大学生のレポート:「多文化共存」〜日本の差別主義〜
このシリーズも定番になってきた。今回は「多文化社会」という授業のレポートを振り返っていきます。以下からは早速内容に入りたいと思います👇
国際比較の観点から、現代日本における多文化の共存はどのように可能か?
多文化の共存は可能だが、実現には時間がかかる。多文化の共存を実現するためには、多文化の共存の弊害となっているものを取り払っていく必要がある。
対立の原因
日本においての多文化共存の弊害の代表例として、「単一民族」という概念を取り上げる。国際的には極めて少数派のこの概念は、「共存」の対義語である「排他」、すなわち「差別」を助長する。
そうした対立の原因となりうる考え方を醸成するような教育やメディア等のあり方を見直さなければならない。教育現場の学校にも、差別に繋がるような、周りとの違いを否定する風潮が強い。中学校高校で顕著な毛の黒染めの問題は記憶に新しい。執拗な学校側の黒染めを強制する指導で不登校になった事例もある。大学生の多くが経験する就活も似たような事例だ。その時期になると、皆が細かい就活マナーの指南本を読み、同じ服装をするのは、先進国では日本くらいだ。
テレビ番組「Youは何しに日本へ?」
メディアに関しては、テレビ番組「Youは何しに日本へ?」で、外国人をバカにしているとして物議を醸した回があった。福岡県在住で「筑前琵琶」という楽器を作っている、イタリア出身の男性は、外国人「なのに」日本の伝統的な楽器を作っているというだけで「笑いもの」にされたくないという理由で密着取材に難色を示していた。男性は渋々取材を引き受けた。だが、オンエアは楽器作りに重きがあったとは言えず大雨の中の歩きながらの会話が上手く通じない様子が編集で茶化されていた。
このように、非常に身近なところにも、「出る杭は打たれる」(バカにされる)事例が散見される。メディア、そして視聴者ともに、例え悪気がなくて無意識のうちだとしても「己と他」「日本人と外国人」のような二分論に陥ってしまっている。ここまでの極端な二分論を国民の大多数が信じ込んでいる国は世界的にも珍しい。
テレビでハーフのモデルが取り上られる場合も、その背景には黒人よりも白人が優れているといった人種主義の意味合いが、意図されているかは別にしても、その根底にあるように思える。
こうしたメディアを通して、人々が何も知らないまま差別に加担してしまう社会構造が出来上がってしまっている。悪いのは、人々ではなくて、人々に差別に繋がる知識や考え方、そして常識を植え付けてしまう構造それ自体だ。
そもそも、「多文化主義」という発想すら世間一般には浸透していないのが日本の現状だ。この事実もまた、多文化共存の弊害だ。
政府のご都合主義
日本は、国のトップ、そして官僚までもが多文化主義を歓迎しない国だ。国の政策を見る限り、移民が日本に定着する事は想定していないし、移民の基本的人権の保証も不十分だ。「非移民国」を掲げながらも外国人労働力に頼る、政府の「ご都合主義」も限界だ。
ちなみに、イギリスの学校では、イスラム文化の尊重のために、制服のルールなどを柔軟に変更している。多文化の尊重が行き過ぎると収集が付かなくなる事は事実だとしても、こう比べてみると、日本には多文化を受容する気があるのかという疑問が浮かぶ。
世界的に、難民の受け入れも国家の果たすべき責任だといった考え方が広がっているこのタイミングを機に、現状を見直さなければならない。だが、現実問題として、国内ニュースを見ているだけではこのような問題が存在している事を正しく理解することすら難しい。
国際人権レジーム
そこで、規範としての正当性が十分にある「国際人権レジーム」を根拠とし、知識を広めていく事が現状への対抗措置となる。
国際人権の歴史
ここで、国際人権の概念が確立されるまでの歴史として、植民地主義、帝国主義、人種主義という構造的支配は長く続いた。だが、二次大戦でのナチズムやアパルトヘイトといった悲惨な出来事を経て、今までの在り方を問い直すこととなった。
特に悲惨だった二次大戦では、日独伊を始めとする民族国家が自国の利益優先の全体主義のもと、国民を総動員して侵略戦争を遂行した。人権侵害、人種差別を放置した結末としてのホロコーストは、人類史上最大とも言える教訓となった。国内での大規模な人種差別が、最終的には国際社会の平和と安全を破壊するということが世界的に認知された。
それからは、1948年の世界人権宣言を筆頭に、人権の概念が次々と登場した。よって、「国際社会の平和の礎」としての国際人権保障制度の必要性は明白だ。このように、国際人権レジームの歴史を遡れば、差別がいかに重要な問題かを理解出来る。
日本だけに限った話ではないが、この原点を知って立ち返る事が出来ていない点が問題だ。しかし、難民条約においての難民の権利がきっかけで、国内の在日の人たちの権利が見直されたように、外から取り入れたものに「気付かされる」事もある。外からの視点を取り入れることで、改善が必要とされる部分が明確になる。その外からの視点として、「国際人権レジーム」を上手く活用したい。
構造的問題:人種・階級・ジェンダー
上で学校教育やメディア、そして人種差別の文脈で述べたような構造的問題は、人種、階級、ジェンダーなどの様々な形をとって現在も存在し続けている。構造的に、ある一定の社会的地位から抜け出せない状態が再生産されている。
具体的にジェンダーの観点から、「女性の権利の主張」を例に取る。日本には、女性というだけで権利の幅が制限される、家制度を重んじた法的枠組みが残存している。
その制度自体に意義を唱えるためには、高等教育によって得られる知性が大きな武器となる。ただし、それがわかっていたとしても、教育へのアクセスには外的要因が関わってくる。人種や性別、親の経済力などといった、個人がこの世に産み落とされた以上、努力では変えられない要素だ。
人種や性別による差別は、人々の中の長い年月をかけて形成された「常識」「当たり前」「固定観念」が原因だ。そして、経済格差がどこから来ているかと言えば、資本家による労働者の搾取が大前提となっている資本主義自由経済からだ。
インターセクショナリティ
「女性の権利の主張」から話が始まったはずが、際限なく話の幅が広がる。無数にある複雑な要素についても考慮しなければ、問題の全体像は見えてこない。これが「インターセクショナリティ」という問題だ。
まとめ
多文化共生を目指し、理解を深めていく中で、この複雑性は避けられない。難解で、決して終わりの見えない課題ではあるが、継続的な取り組みで、徐々に改善は可視化されていく。そう短時間では改善されない問題だということを念頭に置きつつも、問題について考え続けられる人を増やしていくことで、多文化共存社会の実現に向かっての変化は加速させられる。
今こうしてレポートに書いている内容自体も、全くこういった現状の問題について知らない人に知ってもらえるきっかけになりうる。小さな努力の蓄積で、大きな変化を起こせる。歴史的に、現状を問い、変革していこうとした人物は皆、その当時は過激派と罵られる事が多かった。だが、今抱いている違和感を原動力に、働きかけることで報われるという事は、歴史が証明している。だから、考えながら、問題と向き合い続けなければならない。
最後に
ちょっと最後なんか自分に酔っている感じが強いですが、行っていることとしては今読んでもかなりまともだなと感じます。こうやって自分の書いた文章を振り返るだけでも、かなり勉強になります。なんといってもしばらく大学から離れていて、多くを忘れているので笑
最後まで読んでくださってありがとうございます!また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋
僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。