自己紹介(欲望の歴史)
私は1986年東京都北区生まれ。高校3年に2週間ほどアメリカに短期留学するまでは海外に出たことのない日本育ち。父親は小さな会社を経営しており、母親は専業主婦という家庭で育った。
起業した2019年8月のとき33歳。来月34歳になる。起業しようと思ったのは大学2年(20歳)くらいのときだったがそっから13年経ってようやく起業した。
以下、子供のときからどういう風にして起業に至ったかを「欲望の歴史」を軸にざっくり振り返る。
幼稚園〜小学生(4〜9)
あまり記憶がないが、嬉しかっり楽しかった思い出は3つ覚えている。つまりこれらが欲望の中心にあり、行動のベクトルになっていたといえる。写真をみんなで撮るときは、常に前面にピースで出てくるハイテンションな子供だった。
1.めちゃくちゃ細かい迷路を書いてみんなを驚かせること
2.みんなの前でおもしろいことをして笑いをとること
3.ドッジボールやリレーで活躍すること
小学生(高学年)〜中学生:塾経営志望(10〜15)
ここからは、将来に何をしたいかという欲望(夢)が出てくる。というか、覚えている範囲の最初。
子供の頃から、ほとんど自覚はなかったが、父親が自営業で自由な働き方をしていたことありサラリーパーソンとして働くというイメージはなかったのかもしれない。普通サラリーパーソンの父親なら、組織での振る舞いだったり社会の厳しさとか色々子供にしつけるだろうが、うちはそういうのが一切なかった。あと、父親が呑んだくれたり昼まで家にいる、みたいな生活も子供の頃から目の当たりにしていた。
初めて将来何をしたいかと考えた時、最初は塾の経営者だった。小学校5年くらいから中学受験の塾に通いだし、レベルの高いことを学ぶ楽しさとそれをかっこよく教える先生に憧れた。ああいう塾の場がなんとなく好きで将来自分の塾を持ちたいと思っていた。(しかし、この頃塾の先生が厳しく意地悪な人もいて、それまでめちゃくちゃ自己主張する自分が抑圧された。その後大人しくなる)
今思いだすと小学6年のときにノートに塾の間取り的なものや何人入ればいくら儲かるみたいな計算をしていた。
小学生のころはスポーツがよくでき、通信簿はオールAに近く万能タイプだった。自信満々な子供だった。でも、学校外でも抜けに出るほどある才能はなかった。だから、何かの分野で成功したいとか考えたこともなかった。リーダー的な友達の誘いでテニスをしていたが、付き合いでやっていたので特にこれにコミットしようと思っていなかった。でも楽しかった。
10代の最初の事件は中学受験で失敗し、涙を流した経験であろう。実力不足もあるが、試験で緊張しすぎトイレにいったりなど散々だった。結局、第4志望くらいの中高一貫校に進学した。
中学に入ってからは、スポーツはほどほどに、悔しさからか猛勉強し、意外にも勉強分野で頭角を現した。進学校だったので、学年250名くらいでランキングがでるのだが、中1の最初に1位を取りその後も5位くらいにはずっと入っていた。
それで中学で受けた民間の模試の結果がよく、ひょんなことから高校受験の塾から無料特待生の招待があり、それに行くようになった。そして、進学校であったが高校受験に切り替えることにした。
やはり何かスポーツに熱中したかったから、大学受験をしなくていい付属校に入ろうと思ったのだ。高校受験は中学受験のリベンジが成功し、早慶すべての志望校全てに合格した。これは人生最初の記憶に残っている成功体験だ。早稲田の男気に心を惹かれ、慶應義塾や志木校などは辞退した。
このときの招待されて行っていた駿台がとてもよかった。参考書をいくら読んでも自分では絶対思いつかないいろいろな解法を教えてくれて、これがプロか、と唸ったものだ。御茶ノ水校の坂入先生という名前を今でも覚えている。合格した後に、ちゃんと子供ながらお礼をいいに行ったのを覚えている。こういうところから、教えることに憧れたようだ。
高校生:テニスコーチ志望(16〜18)
次になりたくなったのはテニスのコーチだ。高校生の思い出はほぼテニスだ。テニスに熱中していた。
僕は前述の通り、仲のよい友人からテニスをやる誘いをうけてテニスを始めたのだが、中学時代は(高校受験することになり)あまり本格的にはやらず、高校でテニスに打ち込んだ。高校時代の思い出はやはりテニスだ。東京都で団体2位関東大会にも出場した名門でレギュラーに入っていた。
これも何故かいつからか覚えていないがプレイヤーとしてはではなくコーチになりたかった。高校の頃の佐久間コーチという全日本10位くらいまでいったコーチに憧れたのが大きいかもしれない。聞いたことに対して、的確な教えをしてくたし、何よりテニスが圧倒的にうますぎた。やはり教え手はプレイヤーとしても一流でないといけない、とここで思った。
海外に出ることに漠然と興味があり、当時はまだ錦織圭も出てきてなかったので、海外で活躍する日本人選手を育成したいと思っていた。
大学以降:起業家志望(19〜21)
ターニングポイントは、大学進学だ。僕は大学のスポーツ科学部に入ってコーチになろうと思ったのだが、スポーツ科学部で学んでいた兄から「ここはジャージの人しかいない、お前はもっとちゃんと勉強したほうがいい」といわれ、素直にそれを信じ、国際教養学部という英語を使って幅広く物事を学べる新設の学部を選んだ。
どこでそんな崇高な考え方を学んだのか分からないが、テニスコーチになるにせよ、生物学、数学、経済、政治など幅広く理解しているべきだと考え、さらにもともと英語が好きだったし、海外にも興味があったのでエイヤで選んだ。
2006年ー2007年(19−20歳)に大学で必修になっている留学のためアメリカに行った。シリコンバレーの近くの素晴らしいキャンパスを持つ大学で最高だった。コンピュータ科学とかやっていてメンロパーク出身のアメリカ人と仲良くなり、起業に興味を持つようになった。
正直、その留学前後でビジネスとして起業するというような道を志すように次第になったのだが、一つ覚えている契機は、the world is flatという本でインターネットの可能性に感銘を受けたことだ。インドの医者がアメリカ人を診断するとか、世界はフラットになるという内容。
さらに、ちょうど大学1年でmixiとか大学2年でfacebook、Twitterが出てきた頃だから、ネットを使ってどんどん面白いものが生まれるという空気があって自分もやりたいと思った。僕はサービスを作るとは体験を作ることだとこの頃から考えていた。全ては主観に還元できる。ネットを使って世界中の人と情報を瞬時にやり取りできれば、なにかとてつもなくワクワクし面白い体験を作れるのではないか、と。
あと、根本的な考え方として、既にある商品やサービスをもっと広い地域で売るとか、改良するみたいなのには全く関心がなかった。自分にしかできないことで世の中をあっといわせるみたいなことに憧れた。そもそも、自分がやらなくても誰かやるようなことに熱くなれない、とこの頃から考えていた。
就活・オーストラリア期(22〜25)
2007年7月、留学から帰ってみなが就活モードに入る頃、すぐにインターネット系のベンチャーでインターンを始めた。(ちなみに2007年7月に学校のプログラムで2週間、初めて中国上海に行き、その成長熱に圧倒された。ここで中国への興味が植え付けられた)ただの開発会社ではなく、しっかりと価値あるサービスを作っているところを選んだ。社長がすごくしっかりしていて、自分の最初の仕事経験として大変よい学びであった。(ちなみに当時5人くらいいなかったその会社はその後東証一部上場を果たしている。)
まずは就職活動をすることにした。起業したいと思っていたが、起業するにしても「何を作るのか」という問題があった。僕も就職情報を集めだした。起業するというのはけっこう強い芯としてあったが、まずは就職活動も視野にいれた。
まだ若かったのと、まずは経験を積むのも重要だと考え、当時最強と言われていて、名前だけでちやほやされるような外資の投資銀行に行きたいと思うようになった。しかし、それはあまりに狭き門で失敗。そこに就職できなかったので、海外で就職しようと考えた。
僕はベタに他の人と同じような道に進むのが嫌だった。なのでまずはインターンやバイトでお金を貯めて、家族のサポートも受け1年間オーストラリアに留学することにした。もともとは、オーストラリアの現地で就職しようと思った。
なぜオーストラリアかというと留学コストが安いのと、そのときけっこう有名なネットベンチャーがあったからだ。当初は、クラウドソーシングという分野に興味を持っていたが、そういう会社もあった。(そう簡単に書いているが、アメリカ以外の英語圏で生活してみたかったし、ラグビーにチャレンジしたかった、等いろいろな理由がある)こんな自由な行動を支えてくれた親に感謝。
社会人初期:とりあえず大手で経験(25〜26)
留学も終わりに近づいたころ職探し。オーストラリアではどこの採用にもひっかからなかったので、一旦日本で大手に就職することにした。それに、オーストラリアの生活は大自然的でリタイヤ後にはいいが、当時は刺激がなくあまりそこで就職したいという気持ちもなくなっていた。
あるネットベンチャーでインターンをし内定ももらっていたが、行かなかった。いきなりベンチャーにいかないのは、せっかく留学もしたし後からは入りづらいだろうからまずは大企業で基礎を学ぼうと考えた。オーストラリアからskype面接で内々定までもらえ、しかも事業内容がどんぴしゃの大手メガベンチャーに入った。クラウドソーシングのビジネスプランを面接でずっと語ったのを覚えている。今となってはだいぶやんちゃな事業計画だった。
新卒入社は2011年、25歳のことだ。輩や上司、みなとても優秀でいい人ばかりだったのだが、そこで働いていると、ここにいてもイノベイティブな起業には結びつかないと直観した。そんなとき、偶然にもめちゃおもしろそうなチャンスが舞い降りてきたので、退職した。2012年だから、26歳のときだ。
中国へ:ベンチャー創業期に参画(26〜30)
私が学生時代にインターンをしていた会社の社長が、中国人パートナーと新たに中国ビジネスを展開するということで、そこの創業メンバーとして創業フェーズで入った。ゲーム等のコンテンツの中国展開のしごと。日本社長、中国社長、自分の三人というこれとない環境だ。
僕は、プロダクト(体験を作る)メインで仕事を選ぶが正直そこがはっきりしていなかったので、面白い経験ができるという基準で選んだ。
その社長は凄い人だったし面白かった。その社長と二人三脚状態でしかも中国で働けるという状況だったので、飛びついた。というかこちらからお願いしたくらいだっと思う。結果的に厳しい期間もあったが合計5年ほど中国の南京と上海で働き最高の経験ができた。有名な日本のゲームやアニメ、映画などの中国展開のプロジェクトをいくつも責任ある立場でやらせてもらった。
哲学期(30〜32)
4年ほど中国で働き、そろそろビジネスの仕組みや社会のことに包括的な理解ができてきたこと、欲望は原点回帰した。それは、プロダクトを作りたいというもの(商品やサーブすを作って面白いユーザー体験を作りたいというもの)。
しかし、ここにきて色々わからなくなってきた。面白い体験って何?価値って、よいって何?意識状態よくしたいなら麻薬が最適解?どう生きるのがいいの?社会はどう設計すべき?存在って何?
私はこの手の哲学的な問いに小学生くらいから興味を持っていた。親父がこういう議論が好きで、クオリアとか、なぜ私はわたしなのかなどについて話したことがあった。
そんなこんなで中国駐在中は、本を沢山読んだ。脳科学や宇宙、心理学、哲学、言語学など。そして、ある感銘を受けた著作の著者が母校の教授であることがわかり、運命を感じそこで学ぼうと連絡をとり2016年4月、ちょうど30になったばかりで大学院に入り直した。
二年間、がっつりとハイデガーとフッサールを学び、当初の問題意識を大分解決できた。
日本語教師期(32〜33)
哲学を経て、視界が大分クリアになった。この世の中についてどう考えていくべきか、そのフレームワークを得た。ここらへんは別途いろいろ書いているのでぜひみてほしい。
哲学を終えて、当初は博士や研究者の道も考えていたが、正直続ける意義を見いだせなかったので、当初のビジネス方面に戻ることにした。
語学サービスをやるとずっと考えており、大学院のころも小さい規模で日本語を教えていた。大学院卒業後、再度上海に戻り、大手日本語学校で教師をやることにした。1年で1,000コマ以上日本語の授業を行い、数百人の学生と交流できたのは人生の糧だ。
私はどうしてもベタなことができない性格で、創造性があまりないサービスでスタートを切る気がしなかった。なので、とりあえず大して経験のなかった語学業界で日本語を教えてみようと思った。その理由だけでなく、やはり上海のほうがワクワクするし、将来的に巨大な中国市場にチャレンジしたかったのでそこに身をおいた。
起業(33〜)
2019年8月に33歳で自分の会社を起業した。教養を軸にしているがまずは中国と日本語の語学サービスだ。また、日本人による中国大陸での成功というのにも大義を見出している。
ずっと中国のコンテンツビジネスをやっていたが、やはり芯には自分でプロダクト(体験)を作りたいというのがずっとあったからだ。体験を作ることに執着していたが、それは変わらない。
ではどんな体験?
凄い体験、今までにないびっくりするような体験にこだわってきたが、短期的な体験であれば、結局「麻薬」が最強になってしまうだろう。その他の快楽を瞬時に提供してくれるものも同じだ。これでは動物だ。
でも、われわれは人間だから、人間らしい価値を提供したい。
教養がそれを可能にする。教養とは、「異なる世界を生きる人とコミュニケーションを楽しむ力」と定義し、これを養い実践する機会を提供したい。
過程は省くが、教養を身につけることが人として幸せになる条件だと思う。結局われわれは日々自分と異なる価値観や世界観を持つ人と接するわけで共感ばかりではない。違いをより普遍的にものへ昇華させるのが社会のためにも個人の生にもよいことだ。日常とは異なるものに接し、楽しい体験をすることをコンセプトにしている。
30を過ぎ、どんどん保守的になる周りの人達や自分の感覚に焦りを感じた。今やらなければ、どんどん歳を取ってやりにくくなると思いこれまたエイヤで始めた。正直これまでの業界とは全く違うので、かなりのチャレンジであるが、日々市場から色々学び成長している。根幹にはずっと温めていた強い軸があると思う。これを軸に、日本、中国、世界で普遍的に価値ある体験を創造していきたい。(仲間募集中)
後半だいぶざっくりだが、僕が起業しているのはこういう経緯だ。こう書くといろいろ紆余曲折しているなと思う(笑)でも、やはり、新しく面白い体験を作りたいという軸は常に中心にあったのは確認できた。ちょっと事実的な叙述が中心になったが、心理的な葛藤や喜怒哀楽的なところもいつか内省しまとめてみたい。
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