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合理はつまらない。

【合理】
道理にかなっていること。論理的に正当であること。

【合理的】
1 道理や論理にかなっているさま。「—な自然界の法則」
2 むだなく能率的であるさま。「—な処置」

なんでこの記事を書こうと思った?

合理的すぎるとおもんないよね。だって、バカ賢い人が一瞬で出すロジックと、アホが長い時間をかけて組んだロジック、結局はほぼ同じになるんだから。

こんな話をしていた。それをきっかけに、面白そうだと思った文章をいくつか読んでみた。そしたら色々と書きたくなった。

合理はつまらない。感情軸で行こう。

以下引用

一般的に見れば理解しがたいであろうことにチャレンジしてみる。そういう時が一番楽しい。たまにド正論で興ざめするような事言われたりもするんですけど、そんなん知ってて敢えて道を外しとるんじゃいって思ってる。

よく世間で言われる事で言えば、なぜ身体に悪いと分かっているのにタバコを吸う人が絶えないのか、酒を飲む人が絶えないのか?非効率的であるにも関わらず、ヒッチハイク?バイクで日本や世界を一周?だってこれ全部、面白いと思ったからみんなやってるんでしょ。

ずっと優等生で生きてる人って、人生楽しめてるのかな?規則正しく生活して平凡な娯楽を享受するのって僕にとってはすんごいつまらない。僕は借金背負ってでも好きなことやってみたいし、ワクワクすることは絶対にやりたい。そこにリスクが生まれたとしても、それが人生だろ。

楽しい無駄が大好きな僕も、全力の無駄を謳歌するための合理性は大事だと思う。時間は有限だからこそ、大胆に使っていきたいね。

これを読んでみて、

時間は有限な中で、全力で「楽しい無駄」を謳歌するために、合理性を味方につけよう。

こんなメッセージ性だった気がした。全部全部合理的にって言い出したら面白くなくなってしまう。

序盤で言った通り、合理的に考えるってことは、みんなある一定同じ答えにたどり着くということ。それだったら、俺が考える意味がない。

だったら、みんな、画一的な「幸せを手にする手順書」でも読みながら生きていけばいいじゃんか。

個人個人、みんな重きを置く部分が異なる。感性が違う。何にどれほどの幸せを感じるかが違う。だから面白いって思ってるんだけども。

人は、自分が唯一無二とか、オリジナリティを持っているとか言いがち。けど、基本はなにかの模倣の塊でしかなくて。

でも、何をどの程度模倣するか?の度合いが人によって全然違うし、その人生において真似したくなったり、取り込みたくなる対象も全然違う。という意味では、2つとして同じセンス・感性は存在しないから、みんなオンリーワンなのかもね。

合理で考えると、圧倒的な答えにたどり着くはずなんだけど、みんな全然違った価値基準を持っているから、どこまで行っても「絶対的解」には出会えないわけで。

「無駄がない合理的人生」に最大の幸福を見出す人もいないとは言えないけれど、そんなに多くないはず。

合理ベースで、おもしろいこと、幸せなことを台無しにしたくないね。そういう話の腰を折りたくない。

おもしろいから。楽しいから。嬉しいから。幸せだから。

理由なんてこれくらいでいいと思う。

でも、「なんでそれをおもしろい、楽しい、嬉しい、幸せと感じるのか?」の理由は自分のためにも大事にしたい。

ここでビジネスみたいな言葉をぶっこんでごめんけど、それらの感情の「再現性」が高くなって、自分がもっと人生を謳歌出来るようになるから。

ここら辺、俺は結構真剣なんですわ。

ルーティーン。つまらない人生。

上で紹介したnoteの中で紹介されていた文章だ👇

そう、つまらないですね。

平日は働いて、家に帰って寝るまでの僅かな時間はネットをしたりYoutubeを観たり。土日は昼まで眠って、運動不足解消のためランニングして、ご褒美にちょっと買い物。あとはこれの繰り返し。

安定はしているけれど、つまらない。決して不幸ではないけれど、だからといって満足しているわけではない。

「普通の日々を送れることが幸せだ」なんて人は言うけれど、自分はそうは思わない。なのに、この状況を変えようとは思わない。それは、結局そこに居心地の良さを感じてしまっているからだと思います。居心地の良さと人生のつまらなさは両立します。なぜなら、楽だから。

何も起こらないつまらない人生は、色んな刺激にいちいち反応しなくても済むから、楽。あなたはその理性と合理的思考をもって、今の居心地の良い人生を作り上げたのです。合理性を突き詰めれば、人生はただ食って寝るだけの人生に辿り着きます。それだけが生きるために必要なことだから。

だからあなたが捨てるべきものは理性と合理的思考です。代わりに狂気を手に入れるのです。合理的に考えたら到底受け入れられないことをし続けるのです。人生は何をしたっていいし、どこへ向かってもいいんです。親も上司も同僚も、みんな他人です。狂気をもって、今までの合理的で正しい人生を破壊するのです。

そんなことをしているうちに、もしかしたら元のつまらない人生に戻りたくなるかも知れませんね。結局あなたは、つまらない人生に安住する凡人だったってことです。そうしてまた人生に絶望するでしょう。でもそれも人生です。

読んでいて気に入った部分
・「同じようなことの繰り返し」
・「合理性を突き詰めれば、人生はただ食って寝るだけ」
・「人生は何をしたっていいし、どこへ向かってもいい」
・「狂気をもって、今までの合理的で正しい人生を破壊する」

ここら辺の言葉が俺には刺さる。今のルーティーンの毎日、これでいいんだろうか?とは思う。

春からnoteでずっと書いているけれど、仕事に人生が侵食されすぎないようにしたい。

これで良いのか?っていう思い。社会人生活が始まって間もないけど、確実にある。

人生、仕事が全てじゃない。祖父の時代にこんなことは言えていなかったんだろうけど、俺ら世代だったら、この感覚はある一定あるんじゃないだろうか。毎日仕事だけして、それでおしまい。それは悲しいと思う。

YouTubeとかもあるし、自由で多様な働き方の存在を俺らは知っている。

不労所得を生み出して、一生のんびり暮らしたいなんて言っていない。むしろ、それは嫌だ。何も生み出さないで、甘い蜜だけ吸って終える人生は、俺の価値観的には、あんまり魅力的じゃないから。

今のこの生活って、先人の苦労ありきだと思うから、あんまり楽ばっかりしてたら、不義理だと思う。人の助けありきでここまでの人生を生きてきている。

親が仕事を通して、「人の困り事を解決して社会貢献した対価」で俺は今までご飯を食べさせてもらって、教育も受けさせてもらってきた。

次は俺のターンなんだよなあ。今まではただただずっと消費するだけだったけど、今度は何かを生み出すターンなんだよな。

だから、仕事のモチベーションは大きい。大学と違って、頑張りがすごく定量的に評価される。(どこまで行ってもふわふわしたことを、数字に頑張って落とし込んでいるのがビジネスな気がしている。)そしてそれが昇給、昇格に繋がる。全然悪い話じゃない。

今なんか、自分1人じゃとてもじゃないけど、信頼も実力も足りなくて手が届かないような規模の仕事に関わらせてもらえている。ありがとう、会社。

でも、会社で働くってことは、ルールに従うってこと。9:00-18:00は、会社の掟。うちの会社のルールであり、コンサルだから、お客様先のルールでもある。だからしょうがない。

でも、今は理想とはかけ離れている。

もっと短時間で、とっても感謝されるようなことが成し遂げられたとしたら、今の毎日8時間の労働よりも遥かに大きな対価を頂けるかも知れない。

それができたら、8時間じゃなくて、毎日6時間、いや、4時間でも生計が立てられるのかも知れない。実現出来るかどうか?で行くと、出来ると思ってる。

どうやってやるかはまだ、具体的に想像出来ていないけど。周りで現に、そんな働き方をしている知り合いがたくさんいる。絶対できるはず。

「現状のルーティーンへの違和感」から始めたのに、だいぶ話が逸れてしまった。でも、言いたいのは、「既存の仕事の概念」に囚われたり、洗脳されたりすることなく、「今ある社会規範的な正解」を破壊していきたい。社会が思う「正しい人生」の枠組みなんかに俺は縛られないぞ。こういうことだ。

尖ってる発言だな〜と何年かして読み返すのだろうか、このnoteを。わからないけど、これで自分が有言実行出来ていたら、結構カッコいいんじゃないか?

今書いた理想を実現するためには、結構実力が必要。でも、「実力をつけるためには若いうちにプライベートの時間を犠牲にしてでも働き倒せ」みたいな意見は大嫌いだ。

理想にゆっくりでもいいから近づいたら自分は満足だ。別に急いでいない。急ぐあまりに、この目の前の毎日を蔑ろにしたくない。

「今を生きろ」みたいな言葉は、俺のあんまり好きじゃない自己啓発本(大体どれも同じことしか書いてない)に出てきそうだから好きじゃないんだけど、結構これは大事だなって思ってる。

今を大事にしながらも、理想に向かっていく。同じところでは停滞しない。この感覚って幸せなんだろうな。いい塩梅で俺は俺なりのペースでやっていく。俺の価値観が俺の人生においての正解なので。

合理性と信頼

「合理的な人は損をする?あなたは信頼される人ですか?」

【場面①】
あなたはある大型プロジェクトの担当者。プロジェクトにはすでに10億円の費用がかかっており、あと1億円あれば完了できそうな見通しです。しかし、専門家による試算によると、プロジェクトが完了しても赤字になる見通しだということがわかりました。

【質問】
あなたはあと1億円を出しますか?
それとも、すでに10億円出したプロジェクトを断念しますか?

有名な問題なので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。この問題への経済学的に合理的な回答は、「1億円出さないで、プロジェクトを断念する」です。

【場面②】
あなたはある大型プロジェクトの担当者。プロジェクトは始まったばかりですが、1億円ほどあれば完了できそうな見通し。しかし、専門家による試算によると、プロジェクトが完了しても赤字になる見通しだということがわかりました。あなたは1億円を出しますか?それとも、このプロジェクトは断念しますか?

【場面②】で、1億円出すという決断をする人はほとんどいない。お金を出してまで赤字プロジェクトを完成させる意味がないと考える。ところで、【場面①・②】の状況の違いは、「すでに10億円の投資をした後かどうか」というだけで、これから1億円を出して赤字プロジェクトを完成させるかという点では、全く同じ状況。

【この問題からわかること】
私たちはなかなか合理的な判断ができないことがある、ということです。上記の問題では正解を出せた方でも、たとえば映画館でつまらない映画を観はじめてしまったときに、途中で席を立って観るのをやめることはなかなかできないのではないでしょうか。実は、これも全く同じ現象なのです。おそらく、NetflixやHuluで同じ映画を見ていたとしたら、すぐに停止ボタンを押して、別のことをし始めていたでしょう。1,800円を払ったばかりに、つまらない映画を観つづけてしまうというわけです。

【合理と信頼】
さて、合理的な判断ができなかった方、ご安心ください。合理的な選択は、必ずしも人から評価されるとは限らない、とすでに述べました。実は、一度なにかを支払ったら最後までそれを続けてしまう人は、周りの人から信頼されるようなのです。

ノースウェスタン大学のドリソン氏とその共同研究者たちは、商品開発プロジェクトの90%が終わっている時点でライバル会社がもっといい商品を販売開始してしまったときに、追加の投資をする経営者と、投資を取りやめる経営者がどう思われるかを比較しました。参加者は、追加の投資をする経営者のことを、投資を取りやめる経営者よりも、より信頼できる、特に人間的な面で信頼できると回答することが示されました※1。これは、社会的にも重要な話です。合理性を取るか、他人からの信頼をとるか。

たとえば、戦争を始めてしまった政治家が、このままだとジリ貧で、合理的には戦争をやめるべきだと頭では理解していても、国民からの評判を気にして、戦争をやめられなくなるようなことも起こるかもしれません。

上ではカッコつけて、「俺の価値観が俺の人生においての正解」みたいなことを言ったけど、これは本気で思っているし、真理だろう。

経済合理性を取る?人の信頼を取るか?別にどちらも正解だと思う。お金とか損得ベースなら、経済合理性の方が魅力的に映る。人を大切にするなら、お金なんて、所詮お金でしょ?と思える。

いつも思う、人それぞれ。仕事の話でいっても、お客様によってなにを重視するかが異なって、それによって、支援内容が変わってくる。でも、どれを重視しても、正解だ。お客様の中にある正解が、正解なのがコンサルの仕事なのかもしれない。

でも、「経済合理性・人の信頼」の中で、こっちを優先することも大事だと思いますよ。と伝えれば、比重が変わったりもするかも知れない。関わる人全員で、すでにあった「正解」を磨いていくイメージだ。

最初の一文に戻るけれど、「俺の価値観が俺の人生においての正解」の一点張りじゃ、周りが不機嫌になってしまうこともあるだろう。この社会で、他の人と一緒に生きている以上、みんながハッピーな正解をなるべく共有したい。【「人の正解」を潰してしまうような「自分の正解」】を人に押し付けることは、「正解」じゃない。

合理ばっかりじゃ面白くないから、感情軸で自分が思い描く理想を目指していい。でもそれは、この社会を共に生きる仲間たちの幸せを邪魔しない限りにおいてだと思う。

「合理性と信頼」のように、相容れない2つの要素があるときは、やっぱりみんなの中での妥協点・着地点が必要なんだと思う。「合理性と信頼」の両立は厳しいからこそ、価値観をもとに、どちらに重きを置くのかをその場その場で判断していかないといけない。

妥協点の見つけ方(カントに学ぶ)

権利というのは、「私のものと、あなたのものは、違う」ということ。皆さんも、他人から自分のものを奪われそうになると「ノー」と主張しますね。

「皆仲良く」が良くないのは、「私のもの」と「あなたのもの」の境界がいつの間にか曖昧になり、その状況を利用して権利を奪おうとする者が現れるからです。

異国で紛争が起き、地球上の誰かの人権が侵されていて、それを皆が見逃している。そんな世界を生きることは、いつの日か自分の人権侵害も見逃されることを意味します。恐ろしいことです。

権利を巡る諸問題は、今のところ戦争がない現代日本でも生じています。本当に私たちが世界平和を望むのであれば、まずは身近な権利の問題を注視し、立ち向かうべきではないでしょうか。

「私のもの」と「あなたのもの」は違う。「私の価値観」と「あなたの価値観」は違う。「私の価値観(経済合理性が大事)」と「あなたの価値観(信頼が大事)」は違う。このようなシチュエーションにおいての境界線はどこなんだろうか。

パーセンテージとして、何%は経済合理性に振るけど、残りの何%は信頼に振る。そんな感じで、境目が浮き上がってくるんだろう。お互いが、納得して妥協できていれば良いんじゃないだろうか。

まとめ

最後は、かなーり話がズレてしまった。合理の話に戻すと、合理100%はつまらない。それは間違いない。でも、感情100%でも、社会はカオスになってしまう。だからこそ、「ロジックが世界共通言語になる」みたいなことが言われるんじゃないだろうか。

冒頭で書いた「合理的すぎるとおもんないよね」は間違いなくそうだと思う。かといって、逆に感情に振りすぎるのも問題だ。

やっぱりベタ過ぎるけど、バランスが大事なんだなぁ。

論理・感情
理想・現実
現在・未来
合理・信頼

どれも偏ると、よろしくない。
配分をどうするかは人それぞれ。
自分の思う正解が正解。
でも、本当に自分が求めているのはなんなんだろう。
これを一生考え続ける。

小難しく書いてしまったけど、偏ってしまって自分を見失いそうになったときには、この「自分の価値観の宣言」にも近しいnoteを読み返したい。

またまた長くなってしまったけど、最近頭の中にあったことを、ここにぶちまけてみた。スッキリした。あまり整然としてはいないけれど、伝わるっていると嬉しい。

んー、結局何が言いたかったんだろう。

合理だけじゃつまらない。合理主義的思考が切り捨ててしまうものを大事にしていきたい。でも、今自分が身をおいているのは、合理主義的なビジネスの世界。この考え方に、気づかぬうちに染め上げられなないようにしよう。

笠井康弘

こんなもんかな。

最後まで読んでくださってありがとうございます!
また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋

僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。