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<壺中日月長>伊豆野一政インタビュー

白白庵企画『壺中日月長』
出展作家インタビュー第三弾は伊豆野一政。
語り口は飄々と。コロナ禍で生じた変化を真摯に受け止め、
思考を重ねたプロセスを語って頂きました。
どうぞお楽しみください。

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白白庵個展『SHINSO』(2019年)より

○コロナ禍の制作について

今年の前半は白白庵での個展も含めていろんな展示がコロナの影響で無くなってしまいまして。
こうなったらこうなったで、今できることを焦らずやろうかな、と。

「このような状況下」に合わせて今すぐアーティストとして世の中に何かできるかと言ったら、僕には何もできない。
そこに合わせて準備してきた蓄えなんて無い、と(笑)。
震災の時にも思ったんですが今はできないけれども、未来のためにできることの地固めをしようと思いました。

”今だからこそ新しいことをやる”にしても結局それまでの蓄積が大事で。
「新しいこと」はそれまでの歴史と地続きだし、アートだって同じです。
”やりたいこと”じゃなくて”できること”を見直す。そして無理のない範囲でやっていけばいい。

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『彩色茶碗』


オンラインやVR、5Gでどうとか叫ばれていますけど、技術面のことは技術者・工学系の人たちがリードする話であって、僕らのようなアナログ制作の作家が具体的に動くのはまだ先だと思います。
だけどそこに向けての蓄積は必要です。
オンラインでやることもいろいろあるかも、と思ってMacBookを買ったけどまだ今すぐできることはなかった(笑)。

デザインの構成とか新しい図案とか手書きではできない領域に挑戦してます。そんな風に新しいことに繋がる種まきはしてますよ。

そんな風にちょっとづつみんなが変化を積み重ねることで、全体として大きな変化につながっていくんですよね。

だからやっぱり、まずは自分の持ち玉を見直すしかないんです。
時間もたっぷりとれたから今までやってきたことを振り返って、見逃してきた部分を再発見して、それを拡大させて完成させること。
そんな風に新しい作品、塑像のシリーズやいも茶碗とかができてきたわけです。

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『元三大師』

ーー白白庵オンラインショップ立ち上げのタイミングで塑像シリーズを多数出品されましたが、コロナ禍で中止となってしまった白白庵の個展ではそれが中心になる予定だったんですか?

あの段階ではなぜ塑像を作るのか、そしてなぜそれが喜ばれるのかという思いが漠然としていたんです。コロナとは関係なくそれ以前から作り始めて、作品の一つの幅として向き合っていたんです。

表現方法として「完全に作り込んだ物」は面白くないな、とぼんやり感じていたんですけど。
今はオブジェとしての完成形を目指すのではなく、あえて手を止めて余白を残しています。
例えば円空仏みたいにですね。薪木の中に仏や意味を見出したように、手に取った人が意味を見出しやすい形態を提示しようと思ったんです。
「これはアート作品です」と提示したところで受け止める人の解釈や物を通じてコミュニケーションが成立しないと、アートにはならないですね。その余白を残してます。このスタンスは器でも変わらないです。

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『祈る人b』

僕の塑像を好きだと言ってくれる人もかなり前からいたんですけど、あえて作る意味を腑に落せていなかったんです。塑像はモチーフが示す意味性が強いので、言い切ってしまうような表現になりやすいんです。
でも最近は、意味を見出してもらえるならばモチーフはもう何でもいいんじゃないかと思えるようになりました。
もっと抽象的な方向で振り切ってみても良いですよね。
子供達が雲を見て「アイスクリーム!」って叫ぶみたいな。
こういう余白と意味性について考えられたのもコロナ禍の中だったからこそですね。



○いも茶碗

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『いも暁茶碗』

ーー「いも茶碗」もこの期間中に生まれたシリーズですね。

去年、かつて師事していた杉本貞光先生にお会いする機会があったんです。
その時に「赤楽をやってもいいよ」というお話も頂いて。
で、早速楽しみに作ってみたんですけど、楽焼って柔らかくて、お茶人ではないお客さんにとって扱いが難しいんです。
楽焼というフォーマットの面白さを見据えつつ、使いやすくて、自分が今までやってきたような枯れた感じをブラッシュアップしたものが「いも茶碗」です。

楽焼は京都の華やかな焼物でしょう。でもこっちは埼玉だし(笑)。
このあたりは芋畑に囲まれているんですよ。
川越はサツマイモで、僕がいるあたりは里芋がたくさん。
たぶん土壌が良くないんですね(笑)。
そこで生まれた焼物だから「いも茶碗」と名付けました。

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『いも茶碗』

最初に作って白白庵のオンラインショップに掲載してもらった二点のいも茶碗。その黒く出たところを拾い上げて拡張して作ったのがこれですね。
炭の量と質を変えてみたらこういうしっとりとした黒さが出たんですよ。


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『いも暁茶碗』


そして火色っぽい部分を拡張したのがこっちですね。
秋だし、展覧会のタイトルが禅語なので枯れて侘びた感じをしっかり作ってみようかな、と思ったんです。
黒い方は炭を使ったアメリカン楽なんですけど、赤い方は電気窯を使って楽をシミュレーションして焼いたんです。
こうすると数も作れるし、扱いやすい仕上がりになります。
今までやってきた「がま」のシリーズは電気窯で薪窯をシミュレーションしたのがきっかけでしたが、その延長というか変化球ですね。

電気窯は本来量産のものを安定して作るための道具なんですけど、その逆もできるよ、と。効率化とは全く逆。
道具って何でも使いようだから、見立てでどうにでもなる。
安定生産に使うこともできれば、変化を産むためにも使える。
そこがとても大事なんですよ。僕にはね。
余白の話と同じで、視点の問題です。


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『いも暁茶碗』

形は光悦っぽさは意識しているけれども、伝統的な形に捉われすぎてしまうのも危険ですね。
こないだInstagramで適当に検索してたらめちゃくちゃいい赤楽茶碗が出てきたんですよ。どんな人が作ってるんだとチェックしてみたら杉本先生の新作(笑)。
信楽を離れて十数年経つけど、やっぱり最初の出会いと憧れはまだあるな、と思います。


○がま茶碗

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『がま茶碗』


このシリーズは今まで名前をつけずに「何焼でもない」って言ってたけど、それも無愛想だし、新しいシリーズもできたので名前をつけました。
アトリエが麻布にあった頃にできた焼物で、近くに流れる麻布川の源流にあるのが「がま池」
麻布焼というのもキザだし、その池の名前を使わせてもらったんですよ。


○今後の茶の湯に期待すること

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『がま徳利花入』


いわゆる様式美だけが先行する茶道については疑問を持ってます。
でも僕が幸運だったのはいい先生に出会えたこと。とりあえずのお点前は教えてくれたけど、道具やしつらえを中心に見せてくれた。
様式美の向こう側にあるものを見せようとしてくれたんですね。
達観した視点というか。
様式美を守ることも営みとして大切な行為かもしれないけれど、それのカウンターとなる動きも同時にあるべきで。
派閥争いみたいなのは馬鹿馬鹿しいけど、茶の湯が発生して数百年。
思考の様式美が継承されていて、そこを通じて利休と対話ができる。織部の思想にアクセスできる。こういう体験はなかなか他では生まれないですし、
それができる大切な機会として今の在り方もずっと残って欲しい。

茶席の一番面白いところはひとつのスペースの中で空気感を共有すること。それもまた時間帯とか人の組み合わせで全部変わるんですね。
ほとんどの事は現代美術と一緒で入れ替え可能なんだけど、肌感覚としての湿気だったり匂いだったりも含めて、共有される感覚が全然違っていて、初めての茶席で興奮したんです。

根本的に僕は「型を身につけること」が大事と考えています。
「写し」をする先生のところで修行して仕事して学んだのは”型を身につけることで本当の意味で自由になれる”ということです。

同じ"写し"でも、具象の写しと抽象の写しがありますね。
先生のところで学んだのは具象の写し。例えば長次郎の黒楽を物として再現・コピーする。
僕が今やってるのは後者で、先人の作品を概念として捉えて抽象化して写していくんです。その思考の部分をベースにして自分なりの好みのものを作る。

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『がま花入』


たとえばこのからたちの花入れに関しては、窯のなかで薪がぶつかって偶然焼き曲がってたまたまこうなったものに美を見出してこの名前がついた。
さらにもう一歩、僕はその美を見出した人々の思考をさらに抽象化してデフォルメして、レイヤーをもう一枚重ねている。
従来ある物に上書きをしているんです。
先人のやってきたこと、見てきたことに対して自分が何をできるか?と問うてマイナーチェンジを重ねていくのです。
それこそ美術の歴史の中で繰り返されてきたことそのものなんです。

今の時代なんでもあり、で自由なんだけど。せっかく積み重ねてきた歴史をないがしろにしてしまうのは単純にもったいないな、と思ういます。
昔の人との共感できる部分は取っておいて、そこをどう参考にして変化をさせるか。
作品制作とかお茶に限らず、あらゆる領域で同じ事が言えると思いますけれども。

利休が確立した茶の湯を、それぞれの時代の人がそれぞれに先人と対話をしながら紡いできたその歴史が、今後何百年後に、千年後にどんな変化をしているか考えると面白そうでしょう?
僕は死んでしまうけれども、千年後のお茶席がどうなってるんだろう?と想像すると楽しいですね。
今の茶の湯といろんなラディカルなお茶の人たちが並行して共存することで、多様性があることで千年後にはもっと面白くなってるはず。

一回文明が滅んだとしても、五百年後にも人類の営みは根本的に大して変わらないらしいから(笑)。



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『いも暁徳利』





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