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【生き様?】ダメな自分を本気で変えたくて、なぜか高知の山奥に移り住んだナカイくんの27年間の人生!!

どうも、こんにちは!
中井康裕です!

今回は恥ずかしながら、僕の人生をまるっとみなさんにさらけ出します。

誕生からなんとなく流れるように生き、後悔して、ダメな自分を変えると誓って、自分の未来を自分でつくっていくと決めた若者の半生です。

ボリューム満点でお送りしますが、最後まで読んでくれると嬉しいでーす!

誕生〜幼稚園時代

1994年10月19日 兵庫県に中井家の長男として生まれる。

その年度は阪神淡路大震災が起きて、僕は生後3ヶ月。
あわてて親が布団に僕を放り込んだと言っていた。
僕の実家は特に被害はなかったらしい。

2年後に弟が生まれて4人家族になった。
僕と弟はよく似ていると言われる。

4歳になり、近くの幼稚園に通う。

この頃の一番の思い出は、おじいちゃんとおばあちゃんと遊んだこと。

おじいちゃん、おばあちゃんは無上の愛で僕をかわいがってくれた。

幼稚園から帰ってきては、おばあちゃんちに行って

・おじいちゃんとお絵かき対決
・おじいちゃんとかるた対決
・おじいちゃんとつみき
・おじいちゃんとものづくり

とかとかをやっていたのが楽しかった。(おばあちゃんは審判)

お絵かきでもかるたでも、いつも僕はおじいちゃんに勝っていて(おばあちゃんが勝たせてくれていた)、その度に大喜びして、ときにはおじいちゃんにダメ出しをしていた笑

その頃から絵を描くことが大好きだった。

「あんたは絵が上手やな〜」
「絵を描くん好きやな〜」

とおじいちゃん、おばあちゃんはずっと言ってくれていた。

その頃は自分が大好きで、自分が描く絵のことも誇らしく思っていた。

幼稚園でもドでかい絵を描いて、画用紙が足りないから2枚目をもらってつなげて描いたりしていた。

そんな感じで絵を描くこと、戦隊、ウルトラマン、ロボタック、カブタックが好きな幼少期時代だった。

余談だけど、誕生から25歳までおじいちゃんに散髪してもらっていた。
(※おじいちゃんは超器用な人で散髪屋ではない)

しかし僕は散髪が好きではなく、散髪すると言う度にごねるのでその度におもちゃを買ってもらっていた笑

そして、幼稚園では人生初のバレンタインチョコをもらってめちゃ喜ぶ。

その子は僕の「おもしろい」ところが好きと言ってくれたのを26歳の今になっても覚えている。

そのあたりから自分はおもしろいやつなんだと思い始めていた。

(※極めて単純である。)
(※その子とは高校も同じになったけど、まったく何もなかった。)

小学生時代

小学校に入学するときに選んだランドセルは黒色。
当時の僕は黒以外の色は邪道だと思っていた。

今もそうだけど、自分の信じているものに強くこだわりがある。

小学生のときはいろんな習い事をさせてもらっていた。

・英語
・プール
・ロボット
・お絵かき(2日でやめた)
・塾?
・野球

塾?はどうだったか忘れたけど、どれも自分がやりたい!と言ったので習わせてもらった。

ここではお絵かきと野球についてお話する。

僕がお絵かき教室に行きたい!といって通わせてもらったのは、たしか小学4年生。たぶん、その頃も絵を描くのが好きだったんだろうと思う。

特に賞というわけではなかったと思うけど、市の展示みたいなのに僕の描いた絵が貼り出されて家族で見に行ったりしていた。

お絵かき教室での、その出来事は今でもすごく覚えている。

2回目にお絵かき教室に通ったときのことだった。

夏休みの宿題で「海の絵を描こう!」ということだった。

小4の僕は僕なりにこれは絶対おもしろいやん!と思って工夫して描いた。

何をしたかと言うと、
海底に捨てられた赤い空き缶の絵を描いた。

「みんなは魚とかの絵しか描かない、空き缶なんて絶対に誰も描かんやろ!うっしっし😏」と、ものすごく得意げな感じでいた。

すると、お絵かき教室の先生が、

「この空き缶はいらないよ」

と一蹴。

自分の「おもしろい」を完全に否定されたと思った。

「自分の絵にアドバイスなんかされたくない」と嫌になってしまい、回数券は残っていたけど、もう2度と行かなくなった。

これは僕が権威に逆らった代表的なエピソード笑

今でも自分のセンスには謎の自信があるので、自分のつくったものによくわからないフィードバックをされると、明らかに機嫌が悪くなる。

自分がつくったものが至高だ、誰の評価もいらない。とこっそり思っている。(※褒められるのは嬉しい笑)

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次の習い事エピソードは小5から始めた野球。
英語に訳すとbaseball。

練習は毎週土日、ほぼ欠かさず行っていた。

ボールが来たら、おもっくそフルスイングする少年だった。

力を調節してこのくらいでバットを振れと言われても、フルスイングしかやり方がわからず、少し怒られいたりもした。

余談だが、
26歳の今でもこれは抜けていなくて、脱力の仕方がわからない。
体を動かすときは常に力がぐっと入ってしまう。
ちょっと困っている。

野球をやっていたときから「下手くそ」と言われ始めたと思う。

監督・コーチなどの大人はどう思っていたか知らないが、チームのメンバー数人からはそう言われていたと思う。

そのあたりから僕は

・ダメなやつ
・出来が悪いポンコツ

というセルフイメージが出来上がっていった。

それ以降、中学でも高校でも「弱い」「下手」「運動音痴」「どんくさい」みたいな感じのことを言われたりすることが多かった気がする。

試合にもほぼ出ることはなく、出てもたまにか、2軍戦で出ていたという感じ。

そんな僕に重要な使命がやってくる。

小学6年生のとき
野球部最後の試合、勝てば優勝という試合で最終回表ツーアウト1塁、点数では負けているという状況。

僕はベンチで試合を見ていた。

急に監督から呼ばれ、代打「中井」とのこと。

「3球思いっきり振ってこい!」と言われ、この試合 初打席。

このときの心境は全然覚えていない。きっと緊張していただろう。

結果は三振。

3アウト、ゲームセット。

僕の三振で負けが確定して、試合終了となった。

あとでコーチから聞いた話では僕のフルスイングで一発でかいのを期待していたらしい。

チームのメンバーは泣いていたが、僕はまったく涙は出てこなかった。

多少、残念という気持ちはあっただろうけど、ほぼ何の感情も湧かなかった。そのあと、泣いてなかったことを責められるのだけど...

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あとひとつ小学校のときの話で書いとかなければならないことがある。
本当はあまり言いたくないし、これまで誰にも言ってことなかったこと。

小4のとき、いじめられていたって話。

このときは本当に学校に行くのが辛かった。

毎日今日はいじめられませんようにと祈りながら学校に行った。

それでも嫌な目に合う日々がとても嫌だった。

外見を揶揄されることも多かったので、大人になるまで自分の見た目に自信が持てなかった。

そんなときに母にすべて事情を話したら、全部聞いてくれて校長先生に相談しに行ってくれた。

で、僕とその子たちと校長先生との話し合いが行われたあと、もうそれ以降いじめられることはなくなった。

このときの母と校長先生には深く感謝している。

この話はここまで。

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あとは小学校のときの思い出としては

「好きな子とどうやったら結婚できるか、結婚したらどんな生活を送っているか」

を妄想するのが大好きった。

その後、高校生になってもそんなことをやっていた。

あのときのゴールの臨場感はハンパなかった。

そんなこんなで小学生終了。

中学生時代

中学については、柔道部と仮面ライダーについて話す。

僕は最初、部活に入るなら「ハンドボール部にしよう!」と思っていた。

小学生のときはドッジボールが得意で、それに似てて楽しそう!と思ったからだ。

しかし入学後、ハンドボール部への入部は断念した。

理由は不良が入ると聞いたから。

不良と部活をするのはゴメンなので、他に部活を探すことに。

そこで、父が高校のときに柔道部だったそうなので、柔道部を見学しにいくことに。

柔道部にしては大勢の先輩たちが練習をしていた。
道場の壁側に座りながら見学をさせてもらった。

そこで一番興味を持ったのは、前回り受け身だった。

僕は前回り受け身を見て「すげー!」と思った。

「前回りしてるだけなのに、バン!って音がする!どうなってんの!?」と笑

それが気になって柔道部に入った笑

僕はなにかを始めるとき、あまり当事者意識がない。
どこか他人事のようでいて、楽観的に飛び込む。

そのあと、どうなるかなんて考えない。

父は僕が柔道部に入ったことを喜んでか「柔道部物語」を全巻揃えた笑

僕は超小柄だった。たしか入学当初は40kgなかったはず。

同級生はたしか15人くらい入部して(柔道部としてはめちゃめちゃ多い)、ほとんどの子が僕より明らかにデカかった。

そこでも言われてたのは

・弱い
・下手

ということ。

野球をやってたときにできた僕の「下手くそセルフイメージ」はどんどん強くなっていった。

これは今思うと悪夢だった、僕の潜在能力を潰していた。

徐々に自分は下手で弱くて負けるのが当たり前、勝てるなんてたまたまラッキーくらいにしか思えなくなっていた。

自分の中でいつの間にか染み込んでいたが、それが普通だった。

でも勉強は真面目にやっていて成績はだいぶよかったので、勉強できるという自信があってメンツは保たれていた。

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そんな僕に"珍"事件が起きる。

1年の夏に練習試合をやろうということになった。
人生初の練習試合。

僕は小柄なので同じく1年生の女の子が相手に。

「お願いしまーす」というあいさつから始まり、練習試合開始。

なかなかいい勝負を繰り広げていた?が、女の子の背負投げ。

「投げられたくない!」と畳に手をついて踏ん張る。

そのとき、バキッと左手の指が曲がっては行けない方向に。

痛かった。

試合は中断され、顧問の先生の車に乗せてもらい病院へ。

このときの心理状態はバグっていた気がする。
病院に連れて行かれながら、心の中ではひそかにウキウキしていた。

「もしやこれは骨折ではないか!?そうだったらいいな♪」と。

結果、左手の薬指と小指の付け根が骨折していた。

こんなことを思いながらも痛いのは痛かったので、まいった。

少しクレイジーだが、僕らしいっちゃ僕らしいエピソード。

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そして中3になり、最後の大会。

一番軽い階級で地区大会に出場した。

一回戦、相手とかなりの接戦でなんとか判定勝ちした。

「やったー!」と喜んで、続く二回戦では抑え込まれて負けた。

これで中3最後の大会は終了した。

高校に入ったのちに聞いた話だけど、この僕が勝った一回戦は

「最下位決定戦」

と言われて他校にバカにされていたらしい。

相手の子もその学校で最弱とされていたらしく、僕と当たって最下位決定戦になってしまったというわけ。

僕は判定勝ちしたので、最下位決定戦の2位になった。

中3の僕は一回戦勝てたことで満足していた。

と、ここまで読んでもらうと最弱と言われ、女子に骨折させられるという散々な柔道生活に思われるかも知れないが、仲のいい友だちもいてなんだかんだ楽しかった。

女子の先輩からは明らかに自分だけ可愛がられていたし、後輩にはめちゃ慕われていた。

そんな感じで中学柔道部物語は終了。

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仮面ライダーディケイド。

このライダーのおかげで僕は仮面ライダーがとても好きになる。
この番組が僕の人生を変えたと言っても過言ではない。

ディケイド=10周年。
そう、このライダーは平成仮面ライダー10周年作品。

10周年記念ということでクウガ、アギトなど過去作品の平成ライダーが出てくる。

僕は小さい頃見ていたライダーが出てくるということで、見てみることにした。

第一話放送からめちゃめちゃハマった。
録画をして何度も同じ放送を繰り返し見て、学校で仮面ライダーの話をするのが好きだった。

ライダーの良さを話すと延々と話してしまうので割愛するが、

どれだけ自分が傷ついたとしても、市民を守るために悲しみを背負いながら底なしの笑顔で戦い続ける姿

が僕はかっこいいと思っている。

ライダーとの出会いがこれからの僕の人生を勇気づけ、辛いときも乗り越えられる力となった。

26歳になった今も、毎週見逃すことはなく楽しく観ている。
(※好きなライダーはクウガ、龍騎、W、フォーゼ、ドライブ、ゼロワン)

石ノ森章太郎先生へ、ライダーを描いてくれてありがとう。

高校生時代

高校入学時はすべての同級生が敵に見えていた。

僕はとてつもない人見知りで、入学式のときに隣の子が話しかけてきたときも、「話しかけてくんなよ」と心の中で思っていた。

今はマシにはなっているがけっこう今も人見知りは継続中。
(※そうこれでもマシになったほうなのだよ)

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そんな僕はまたまた柔道部に入った。

入学前はバドミントンとか卓球みたいな楽ちんな部活に入ろうと思っていた。(バドミントン・卓球部の方、当時の僕がすみません)

しかし中学で柔道部だった友人が柔道部に入るということだったので、見学だけ行ってみるかーと柔道部を覗きに行った。

見学に行くと、部室に3年生の先輩が1人いた。

あいさつをすると

「柔道部入るやろ?新人戦は出る!?」

と当たり前のように言われ、僕の口は当たり前のように

「はい、新人戦出ます」

と言っていた。

というわけで高校でも柔道に入った。

中学のときもそうだったけど、自分がこれから柔道部に入って3年間頑張るんだという自覚のないままというか、はいはーいと流れるままに入部することになった。

柔道部でのお話はこちら。

👆のnoteで書いてない柔道部の話をすると、必殺技を手に入れたということ。

その名も「三角固め」

寝技の一種で相手の頭と腕を脚で挟み込んで、絞めながら抑え込む技である。(※文字では想像できないと思うけど...)

この技を始めたきっかけは、さっきの3年生の先輩だった。

先輩と練習しているときに「脚の力強いな、三角やったらええやん」と言われた。

その一言で、高校3年間他の技には目もくれず、三角だけを繰り返し繰り返し反復して練習し続けた。

極めて単純な性格である。

その甲斐もあって試合で通用するようになり、

自分も何度も何度も繰り返して練習すれば何かひとつのことを成し遂げられるんだという成功体験にもなった。

ちなみにそれ以降、特技ができなかったので就活の履歴書にも

特技:三角固め

と書いていた。

そして耳は潰れ、弐段を取得するまでに至った。

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お次は大学受験の話を少しばかり。

僕は2年生になり、理系を選択した。

というのも、小学生の頃から僕はロボットが大好きだったのだ。

ドラえもん、アトム、アシモ、ロボタックなどにめちゃくちゃ憧れを抱いていた。

だから小さい頃の夢は科学者

車が空を走ったり、タイムマシンで過去・未来に飛んでいく空想を思い浮かべるのが好きで、将来はドラえもんのようなロボットを作って息子に誇れるかっこいいお父さんになりたいと夢見ていた。

それを目指す自分が誇らしく、小学校で将来の夢を発表するのが好きだった。

だから、理系を選択した。

しかし実のところ数学・化学・物理が大嫌いで大嫌いで、もう勉強についていけていなかった。(※小5から算数に苦手意識が...)

嫌いだから勉強しない→勉強しないからわからない→わからないから嫌い

という負のループになっていた。

物理の定期テストなんて、何を言ってるのかまったくわからず、ほぼ全ての解答欄に

F=ma

を書いていた。
(※もはやこの法則が何なのかもよく覚えていない)

定期テストでは毎度12点を取っていたが、なんとも思わなかった。

超余談
【「なんとも思わなかった」ということを本noteによく書いているが、感受性がないのか、どうでもいいと思っているのかその辺はどうなんだろうとふと執筆しながら思った。ちなみに小学生の頃、本を読んでも感じることがなかったので読書感想文に困り、おばあちゃんに書いてもらっていた。】

そして、一度ほんまにやらかしてしまったことがある。

高校3年の夏休み明けの数学の実力テストで人生初の0点を取った。

そのときの数学の先生は担任であり柔道部の顧問だったので、さすがにこれはやってもうたーと思った。

これには少しわけがある。

高3の夏に仮面ライダーのアクターになりたい!と本気で思っていたのだ。

東京にあるジャパンアクションエンタープライズ(JAE)に行けばなれるというのを知り、資料請求し、高岩成二さん(平成ライダーの主役を18人演じた人)が出ている本を書い、YouTubeでアクションを調べ、仮面ライダーを録画して観ながら変身ポーズをひたすら練習していた。

かなり没頭していた。

そんな夏休みを過ごしていたとき、請求したJAEの資料が届かないなーと思っていた。

母に聞いてみると、母が隠していた。
進学校に通わせ、塾も行かせてるし、高3の夏だったので大学に行かずに、スタントの道を行くのは言語道断という感じだったんだろう。

少しショックだったが、届いた資料を見て期待に胸を膨らませていた。

そんなこんなで夏は過ぎ、数学で0点を取った。

「わーお、まさか0点を取る日が来るとは...やってもうた」

とショックは受けなかったが、笑えもしなかった。

その後、「大学に行くのが当たり前」という学校や塾や親の外圧にまみれて、いつのまにかアクターを目指すということは思わなくなり、大学を受験することになった。

昔から好きなロボット関係のことができる大学に行こうと思っていた。

だけど、今振り返るとそのときにはもうロボットはhave toになっていた。

have to(しなければならないこと)になっていたことに気づかず、それを自分のwant(やりたいこと)だとごまかしながらやっていた。(直感では気づいていたけど、それがやりたいんだ!その道しかない!というふうに枠にハマっていたんだと思う)

なので勉強には身が入らず、12月くらいまではボケーっとしていて、セブンイレブンの仮面ライダースタンプラリーを楽しんでいた。

母と担任と自分の三者面談のときも、志望校の話を親がガッツリしてるので「進路、お母さんばっかり考えてるやん」と先生に言われた。

「あ、ほんまや」とそのとき気づいた。

正直、自分が受ける大学がどんなところか調べたことがなかった。

親が関西でこんな学校にこんな学科があるでというのを調べてくれて、それいいなと思ったら受験させてもらってたって感じ。

たぶん受験はギリギリまで自分事ではなかった気がする。
何も考えていなかった。

「仮面ライダースタンプラリーしとるらしいな」とも三者面談で先生に言われたが、母は「毎年のことですので〜」と流していた笑

高3のお正月もライダーの映画を観に行っていた。
(※お正月にいくと限定ポストカードが貰える)

結局大阪工業大学だけに合格し、そこに行くことになった。

塾を辞めたい!と反旗を翻したこともあったが、たぶん行き続けてなかったらどこにも受かってなかったと思う。

目的もなく、よくわからないまましていた勉強は完全にhave toだった。

このとき自分の意思を貫いて東京に行き、JAEの養成所に通っていたら人生どうなってたんだろうと思う。ま、当時そんな勇気はなかったが。

高校生活もそんな感じだったが、それなりに楽しかったし、仲のいい友だちもできた。

大学生時代

大学は工業大学で男まみれの学校に進学した。大阪に下宿生活。

ギリ受かった大学とはいえ当時は学歴にコンプレックスがあり、ここは自分のレベルからするとレベルの低い大学だと見下していた。

ということで僕は編入試験を受けることにした。
やりたいことがあって編入する!ではなく、今の自分が嫌だから編入したい!と思った。

そのために今までにないくらい数学の勉強した。
(※なぜまた嫌いな理系を受けようと思ったかは謎)

内申点?的なものも上げるためにめちゃ勉強した。

実際の編入試験にも手応えがあり、これは受かったかも!?と思った。

けど落ちた。

そんなこともあって1年生のときは成績がめちゃよかったが、落ちてからまた勉強のやる気は無くなっていって、勉強がわけわからなくなっていった。

でもまぁそんなもんか、勉強って別に楽しいもんじゃないし面倒なのが当たり前と思っていたのでなんとも思わなかった。

そんな感じで、3年生の3月になっていた。

春休みだったが、何かしらのきっかけで同級生は就活をやっていると聞いた。

「え、就活ってもうやるの?」

と思った。

研究室の先生に「僕、就活まったくやってないんですけど...」と電話したら、「何やってんのよー!」と言われたのを覚えている。

そこから話をしてもらって

「どんな会社に行きたいの!?」と聞かれて、

「実家から近い会社だったらいいです。僕、長男なので」

と大真面目に答えた。

「長男だから地元に戻ってきて就職するのが当たり前」

と僕は無意識のうちに思っていた。

僕の知ってる限りでは

中井家はひいおばあちゃんから同じ小学校に通い、ずっと地域に密着した家族だった。

それもあって、中井家では地元に住み続けるのが普通になっていた。

親からも帰っておいでと言われていたし、おばあちゃんに至っては将来僕が住むための土地を買ってくれている。

そんな感じで過ごしていたものだから、それが普通で長男としての使命を果たすんだと思っていた。

無意識って怖いね。

その通りに地元から通える会社を探して、5月末には内定をもらっていた。
(ちなみに2社しか受けなかった)

ベリーイージー就活。

内定をもらったところは、機械設計をする会社だった。

ロボットの仕事ができるからいいやーんと思っていた。
そのときはhave toだったことに気づかずに。

よくわからない学生生活を送っていたが、バイトはとても楽しくやっていた。

かなり特殊な仕事で、とても楽しくて、とてもしんどくて、とても悔しくて、とても仲間思いで、人として本当に成長できた場だった。

今の自分を形成する大切な期間だったと思う。

会社員時代

ベリーイージーな就活を終え、実家から通える会社に入社した。

4-6月は本社で同期9名と一緒に研修を受けて、これまたイージーだなと思ってやっていた。

7月に希望のロボットの設計ができる部署に配属され、また1ヶ月イージーな研修を受けて、これからが楽しみだと思っていた。

でもイージーなのはそれくらいまでで、それ以降は僕にとって人生で一番辛い時期が待ち構えていた。

入社して5ヶ月の9月くらいから本格的に仕事!となってきた頃から上手くいかなくなっていた。

何が上手くいかなかったかと言うと一番は人間関係

僕が配属されたグループには10人くらいのメンバーがいたが、事務所には2人しか上司がおらず、他の人達は派遣されて他社で働いていた。

僕は事務所で働いていたけど、この2人がとてつもなく苦手だった。

詳細は記さないが、ジャイアンとスネ夫のようなコンビだった。

で、自分がのび太。

何をするにしてもジャイアンに怒られて、スネ夫に嫌味を言われ続けた。
(※もちろん自分にも否はある)

それで僕はかなり消耗し、会社に行くのが辛くなっていった。

朝起きるのが嫌で、電車の時間になると萎え、駅から会社までの徒歩ルートで吐いたりしていた。

それでも会社に行き、案の定怒られ、ショックを受け、1年目は役に立たないから残業代は出ないということで早くタイムカードを切って残業し、仕事が終わり、会社のドアを出た瞬間から開放された気がして夜の道をとぼとぼ歩いて帰った。

帰り道でも「なにやってんねやろ」と立ち止まったりしていた。

今から考えると鬱って感じだったのかなと思う。

毎朝行っていたセブンイレブンに入る前に立ち止まり、体が動かなくなったときと「今、車にぶつかって事故ればもう会社いかんで済むやん」という思考がよぎったときは、本当にやばい心理状態だったと思う。

それでも会社に行った。
あまりにも真面目というか、行かないとなんと言われるんだろうという恐怖があった気がする。

職場はコンフォートゾーン(慣れ親しんだ快適な領域)ではなかったので、なぜか思わぬ失敗はするし、初歩的なことが抜けたりするし、体調が悪くなっていた。

このときは頭が悪すぎる病気なんかとホンマに心配になって、脳を調べるってどうやってやるんやろうと調べた。

同期は同じ事務所には配属されず、あまり友好的でない僕は事務所に仲間がいなかった。

毎朝のように
「誰か会社を爆破してくれんかなー」
「台風で壊れろ」
「会社潰れてくれ」
とグチっていたのを聞いていた母には申し訳なく思う。

それは翌年の7月くらいまで続いた。

その2年目の7月に何が起こったかと言うと、後輩が入ってきたのだった。

そのときスネ夫は派遣され、ジャイアンと2人で仕事をしていたところに違うグループではあるが後輩が入ってきた。

ジャイアンの標的は僕ではなく、1年目の後輩に向いた。

僕は自分が受けてきたように後輩には接しないと思い、他の人よりは穏やかに振る舞っているつもりではあった。

しかし力及ばず、配属3ヶ月後に彼は鬱病になり辞めていった。

とても不謹慎だとは思うがその時、彼が羨ましかった。

自分で辞めると言って辞めた。

すごいな、自分にはできないなと。

それ以前にも同じ事務所の他グループの先輩も何人か辞めていってて、いいなーと思っていた。

僕には辞めるという勇気がないまま、そのまま時間は過ぎていった。

職場でも僕は「ダメなヤツ」という烙印が押されている気がしていた。
実際そんなことも言われてたし。

その後、会社員3年目の秋に人生を変える転機が訪れる。

※補足
この章では先輩について良くないように言ってしまっていますが、恩に感じるところもあります。理不尽なことも多かったですが、僕の良くないところも多くあったように思います。

筋トレ時代

会社員3年目の9月下旬、いつもどおり「会社爆発しろ」と思いながら発信もしたことないTwitterをダラダラ見ていた。

すると目に飛び込んできたツイートがあった。

松田とガチンコダイエット対決

2ヶ月間、株式会社GOAL-Bのなぎらさんのパーソナルトレーニングを受けて、松田さんとダイエット対決をするというものだった。

その参加者を募るツイートを見て

「うっっっっっっっっっっっっっっっわ!!!めっちゃやりたい!!!」

と思った。

近くにいた母にもこんなんあるで!って言ってたのを思い出す。
僕はすぐに人に自分にあったことをしゃべりたくなる。

しかし喜んでいたのも つかの間、

ツイートを詳しく読み込んでいると、ショッキングな一言が...

「大阪在住の方限定」

うっっっっっそーーーーーん😭と思った。

そう僕は兵庫県民。

「こんなに面白そうなことないって!やりたいのに!!!」と。

これまでの僕ならしょうがないかーと諦めていたが、何を思ったか今回は違った。

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やったーーーーーーーーー!!

めちゃめちゃ大喜びして、参加費は約20万円だったけどすぐに申し込んだ。

今思うとここに書いた「体を変えたいです」は

自分(人生)を変えたいです」だった。

この決断から僕の人生の風向きは変わりだした。

最終的に参加者は僕を含めて5名になり、初日の顔合わせがとても待ち遠しかった。

結論から言うと、この2ヶ月間はこれまでの人生で一番自分の命を燃やした期間だった。

仕事をなんとか早めに終わらせて大急ぎで電車に乗り、JRで姫路から大阪へ向かい、1時間パーソナルトレーニングを受け、家に帰り着くころには夜の12時頃だった。

大変つかれたが、毎週2日のパーソナルトレーニングが楽しみで楽しみでしょうがなく、トレーニングがあるから頑張ろう!と前向きな性格になっていった。

パーソナルトレーニング以外にも仕事が終わったら会社から自転車を漕いで、エニタイムフィットネスに行った。

このときは自分がやりたい!と思ったことに素直になり、頑張っている自分が好きだった。

小学生の頃からの「下手」「ポンコツ」みたいなセルフイメージや、仕事関係で上手くいかず、自分なんてダメでどうしようもないやつというネガティブなことを自分に思っていたが、

そうではなく、自分にも可能性があるのかもしれない!と思えた。

2ヶ月もあると途中、減量がきつく妥協してしまいそうになったこともあった。

でも今回の企画にかける想いはそんな生半可なものじゃなかった。

「この2ヶ月頑張りきれなかったら、一生これまでの弱い自分から変われない。それだけは絶対に嫌だ。」

その想いだけを胸に最後まで走り抜けた。

(※この文章を書いている今も感極まって涙が止まらないんだけど...)

仲間のみんなも誰一人諦めることなく、最後までやりきった。

そして2ヶ月があっという間に過ぎ、ダイエット対決には負けた。

こんなに気持ちのいい負けは初めてで、人生で初めて自分に勝った瞬間だった。

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松田の兄貴、なぎらさん、きいさん、はっせんさん、オオタニさん、きょうへいさん、電気屋さん本当にありがとうございました。

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今でもこの仲間とは一緒に旅に行ったり、仕事をしたり仲良しである。

転職時代

松田とガチンコダイエット対決の期間中、なぎらさんに仕事の話をしていた。

「中井さん、転職しますか!」と言われたので

「します!」と答えて転職関係の人を紹介してもらった。

それが会社員3年目の12月頃の話。

僕はプロテインを販売している会社を一社見つけ、そこに受かるように転職活動をしていた。

学生の頃の就活をまともにやっていないもんだから、自分の強みとかわからないし、志望動機とかもあやふやだったので履歴書や職務経歴書を書くのに苦労した。

また僕は面接の練習もほぼしたことない上に、人見知りだった。

そんな自分をなんとかしたいと思っていろいろやった。

・国際交流パーティに参加してフランス人と頑張って話す(日本語)
・バーで知らんおっちゃんに話しかける
・Twitterで知らない人を集めて飲み会
・Twitterで面接練習相手を募集して面接対策をしてもらう(3名)
 →まったく知らない方、きょうへいさん、松田の兄貴

このときはエフィカシー(謎の自信)が高く、なんでもできる気がしていた。

そんなこんなで、今の自分を変えたいと苦手なことにも取り組んで頑張っていた。

で、来たるべき一次面接は受かったと思って自信満々で、落ちた。

落ちたし、次どうしようかなーと思って他の転職先を探していた。

これといって自分がいいなと思う仕事がないので、2社くらい勧められたところで受けようと思い、履歴書とかを書き始めていた。

しかし、履歴書を書くのにペンが進まなかった。

このときのモチベーションは、今いる会社はいたくないから他の会社にいけばなんとかなるだろう〜のほほんという感じ。

このまま今の会社にい続けてもお金は入ってくる状態だったので、余計に転職活動に身が入らず、少しズルズルやっていた。

そんなとき僕はベストボディジャパンを目指して、なぎらさんのパーソナルトレーニングを再び受けていた。

いつもどおり大阪のジムに行き、トレーニング用の服に着替えようとしてたときだった。

なぎらさんは、のほほんとしている転職活動状況を察し、

「中井さん最近全然じゃないですか!?」

と一蹴。

そして、僕はグサリ。

薄々感づいていた自分の状態をまさに言い当てられた。

そしてなぎらさんが、

「今日トレーニングとかいいです、人生の話をしましょう。

と言ってくれた。

机を引っ張り出してきて人生の話が始まった。

人生の話は今思うとコーチングというやつだった。

みっちり僕の人生の話を2時間終え、僕はある大きな決断を下した。

「会社を辞めます」

自分のしがらみは当時の会社だとわかったので、僕はそう言った。

このときはすっっっっごい決断をしたと思った。
3年間ずっと心に留めていたものを開放し、既存の生活を破壊するものだと思っていた。

しかし、

「ここで決断しなければ、一生決断できないしょうもない人間のまま死んでいくだけだ。」

と思って決断した。

そのとき緊張感というか、高揚感というか、絶対感というかそんな感覚の中、部長に会社を辞めますLINEをした。
(※翌々日会社に行き、きちんと事情を説明した。)

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それを送信し終えたあと、膝から崩れ落ちた。

トレーニングスタジオGOAL-Bから野田駅のすごく短い距離の中、なんども立ち止まり自分の決断に思いを馳せた。

ここから人生が想像を超えたことになる。

高知の山奥時代

僕はほぼ誰にも言わず、突如として高知の山奥に移り住んだ。
65歳以上の高齢者が人口に占める割合が50%を超えた地域、限界集落だ。

なぎらさんの人生の話を終え、部長に退職すると告げた僕は次の展開はどうしよっかなーと、のほほんと考えていた。

退職すると部長に言った瞬間にバゴッッッとスコトーマ(心理的盲点)が外れ、転職する以外の選択肢も思い浮かんでいた頃だった。
例えば、起業だったり。

退職を決めるちょっと前、高校柔道部の友人である林の発信をTwitterで見ていた。

👇この人が林。

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彼はNPO法人ひとまきの事務局長として、高知県の山奥で若者のキャリア支援をやっていた。

その活動の中で「次世代生き方図鑑vol.2」という、全国の次世代的な生き方をしている人を記事にした図鑑をつくりたい!ということでクラウドファンディングを実施していた。

僕はその当時会社員をやっていてお金もあったし、おもしろそうと思って「山奥でキャンプ」「次世代生き方図鑑vol.1をプレゼント」のリターンに支援していた。

そんなことはすっかり忘れていたが、退職を決めた後次世代生き方図鑑vol.1っていうのがあったことを思い出した。(これがRAS発火)

僕は林に連絡をした。

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そんな感じでやり取りを始めると林からあるお誘いが。

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高知の山奥にあるシェアハウスに1年間住まないかというお誘い。
4日後、返信した。

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ってな感じで、僕の高知行きは決まった。

次の仕事もないし、そんなやりたいことも明確じゃなかったけど

・おもしろそう
・他の人あんまやってなさそう
・急に山奥暮らしとか笑ける

という理由で高知にいくことに決めた。

とりあえずは乗っかる僕。

2020年の5/15で退職し、5/30に高知のシェアハウスに引っ越し。

まったく知らない人たち(男2女2)での暮らしが始まった。

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よくシェアハウス生活をしているというと「テラスハウスみたいな感じなん?」と何っっっっ回も聞かれたが、テラスハウスを見たことがないので、「わかりません」と何度も答えた。

朝早くからうるさい、ごぼうのアクを抜いてない、お肉レンチンで焼けてもうてる、帰ってくる日の連絡をしろなどなど多少の揉め事はあったが、今となっては笑い話。

4人揃って食べる晩ごはん、一緒に川に行ったこと、仕事での成果を話したり、悩みを共有したり、サプライズで誕生日を祝ってくれたり、BBQ後に河原で寝そべりながら未来のことを話したり....言い出したらきりがないけど、むちゃくちゃ楽しくて愛おしい時間だった。

そんな1年間をギュッと凝縮した2分の動画を作ったので、ぜひ見てほしい。

ここでできた友だちは本当に”親友”と呼べる存在になった。

今でも会ったりするし、ちょくちょく電話をしたりする。

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そんな中で、僕はいろんなことにチャレンジしてきた。

箇条書きにするとこんな感じ。

・コーチング
 →10分間コーチングを受ける
 →定期的にコーチングを受け続ける
 →TCS認定コーチの取得
 →認知科学のコーチングスクール卒業(かねコーチ)
 →マキワリプログラムの実施

・動画編集
 →AKIOBLOGやGOAL-Bチャンネルの編集
 →しゅんダイアリーの編集
 →自分のYouTube"ナカイチャンネル"の発信

・コミュニティ運営
 →参加者10人ほどのオンラインコミュニティを発足

他にはオンラインでチャレンジ企画をやったり、友だち増やす企画をやったり、SUPのトレーニングをしたり、いろいろとやってきた。

フリーランス1年目はこの箇条書きしたことに対して、かなりの時間を割いたし、かなりのお金を投資した。

仕事の定義は「人の役に立つこと」「お金を払ってもやりたいこと」。
お金は関係なく、それに忠実にやれたと思う。

高知生活1年目はそんな感じ。
詳しくはルーティン動画を上げているのでYouTubeをご覧あれ^ ^

上記の中で、最も力を入れたのはコーチングだった。

コーチング時代

僕は退職を決意したくらいのときは、GOAL-BのAKIOさんのコーチングを受け続けていた。

コーチングを受ける中で僕は、

「なぎらさんが人生の話をしてくれたように、人の役に立つことで感謝されて、めちゃめちゃ大人数の人に見送られて死にたい」

と言っていた。

その方法としてコーチングをやっていきたいと思った。

コーチングはクライアント利益100%の仕事なので、感謝されたいというのは不純な動機だったが、そのときは知らなかったので許してほしい。

そこから手段はわからないけど、真っ先にクライアントを募集して期日を決めて、大急ぎで本を買って勉強して、オオタニさんや電気屋さんに連絡をして練習相手になってもらったりした。

この経験は自分で現状の外側にゴールを設定して、時間の使い方が変わって、実際にやりきったという成功体験になった。

そこから僕はプロコーチと名乗って活動を始めた。

自分で勉強したり、コーチと話したり、コーチングを受けたり、資格を取ったりする中でどうしてもコレが大切だなということがわかった。

それは、「あり方 」

本気で自分に対して向き合い、自分の人生に挑戦し続け、真剣に生きているその姿こそがコーチとして「あり方」だと僕は思っている。

そんなイキイキと生きるコーチの姿が、

人に勇気を与え、本当の意味で「自分は可能性の塊である」と信じる心を育むのではないかと考える。

僕はwantで生き、現状の外に向かって挑戦する人生をこれからもつくっていく。

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コーチとして活動していくうちに、僕は素敵なコーチ仲間とめぐり合い共に仕事をするようになった。

ひとつはWhanau合同会社

2021年の3月に法人化した「毎日ニコニコ」がビジョンの主にチームビルディングをする会社だ。

5人全員がコーチで、5人全員代表社員という少し変わった形態の会社である。

なんでもありのヒカルさん、なぜか初対面でいきなりステーキに行った仲の修平さん、ダイエット対決で共にチャレンジしたオオタニさん、同い年でコーチ友だちのちゃんくにと僕の5人。

Whanau(ファーナウ)という名前も変わっているが、これはマオリ語で「大家族・仲間・絆」という意味を持つ。

僕はこの社名が大好きで、これからどんどん色んな場所でWhanauをつくっていく。

Whanauでの最初の挑戦としてクラウドファンディングを実施した。

今までの友人や、お世話になった人たちに自分たちはこんなことがしたいんだ、だから支援してほしいとお願いをしまくった。

中には否定的な意見もあったけど、多くの人が賛同してくれて支援をいただいた。

増えていく支援額、応援のメッセージに強い責任感を覚え、心の底から支援をいただく有り難さを痛感した。

そしてクラファン最終日の夜20時頃、目標金額の75万円を達成して大喜びした。

人生で初めて目標を立て、達成した喜びはすごかった。

そして、現在支援いただいたお金で部活動やクラブチームにチームビルディングを届けさせてもらっている。

これからもっともっと活動を広げて、Whanauをつくり、毎日ニコニコな未来を実現していく。

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ふたつめはNPO法人ひとまき。

先程も書いたが、僕を高知の山奥に誘った林が事務局長をやっているNPOで、若者のキャリア支援をやっている。

僕はそのNPOのスローガン

「何度でも生き方を選ぼう!」

に惹かれてコーチとして2021年4月にジョインした。

かくいう僕も生き方を選び直しつづけているひとりだ。

ここにいるメンバーはみんな自分の人生に向き合い、立ち止まり、自分の生き方をつくっている。

・退職したが、自分はこれからどうしていきたいかわからない
・今 have toにまみれていて、やりたいことがわからない
・現状に不満があり、変わりたいけどどうしよう
・悩みがあるが、相談相手がいない

という若者は多くいる。

僕たちはそんな若者に”居場所”をお届けしている。

内閣府が出している子供・若者白書(旧青少年白書)を見てもらうとわかるが、

・居場所の数
・相談できる人がいる場の数
・困ったときに助けてくれる人がいる場の数

が多いほど、比例して

「自己肯定感」「チャレンジ精神」「今の充実感」「将来への希望」「社会貢献意欲」が高まっていることがわかる。

しかし子供・若者白書を見て、2016年と2019年を比べると若者にとって”居場所”は減ってしまっている。

僕たちひとまきは、

そんな若者に絶対に否定されない居場所をお届けし、自分の生き方に向き合い、本当に自分のやりたいことを探し、自分の人生を生き抜くお手伝い

をやっている。

本人以上に彼らの可能性を信じて。


ダイエット対決に思い切って申し込んだところから始まり、筋トレをし、転職活動をし、退職、高知県の山奥に移り住み、会社を共につくって仕事をしている。

こんなことになるとは1年半ほど前には想像もつかなかった。

会社員時代のいつかこうなったらいいなーが思い返せば形になっていた。

あのとき、自分を変えたいという気持ちだけで動き出してよかった。

ここまで過去の話をしてきた。

次はこれからの話しをしようと思う。

これから時代

2021年夏、26歳の僕は"へんてこ"という言葉を好きで使っている。

僕の思う"へんてこ"を名詞限定すると、

「シュールで人とズレていてオリジナリティーにあふれていること」

僕はこれまでも、これからもこの信念をもって生きていく。

それを体現していく大好きな方法として「絵」がある。

僕が絵が好きなことについてはこちら。

僕は

ある人が見るとスコトーマ(心理的盲点)がバッコーーンと外れ、これまでの自分の心を破壊し、新しい自分に生まれ変わるが、ほとんどの人は笑って楽しい気持ちになるだけ

という絵を描くぞ!と思いで活動をしている。

これは僕の「びっくりさせたい」というwant toから来ている。

というわけで僕は今後、画家と名乗ることにする。

数年後、僕はその絵を描き上げ、その価値は数十億になっている。

今、僕の絵を持っている人は超ラッキーだ。
将来、中井が描いた初期の原画を持ってるんだぜ!と自慢できるんだから。

もし希望者がいれば、このnoteをここまで読んでくれた人には既存の絵を着払いでプレゼントするので、何かしらで連絡してほしい。

それからコーチングをもっとガチるため、自分をさらに飛躍させるためにMindsetコーチングスクール第5期に入った。

これもずっと念願だったが行けてなくて、ようやく踏み出せた。

2021年8月〜2022年4月までの9ヶ月間で何度も自己変革をしていく人生を歩む。

そして実はもうすぐ高知を離れ、新たなへんてこ挑戦が待ち受けている。

そのお話はまた今度。

愛知でラグビー時代

※2021.10.18追記

2021年7月29日(木)Whanau合同会社を一緒にやっているヒカルさんからこんなLINEが来た。

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次の日Whanauの仕事で大阪の高校ラグビー部にチームビルディングをしに行くので、それの話かと思った。が、違った。

zoomを開くとヒカルさんが現れ、開口一番にこう言った。

ヒ:「中井さん、スポーツに情熱を燃やしませんか?」

中:「?」

ヒ:「一緒にラグビーやりましょう!」

中:「やります!」

ヒ:「名古屋に来てもらうことになりますけど、大丈夫ですか?」

中:「行きます!」

10秒くらいで愛知県移住と僕のラグビー選手への道が始まった。

ここまで読んでくださった方はおわかりだろうが、僕のこれまでの人生にラグビーはなかった。

読み返してもらってもラグビーという文字は出てこない。

zoomが終わったあと「おぉー、次は愛知でラグビーかー!」と自分ごとなのか、他人ごとなのかよくわからん気分でルンルンで喜んでいた。

そのzoomで聞かされたことは

これからチームを作っていく。
チームが一番大事にしたいことは情熱だけ。

ということだった。

みなさん僕のことを知っている風の人は「大人しい」という印象を持ってる人が多いと思う。

僕と長い時間を過ごし、僕のことをよく知ってる人には「大人しそうやけど大胆」「大人しそうに見えて熱い」「内に秘める情熱がある」と言われることがある。

それは思い返してみれば「確かに〜」とは思うが、zoomが終わってからそれ以降名古屋に来るくらいまで「自分の情熱ってなんだろう?」と考えていた。

そうしているうちにラグビーチームのチーム名が決まった。

チーム名はGpassioners。

情熱がチーム名に入っていてかっこいい。

僕はとてもGpassionersという名前を気に入っている。

そして8/25(水)我らがGpassionersのGM松下さんが高知の山奥に来てくれた。

夕方から近所を散歩したり、コテージでBBQをした。
松下さんはピーマンが切れないらしい。

美味しい肉を食べ、Gpasssionersのことだったり、お互いこれまでの人生について話した。

松下さんと一緒にラグビーができるのがとても楽しみになったし、ラグビーだけでなくこれからずっと一緒にやっていくんだろうなと思った。

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それから約1ヶ月が過ぎ、9/30(木)高知から名古屋に自転車で向かった。

5日間かけて約450kmを自転車で走った。

ルート的には

高知→徳島→(淡路島→)兵庫→大阪→京都→滋賀→三重→岐阜→愛知

泊まりはテントを立ててキャンプ。

なんだかんだいろいろあったけど楽しかった。

当分これくらいの自転車旅はしたいと思わなけど、またやってもいいなと思った。

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10/4(月)21時頃に名古屋に到着した。

松下さんとヒカルさんが到着するのをカメラを構えて待ってくれていた。

当分はヒカルさんの事務所に居候させてもらう。とてもありがたい。

チラシ裏

メンバーは電気屋さんとマネージャー朝日さんを含めて5名になった。

そして来たる10/13(水)Gpassionersメンバーセレクション。

Gpassionersに入りたい!という情熱的な人が集まるセレクションの日。

合計16名の方がセレクションにいらっしゃった。

スキルも経験も関係ない。

足が速いとか遅いとか、大きいとか小さいとかも関係ない。

選考基準は情熱的かどうかだけ。

僕は正直参加者の情熱に圧倒された。

自分だけではなく、参加者同士で励まし合い、大きな声で鼓舞し合っていた。

「すごいな...」と思ったと同時に

「いや自分もできる。というか自分しか持っていない情熱をGpassionersで燃やそう」

と思った。

雨の中のセレクションになったが無事セレクションが終わった。
(雨がセレクションをエモくした)

ここで情熱についてお話しておく。

一般的には情熱とは「感情が激しく燃え立つこと」。

だが、僕が持つ情熱は

「自分らしく、自分らしくないことに挑戦すること」

と定義している。

つまり自分のやりたいこと&能力でこれまでの自分ではなしえなかったことにチャレンジしていくということだ。

これだけを胸に世界一情熱的なラグビーチームで活躍していく。

まだ始まったばかりのラグビー人生はどんな展開を見せるのかとても楽しみだ!情熱!情熱!

さいごに

最後まで読んでもらってありがとうございました。
どんな感想をお持ちになったでしょうか!?

読んでくれた皆さんに僕からちょっとだけメッセージを送らせてください。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

みなさんは

Q.これから先の未来について話すことは楽しいですか?

どうでしょう?

「はい!楽しいです!!」

と答えられる人はそんなに多くないんじゃないかなと思います。

もしかしたら、未来を考えるのが憂鬱だったりする人もいるかもしれません。

僕も正直そうでした。
これからこうなるであろうと想像できる未来...

【まぁ会社員だし、給料はいいし、仕事ってしんどいのが当たり前でしょ。

平日は働いて、土日にやりたいことやって家族と過ごせればいいやん。

定年まで頑張ってそれから人生やりたいことやるねん。それが普通やって】

........

........

........

「ん?本当にそうだっけ???」

そんな思考がよぎりました。

「このままのダメな自分でいいんだっけ?」

「一生文句言いながら過ごすん?」

「誰のための人生?」

「そんな自分は好きになれる?」

「後悔なく死ねる?」

「自分の本当にやりたいことって何?」

........

僕はなんだかんだ続く現状の延長線上の未来が怖くなりました。

だから「今のダメな自分を変える」と心に決め、

誰のものでもない自分の人生を精一杯生きよう!
死ぬとき心の底から生ききったといえる未来をつくろう!

決断して動き出しました。

それが退職したときの僕の心象風景です。


そして今、やりたいことをやって生きています。

早く起きて朝活をし、お日さまのもとでフレンチトーストを頬張り、Whanauのみんなとミーティングをし、ひとまきのプログラムを考え、思うがままに絵を描き、コーチングの動画をイヤホンで聞きながらチェーンソーで木を切り、山の中を颯爽と原付きで走り抜け、疲れたー!と言いながら帰宅し、晩ごはんに親子丼を食べて、風呂に入り、友だちと電話をして、寝る。

自信を持ってやりたいことをやっていると言えます。

ここからもっと現状では想像できない未来をやりたいことだけでつくっていきます。

しかし何かを決断し、未来に飛び込んでいくのは怖いと思います。

めちゃわかります。

僕もやりたいことをやっていながらも、自分ではどうしようもないことに悩んだり、このままでいいのか!?と不安になることもしょっちゅうあります。(今日も自分はオキシトシンの受容体が多いんかな...とか悩んでました笑)

でもどちらの未来が後悔がないでしょうか?

・安定的だけど、不満を持ちながら現状のまま進んでいく人生
・勇気はいるけど、やりたいことで想像できない未来をつくっていく人生

どちらもありな選択だと思います。

でも、僕は自分が選んだ道は間違いじゃないと思います。
だから後悔はありません。


みなさんはどうでしょうか?

もう一度聞きます。

これから先の未来について話すことは楽しいですか?

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本当に本当に最後まで読んでいただいてありがとうございました!

ま、僕はこのnoteを読んでもらって

「はーん、こんな人生もあってもいいかも笑」

と思ってもらえると嬉しいなと思います^ ^

随時追記していきますので、また読んでください!

あ、チャンネル登録もお願いね!

角刈り 角刈り 男の髪型〜♪

ギャラリー

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ダイエット対決最終日に電気屋さんと

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トレーニングスタジオGOAL-Bの内装のお手伝い

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松田の兄貴を東京に送るサプライズ会

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高知に来たてのときに聖地で林と

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林が買ったテントサウナでととのう

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川に飛び込む

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わんく3期初全員集合とベビーリーフ農家

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3人でたぶん朝ごはんを食べてる冬

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少年タツローがシェアハウスを去るお別れ会

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デスマウンテン合宿集合写真

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ダイエット対決仲間が高知に来てくれた

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コーチングスクール仲間と長野で

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松田の兄貴たちが高知に来てくれた


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