)

仮に生活保護で月13万もらえたとして、その人が、「もっと稼いでいい暮らしをしたい」と思っても、そのような仕事が社会に存在しない可能性が高い。

シビアな話でいえば、生活保護を受ける人は、仕事をするモチベーションや能力が低い人である可能性が高い。人格を否定することはないが、この資本主義社会において、仕事をしてお金を稼ぐ能力は乏しい。

さらに、生活保護に一度入ってしまえば、どんどんこうした仕事能力が落ちていくだろう。自己投資や勉強などこの期間でやろうと考える人はそもそも生活保護を受けない。だからこそ、その打開策となりうるイカゲームに関心を抱く。

これは社会的承認、つまり社会の一員として存在が認められているという尊厳の問題だ。社会という大きなものでなくても、複数人の集団内という小さなものでもいい。

そんなの関係ないと言われる人もいるだろうが、私としては誰しも漏れなく人間であれば社会的承認を求めると確信している。それは、ヘーゲルの哲学や、岸田秀の唯幻論などを読むと理解できる。

以下、人間は生きている限り、社会的承認が不可欠であることを前提に話を進める。

IT億万長者の社会的承認は「資本主義的な承認」

生活保護受給者も、資産数十億のIT起業家も、結局求めるものは社会的な承認だ。それは基本的には、お金を稼ぐとか、大きな組織を作るとか、そういうことで調達される。

お金のために頑張るもの、やりたいのために頑張るもの、大事な人のために頑張るもの、これらは全て社会に何か価値を提供し、自分を価値ある存在だと確信するために誰もが行っている。

億万長者は、その意味で、そういった社会的承認を確信するだろう。

ここで、それを「確信」というのは、あくまでそれは主観的なものだからだ。

さらに、ここで重要なことがある。

お金を稼いだり、会社が提供する商品で間接的に承認を得ているので、それはあくまでも全人格的なものではなく、資本市場における「価値」でしかないからだ。

これを「資本主義的な承認」と呼ぼう。

資本主義が解体した共同体と「全人格的な承認」

資本主義社会の特徴は、こういった市場を媒介した「価値」が得られるようになった代わりに、全人格的な共同体の中での承認がなくなってしまったことだ。

資本主義において、あらゆる「役立つ」ものを金銭的数字に置き換え「価値化」する。そのように言語化できる役立つものを作った限りにおいて、承認される社会なのである。

これに対して、

全人格的な承認とは、お金があるとか、かっこいい、きれい、やさしいのような言語化できる属性に対する承認ではなく、存在自体を受け入れるような承認である。

具体的なことはここでは述べないが、こういう承認は現代においてどんどんなくなっている。なぜなら資本主義というのはそういった共同体を解体することで成り立つからだ。

お金で得られる承認は、全人格的なものではなく、役立つ商品を作ったということによる。

全人格的な承認を確保できていないという点では、億万長者も生活保護受給者も同じである。

ただ違うのは、億万長者は、市場からの「価値」を評価され、いちおうは社会的な承認を得ているということだ。

逆にいうと、全人格的な承認を何らかの形で得ている貧困者がいるとすれば、それは、それを得ておらず多くの資本主義的な承認を得ているIT起業家よりも、幸せであるといえる。

もちろん、上記の話は社会の制度、システム的な話であり、IT起業家も家族や会社の一部では全人格的なコミュニケーションに近いものができているかもしれない、ただ、原理的には役立つものしか評価されない資本主義がベースにある。

打開策は共同体を取り戻すこと?

では、こうした資本市場自体に原理的に潜む問題にどう対処すればいいのか?

ドイツの社会学者、テンニエスのいうゲマインシャフト(Gemeinschaft)的な人間が地縁・血縁・精神的連帯などによって自然発生的に形成した集団が必要になる。イメージされていたのは、 家族や村落などの共同社会である。

一つの考え方として、齋藤幸平さんが提示するような「コモン」というような共有資産を共同体で管理していく社会が考えられる。

我々一人一人が損得勘定、役に立つか否かだけで物事を判断しないように資本主義社会に抗っていくことは大切だが、根本的な仕組みに打ち勝つには、抜本的な改革が必要のようにも思える。

まとめ

ということで、貧困や格差を切り口に考えていたら、社会的承認という人間を支えるより根源的な欲望にたどり着いた。

資本主義の性質上、商品や貨幣を通じて社会的な役割を明確化し、承認を得るということが社会のベースとなる。ここでは、かつて存在したと思われる共同体的な全人格的な承認は退行している。

ただ貧困の問題は、貧困者が資本主義社会で承認を得るために必要ものが欠落している。一方で資本主義的な成功をしたIT起業家などは、市場を通じた承認は得ているが、本質的な全人格的な承認を得ていないという点では貧困者と同じである。

貧困者にとってみれば、資本主義的な承認を得るゲームでそれを勝ち取るのは難しい。身も蓋もない話、学歴、スキル、人脈、勉強習慣などが一定程度ないと厳しい。

かといって、彼らにそうした能力を開発させようというのは根本的な解決にならないと思う。なぜなら、底上げをしたら、それはそれで負け組が出てくるからだ。

だったらどうするか?

視点を変える必要がある。

そもそも、人間にとってより決定的に必要なのは「社会的承認」であるが、それは偶然的な「資本主義的な承認」ではなく、確固たる「全人格的な承認」だ。

貧困者であろうと、「全人格的なコミュニケーション」には開かれているので、場合によっては、億万長者よりも幸福度は高いかもしれない。

つまり、より重要なのは「全人格的な承認」なのである。全人格的な承認が退行しているのが、現代の問題であり、その被害者は、貧困者だけではなく、お金持ちや美男美女、資本主義の勝者といわれる人々も全て含まれる。

この根本的な問題に取り組むことが必要だ。

ただし、役に立つ、有用というような視点ではなく、全人格的な存在を承認するようなコミュニケーションはどのような条件で可能になるのだろうか。また考察していきたい。

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