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自己紹介。

みなさんはじめまして、やすえだです。

このnoteを読んで下さってる方は、おそらく「Twitterでそれっぽいこと偉そうに呟いてるやついるなあ、どれどれ」「どうせ自己陶酔型のキモいnoteだろ」「しょうがねえから見てやるか」という気持ちでご覧になってることと思います。しかし、最後まで読んで頂けたら「自己陶酔型でキモかったけどこいつも色々考えて生きてんだな」「自己陶酔型でキモかったけど逆に気持ちいいからフォローしてやるか」くらいの気持ちにはなって頂けると思います。いや、ならないか。でもなって欲しい。

そもそもなぜ、言葉で発信する人がダントツで少ない「映像業界」にいながら、一生懸命呟いたり、RTしたり、やたらいいねしまくったりしてるのか。その辺も明らかになるので、是非最後までご覧頂きたいと思います。

僕は、人生の多くの期間を半径5mにいる人たちを幸せにしたい。という大義名分のもと生きてきました、それはもちろん今でも思ってることなのですが、ここ最近、少しだけ違ってきてます。(後述)

とはいえ、自分に関わってくれる人とは常に正直に向き合って、幸せにしたいと思っています。ただ、僕の全ての呟きや発信が「半径5mの人のため」にあるわけではなく、自分自身が自分の道を踏み外さないために、記録を残してるという感覚が強いので、そういったドキュメンタリーを見てるくらいの感覚でお付き合い頂ければ幸いです。もうね、全部さらけ出してるし、出していくので。

アイデンティティの目覚め

「おいおい、アイデンティティとか言い始めたぞ」「銀杏BOYZかよ」「みうらじゅんかよ」と思ったあなた。怪しいですよね、わかります。でもアイデンティティって人間を語る上で欠かせない要素だと思うので、物語の軸に置かせて頂きました。

いやほんと、小難しい話をするつもりはないので、あと2分だけ読んでってください。

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むかしむかし、1989年、福岡のド田舎の割と貧乏めな家庭で生まれ育った安枝少年は、父と母と兄と犬と共にすくすく育っていました。

幼少期はまあ、バスの墓場に住むホームレスと戦ったり、川で拾ったエロ本を見て興奮したり、愛犬のワン三郎が農薬で死んだりと、割と平凡な、その辺にいるお子ちゃまでした。

時は経ち中3の秋、部活も引退して暇だった頃に友達に誘われ、バンドを組みます。担当はベース。(本当はギターやりたかったけど既にいた)

「バンドを始める前にこれ聴いて」と言われて連れて行かれたTSUTAYAの試聴コーナーで、甲本ヒロト率いるザ・ハイロウズを聴いた安枝少年に、衝撃は走りませんでした。普通ここで衝撃走るんですけど、あのテの話って大体盛ってますからね。俺にはわかる。

ドヤ顔で僕のリアクションを待つ友人に「うん…いいね。」くらいのリアクションを取りつつその日は解散したのですが、聴いてるうちに徐々に細胞レベルで染みてきて、「ロックやべえ」となります。一種の中毒状態。そこから数年間ロックしか聴けない体になります。もうJ-POPとか聴いたら気分悪くなるような状態。

ほんとにね、思春期でした。

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で、ロックを聴いて変わったことといえば
・「本物」と「そうでないもの」が世の中にはあると知った
・見栄、自己顕示欲、謙遜などといったいわゆる煩悩が凄くダサく感じた
・本物を突き詰めるのは凄く難しい社会だと感じた

アイデン&ティティという映画で「それをどこで手に入れた?誰から買った?問い詰められて、とてもロックを知った時とは言えず」というワードがあるんですが、まさにそんな感じ。知らない方が楽に生きられたのに、みたいな。

まあ、人間と人間なんでね、全員が本音を言いまくってたらこんなに人類発展してないやろ、と今なら思えるのですが、ピュアな安枝少年からしたら言いたいこと言うのが本当の優しさなわけで、こんな世の中ポイズンやと、思ったわけです。

ロックを聞くまではそんなこと考えてもなかったので、ここで真実めいたものの存在を確認し、逆に言うと無知な自分を知ったことになります。無知の知、アイデンティティの目覚めです。

17歳、夏、ロックに出会う

なんや、まだ出会ってなかったんかいと思ったあなた。そう、まだロックには出会ってないんです。上のシーケンスではまだアイデンティティの蓋が開いただけ。まだなにも詰まってません。

バンドが死ぬほど楽しくて、毎日友達のガレージに集まっては小さいアンプにベースを繋いでかき鳴らしたり、エディ・コクランを爆音で流して踊り狂ったりを2年ちょい繰り返した頃に、友達のお父さんが主催するフェスに出演が決定します。そのバンドとしては実質それが初舞台でした。

ガチガチに緊張しながら、でも興奮しながら、おらー!って感じでステージに上がったんですけど、全然ダメで。演奏もぐちゃぐちゃだし、弦切れるし、かなり凹んだんですよ。で、打ち上げの席でうなだれてるところに尊敬してた先輩バンドマンが寄ってきて、

「今日のステージから見えた景色を一生忘れるな」って言われたんです。

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慰めでも煽りでもなく、ただただ受け止めて大事にしろよっていう言葉。号泣。2時間くらいずっと。その時に、なんかこうロックの本質の0.002%くらいが見えた気がしたんです。なんていうか、真実に触れたみたいな感じ。

それが、音楽ではなく、生き物としてのロックとの出会いでした。

俺は右へ、お前は左へ。

すっかりロックの虜になった安枝少年にも、現実は迫ってきます。ロックスターになることが自分らしいと思えなかった安枝少年は、進路についてどうすっぺーと思い始めます。そんな時に友達から、とりあえず都会で遊びてーし学校サボりてーから体験入学に行かねーかと誘いを受けます。田舎の生活に飽き飽きしてた安枝少年は、その提案を快諾します。

ちょっと話が変わりますが僕は田舎がめちゃくちゃ嫌いでした。

何にしても保守的で、スピードが遅くて、ダサくて、ストイックになれてない自分に焦燥を感じてるくせに、表っつらは平静を装ってるみたいな感じ。ライブ感がないというか、今を生きてるって実感できない。(今は田舎も好きですよ)

その点、その体験入学で訪れたアパレル系の専門学校には、似たような考えを持った田舎者がわんさか集まってたんです。「俺らはあいつらとはちげーだ!」「都会さ行くだ!」みたいな。まあ気が合いまくりますよねそりゃ。

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もう完全にそこが自分にとっての居場所だ!と確信した安枝少年は、泊まり込みで参加するタイプの体験入学にも追加で2回参加して、もうそのコミュニティ(その学校に入学する予定の高3たち)との輪を広げ、親交を深めていきます。しかも甲本ヒロトの名言集ばっか見てたから、その年代が好きそうな名言いいまくり。そしてそれがハマりまくり。なんならそっちの界隈で彼女が出来るというリア充っぷり。

高3の終わりごろは週末になると深夜バスに乗って市内に行って、先輩の家に泊まって、遊んで深夜バスに乗って帰ってくるみたいなのを繰り返してて「ばいばいまたね!」のあとのバスの中で幸福度が満ちまくって、その時に脳の中で、ファッションという世界とロックという世界が繋がったんですよね。もはやメルヘン通り越して妄想癖。

ロックの本質って「優しさ」だとなんとなく思ってるんですが、その本質に少しでも近づくことが人生を賭した命題だと思っていた安枝少年にとって、音楽を介してではくアパレルの世界からそこを覗くことが自分にとっての「道」だと感じたんです。変な話ですよね。

でもまあ、この時は、そうだと確信してたんです。

ちゃんと大人というものを知った

で、無事に進学して感覚の似てる仲間たちと楽しい時間を過ごしながら、自分らでDJイベントやったりピュアな若者という武器を使って大人たちの仕事場に潜入したりして思ったこと3選

・ハッタリで生きてるやつ多くね?
・大人って汚いやつ多くね?
・社会って思ってたよりどうにもならなくね?

そう、思ってたより社会は嘘で塗り固められてて、しかもそれが凄く絶妙なバランスで成り立ってて、想像してたよりそれに立ち向かうのは困難だということを、ストリートに立つことで初めて知ったんです。

社会やべえ、みたいな。

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とはいえ、もちろんかっこいい大人もたくさんいて、お世話になってたスタイリスト兼美術デザイナーの方と一緒に企業案件のショートムービーをやったのですが、この経験が新鮮すぎて。プロデューサー、監督、カメラマン、ガッファー、録音部、キャスト、衣装部、ヘアメイク、車両部、といった様々な人たちの生き様やかっこよさを10代の初々しい時期にキチンと見ることが出来て、この時の経験が今の仕事の原点になってるなと思います。

この師匠から、仕事のやり方はもちろん、映像業界のことや様々なことを教わった上で「本気でやるなら東京にいきなさい」という言葉をもらい安枝少年は、夢の大舞台東京を目指すようになります。

俺がこの腐ったハッタリ共の牛耳るファッション業界を変えてやるぞ、とその時は本気で思ってました。

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こ、これが、TOKYO、、

住む家だけ確保して、仕事も決まってないまま夜行バスに乗り込み、早朝の新宿に降り立った安枝少年は圧倒されました。
歩いてる人が全員、目が死んでるのに超早歩きだったからです。

人にぶつかりそうになって、すみませんすみませんとか言いながら隅っこに追いやられて、ビルを見上げる、みたいな。田舎者が東京に出てきたシーン撮ってたら1発OK出てましたね。

さて問題です。
東京で最初どこに住みたいか田舎者にアンケート取ったら圧勝するのはどこでしょうか?

A:三軒茶屋
B:門前仲町
C:日暮里

はい、正解はAの三軒茶屋です。みなさんおみごと。

こうして、当時の彼女と同棲する形で三軒茶屋にベースを構えた安枝少年の、東京での戦いが幕を開けました。

福岡にいた頃から東京にも色々とツテがあった安枝少年ですが、そんなすぐにお給料をもらえるわけもなく、とりあえずステーキ屋でバイトを始めます。(その数ヶ月後にスタイリストアシスタントもスタート)

ステーキを焼いて、人に食わせる。という、いたってシンプルな仕事でしたが、働いてる人が全員素敵すぎて(今も思ってる)自分の活動もしてましたが、割とどっぷり飲食という世界に浸かるシーズンが幕を開けます。

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でも、いいもんですよね。自分が作った料理を食べて「ごちそうさま」と言われるあの感覚。新規ご案内やらオーダーやらチェイサーやらを全部指示しながら誰のクレームももらわずにピーク帯を回したあとのあのなんともいえない達成感。基本的には働き者体質なので、なんでも率先してやったりしてたら、いつしかシフトを任されるようになり、新規バイトの子の面接もやるようになり、気付いたら店長になってました。

飲食店の闇というかなんというか「俺が辞めたらこの店つぶれる!」みたいな謎の強迫観念ってあるじゃないですか。もうこれが日本の非正規雇用問題の一番の原因じゃないかと僕は思ってるんですが、まあそれはどうでもいいや。

でもまあ、前述した師匠からの期待や、周りにでかい口叩いて東京にきてることの後ろめたさから、僕は「なにやってんだろう」という類の、焦燥を知ります。分かってるんだけど、体と心が動かない。でもステーキはめっちゃ焼く、みたいな。

やっと映像の世界へ

いや、おせーよ。と思ったあなた。それは僕の人生がじゃなくて、この記事がですよね。わかります。僕もここまでずーっと途切れずに自分の半生を文字に起こせてる自分キモッと思ってますので、許してください。でもやっぱり言葉ってじっくり推敲しまくったものもいいけど、出まくってる時の疾走感もいいもんじゃないですか。(何様)

まあそれはさておき、ステーキを焼きながらもちゃんとスタイリストアシスタントとして現場にも出てた自分は思い始めます。

作品をつくるのって楽しいけど、俺専門家になるの向いてないかも。と。

大きめのCMの現場に、衣装を大量に持って行って、ラック20台分くらい服をかけて、ひとつひとつスチーマーして、万全の状態で待ってたら、プロデューサーとディレクターがつかつかやってきて「うーん、これとこれ!」といって去っていったのが衝撃的で。滞在時間3分くらい。

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つまり、服を通して作品を作ることは確かに素晴らしいけど、もっと企画の中枢の方でやってる人たちめっちゃ楽しそうじゃね?俺はむしろそっちじゃね?と思ったわけです。逆に言えば、そこまで服を好きじゃなかったのかもしれません。気付くの遅すぎ。

で、そこから人脈をフル活用して、映像制作の大手にコネ入社を決め込みます。ここで、福岡時代の人たらしスキルが役に立ったわけです。

自分の裁量と見せかけて自分の裁量じゃない仕事

大手に入社し、プロダクションマネージャーとして働き始めた安枝青年は、そのあまりにもストイック(ブラックとは言ってない)な労働環境に面食らいます。初日に「今日からよろしくお願いします!」からの、家に帰れたの何時間後だと思います?

168時間後です。

そう、もう初日から地下の狭い会議室に缶詰になり、ひたすらイラレと戦い、終わったのが1週間後っていう。やばくないですか?ストイックすぎません?(ブラックとは言ってない)

とまあ、そういう環境で、コツコツアシスタントをやって、自分がメインで案件を持つようになります。

もうね、声を大にして言いたいけど、CMを作るって、死ぬほど大変です。「よーし!いい作品にするゾー☆」くらいのテンションだと大体事故ります。体力的な話もなんですけど、とにかく気にすべきポイントが多すぎて。

もう血反吐はきながら、足を引きずりながら満身創痍で現場から帰ってくるってのがスタンダード。体力温存した状態でスマートに現場から帰ってきた人を見たことないです。(鉄の心を持ってる人はいますが)

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まあ、CMにおける制作という職種については追い追い改めて記事を書こうと思いますが、とにかく、ただオーダー通りにステーキを焼くだけでは仕事になりません。

映像が完成するまでにどのようなスキームを組み立てるのか、そこに誰が必要で、どのくらいお金がかかるのか。それを全て1人の人間がやるわけです。一番めんどくさいポイントとしては、自分の裁量で決められるというわけではなく、自分の裁量でこうかなって思ったことを、四方八方にお伺いを立てて初めてそのスキームが採用されるのです。

とはいえ、楽しいポイントもたくさんあります。誰もやったことがないような難しい表現を、専門の人とあーでもないこーでもないと検証していって、想像もつかなかったような方法でそれが成し得たとき。スタッフの人と交わした「いつかこんな仕事しましょーね!」を叶えられたとき。本当にビールが美味いです。

ついに、シングメディアへ

とまあ、天職だなあと思いつつも、心のどこかで「この職業で一生やってくことはなさそうだな」となんとなく気付き始めた4年目。色々あって、その会社を退職します。

そして「辞めました」という報告を真っ先にした人物であり、秒で「ならうちこい」と言ってくれた人物が、弊社COOの佐藤という男でした。

僕が所属しているシングメディアは、2018年3月に、中学の同級生の田中と佐藤が立ち上げた映像ベンチャーです。

立ち上げ当初の佐藤が書いた記事が割とエモいので、暇な時にでも読んであげてください。

シングメディアはもともと「映像メディアで狼煙をあげよう」という想いで立ち上がったそうなんですが、僕がジョインしたタイミングは、代表の田中が映像制作の現場に立ち会って、エモすぎて感動したからピボットするぜ!となり、映像制作にピボットした直後でした。

で、晴れてシングメディアの3人目の男となった安枝は、可愛い子好きなエネルギーが有り余ってたので記事にしたり、

今まで通りに映像制作したり、

しながら、映像プロデューサーという枠組みに捉われない活動をしております。可愛いおねーちゃんに声かけて映像とったり、リアルイベントをやったり、配信のオペレーションやったり。

インターネット黎明期を超えて、これからどんどん発展していく時代に、こうして色々なことにチャレンジできる空間にいれることは、めちゃくちゃ有難いなと、日々感じております。(マジで)

大手の時との大きな違いは、クライアントと直接やりとりをする仕事がめちゃくちゃ増えたということ。それも、ベンチャー系が多く、商品をPRしたいというシンプルなものももちろんありますが、ReBRANDINGしたいですとか、ぶち上がるOPムービーをイベントで出したい、ですとか、要望が多岐に渡ります。

確かに案件ベースでのお金のかかりかたは大手とは全然違いますが、熱量がそのままダイレクトに感じられる中で映像を作るというのは、めちゃくちゃ楽しい。

で、そんな風に色々と紆余曲折ないものねだりの人生の中で、今のアイデンティティは、冒頭の半径5mにいる人たちを幸せにしたい。から、半径5mにいる人たちと、出来る限り遠くに行きたい。に変わりました。

「早く行きたければ一人で進め、遠くまで行きたければ皆で進め」というみんながこぞって使いたがるアフリカのことわざがありますが、うちの社長もこぞって使っていて、毎日これを1人で大声で復唱してます。(嘘)

でも、これは本当にその通りだなと思っていて、これからコンテンツも何もかも多様化していく中で、今までの枠組みでやっていても、新しいことは生まれないと思うんですよね。

僕は異常に新しいもの好きなので、やってることにもすぐ飽きるし、どんどん先に行きたくなってしまう。GAFAなんて超えてやりたいくらいに思ってる。日本人の特技は、妄想です。妄想力で他国と渡り合ってきました。今、日本人の妄想力が試されてると共に、会社単体として多様性を持つことはもちろん、もっともっと会社同士の横の繋がりが重要になってくるなと思っています。

そんなこともあって、既存のやり方ではなく、オンライン上で全然関係ない業種の人とも積極的に絡んで、横の繋がりを増やして、ヒントをもらってヒントを与えて、ネオインターネット時代を猛スピードで駆け抜けるぞ!という想いから、Twitterをはじめ、このnoteを書いています。

僕はね、ワクワクしてるんです。この会社に、業界に、世界に。ずっとワクワクしていたい。このワクワクを皆さんと分かち合いたいし、後ろの世代にも繋いでいきたい。

これを読んでるあなた!一緒にワクワクしながら見たことない世界を見にいきませんか!?

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とまあ、最後は勢いに任せてバーっと書いちゃいましたが、全部本音です。

ここまで読んでいただき有難う御座いました。もうあなたは、僕をフォローしてコメントに「読みました!」と書かざるをえなくなっているはずです。もうね、大歓迎です。みなさんと一緒に登っていきたい。

今後とも、安枝新介をよろしくお願い致します!

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