養う女、養われる男日記(20)

田中君が死ぬ時


春田(私)
30歳の会社員。出版社勤務。去年の秋から田中君を養っている。

田中君 
24歳のアーティスト。モデル、芸人、デザイン事務所勤務、その他アルバイトと様々な顔を持つ。働くのが好き。 

養う女
2023/02/25


 田中君はいつも死ぬのを恐れている。
 みんな死ぬのは怖いけど、明日の朝には死んでいるかも、なんて誰も本気で思ってないし、辛い、やだなあ、最悪、という代わりに死にたい~と口にする。「死」は愚痴や悪口の言い方のひとつでしかなくて、本当の意味での自分の死なんて、誰も身近に感じていない。
 だから、田中君くらい本気で、毎朝生きていてよかった、と思っている人も、毎晩、明日には生きていないかも、と思っている人もいないと思う。まだ20代前半で。
 田中君にとって、死は迫り来る制限時間のイメージ。チンタラやってたらすぐに死ぬ。だから、死に追いつかれないように、常に自分が起きている時間をいかに物づくりにつなげるかを考えている。田中君の1日の密度とスピードは凄まじい。朝3時に起きて絵を描くこともある。映画を観て本を読む時、その作品の伝え方や構造を常に見る。脳をある程度休める時間があるとすれば、それは素朴な作業を淡々とこなす早朝バイトの時間で、普通で言えば労働している時間にあたる。常にアーティストの英語のインタビューやドキュメンタリーを流して、英語やアーティストの思想を頭に入れる。自分の絵のポストカードをポスティングしに、街を歩く。文章を書く。まだ数えきれないほどの物づくりにつながる活動があって、活動する全ての時間を、その糸を切らすことなく、淡々と続けている。多分普通なら三日で息切れする。それを、永遠続けている。だから他人から見てわかりやすい言葉で言えば、きっと、生き急いで見える。
 田中君は、自分がいつも死を身近に感じるのは強迫観念と行きすぎた妄想癖のせいだと言う。たとえばある時は、自分がすぐ死んでしまうのは、もうすぐ戦争が起きるからだと言った。戦争が起きて戦場に行くことになれば、平均寿命より断然早く死ぬだろう。そういうことを、田中君は本気で心配している。
 私も、田中君がすぐに死んでしまわないか、いつも心配している。才能がある人を近くで見たことのある人は、きっと同じように不安に思ったことがあるはずだ。彼らはいつも、死の方から呼ばれているように見える。天才は放っておくとすぐ死んでしまう。
 ゴッホにエゴンシーレ、バスキアやキースヘリング。若くして死んだ天才アーティストは数えきれないくらいいて、天才は神様が近くにすぐ呼び戻したくなっちゃうから、なんて解釈も昔から言われてたりする。
 田中君はそんなことを私が言えば、天才のイメージ先行がすぎるって言うかもしれない。そんな大したもんじゃないよ、とも。でも凡人な私は、そういう人たちを思い浮かべて、大げさじゃなくヒヤヒヤしている。すごい作品を生み出す人たちはいつも、大概死と生の境目がすごく薄いところにいる。私は才能がある人にずっと憧れて生きてきた側の人間だからこそ、それを強く思うのだ。

 小学生の時に、たけち君という男の子がいた。たけち君はピアノの天才だった。学校の時間以外、ずっとピアノを弾いていて、たくさんのすごい大会で賞をとっていた。たけち君は全然落ち着きがなくて、授業中も歩き回ったり、勝手に喋ったりと好き放題だった。でもピアノが天才的だからということで、全てが許されていた。私も3歳頃からピアノをやっていたけれど、コンクールに出てもいいとこ努力賞。凡庸な成績を収め続けていて、たけち君は全然手の届かない存在だった。
 小学6年生になって、卒業式の合唱のピアノを伴奏する人をオーディションで決めることになった。皆がたけち君に決まると思っていて、完全に消化試合みたいな感じでオーディションに臨んでいた。なんとなく負けるとわかっていても、小学校最後の式でピアノを弾いてみたいとみんな思うのだ。私も参加した。10人くらい弾いて、たけち君が当たり前に一番うまかった。 
 オーディションが終わると先生は、「伴奏は春田さんにしてもらいます」と言った。みんなざわついた。たけち君は何も言わなかった。「卒業式の伴奏は、演奏がうまい人がするんじゃなくて、皆にあわせて弾ける人がするんです」私は、先生が普段の授業を邪魔された仕返しをそこでしたみたいに見えて、気分が悪くなった。それに、圧倒的に上手く弾ける人がいる横で、そんな理由で選ばれることも、選ばれないより惨めな気持ちだった。たけち君はそれっきり学校にはこなかった。
 卒業式本番、私は楽譜を見ないで弾く暗譜が得意だったから、暗譜する気で楽譜を持たずに舞台袖にいた。先生が直前になって飛んできて、失敗されたら困るから、と楽譜を渡してきた。この人、私のこと選んでおいて、全然信頼してくれないんだな、と思った。本番は、楽譜を見て演奏した。それっきり、コンクールでも暗譜するとミスするようになった。ただそれとは関係なしにコンクールの成績はぱっとしないまま、大学受験の頃、ピアノの練習がだるくなって受験勉強を口実にやめた。
 たけち君に会ったのは、あのオーディションの日が最後だった。成人式の会場で、たけち君は高校を出てすぐの頃にバイク事故で死んだと聞いた。

 私は、たけち君と田中君が同じだとは思わない。ただ、私の中で、天才の死を恐れるようになるひとつの身近な例であったことは確かだと思う。

 こうやって私が、とても切実に根をつめて物づくりを続ける天才田中君の像を伝えた時、その像と彼の絵には、ギャップがあるように見えるかもしれない。田中君の絵を見たある人が言っていた。「なんせかわいい」。田中君の絵は、すごく大らかでかわいくて優しく、シンプル。垢ぬけていて、おしゃれ。こうした形容が自然と浮かんでくる絵に、切実な生き方とのギャップを感じる人は少なくないだろう。
 それはひとえに、田中君と切っても切り離せない性質として圧倒的なサービス精神と思いやりがあるからだ。田中君の後ろに死があるとすれば、田中君は自分の前に、いつも他人を見ている。物を作る時には必ず、それが他人に伝わるかを考える。悲しそうな人がいたら笑顔にしようと思うし、間違っていることがあれば本気で正す。表面的な優しさでなく、その人のために叱ることができる。本当に相手を思う思いやりが、田中君の核にある。

 今朝、田中君が、強迫性障害だからこそ、シンプルな絵に安心する自分がいるんだな、と言った。英語の勉強で草間彌生の動画を見ていたらしい。そうしてふと、気がついたのだ。日々追われていて生きた心地がしないから、素朴な幸せを表現するような、普遍的感覚を表現する絵に安心する自分がいるんだと。田中君の幸福の感じ方は、毎朝生きて目ざめたことに幸せを感じるくらいにゼロベースで、だからひとつひとつのことが嬉しく感じる。大きく劇的なことが起きることなんて期待しないし、そんなことがなくても何も思わない。欲がない。そういう自分が描く絵だから良いんだな、と。
 それは、私が田中君の絵を見ていて感じていた圧倒的な良さを、田中君自身が言語化して見せてくれた瞬間だった。
 だから俺の仕事は、良いと思う普遍的なものを枠に収める仕事なんだと思う、と田中君は言った。やってても何にもならないことを日々している、と言う田中君にとって、自分が絵を描く意味がひとつ見つかった朝だった。私は引っ越しの最中で、まだ荷ほどきの終わっていない部屋の床に座っていた。ソファの背ごしに、大きな窓から朝の光が差し込んできている。寒く、朝の青さがすみずみまで行き渡っている部屋で、私はじっと動かず、何度も画面に浮かぶ文字を見た。私の部屋にある田中君の絵を見た。田中君はこうやって、なんでもない誰かの時間を、かけがえのない時間にできる力をもって、生きている。

 田中君はいつも死ぬことを恐れている。だから良い絵を描く。私は田中君が死んでしまうことを恐れている。だから養う。本能で感じた思いで行動する時、人の行動は、限りなくシンプルだ。
 きっといつどの瞬間に死んでも、田中君は何も変わらず、淡々と物づくりをする時間の途中にいる。


養われる男
2023/02/23

展示会を開くのに10万近くかかると思っていたが、5万円以内でも出来ると聞いて少し驚いた。
職場の人に「田中くんの絵はやった方がいいよ」と言われ一瞬だけやる気が起きた。
何回か言っている気がするが、仕事を頻繁に辞めてしまう僕が一番長く続いた掃除のアルバイトを辞めた。
この先もなんだかんだ仕事は辞めて行きそうなので一番安心感のある職場を離れるのは少し怖いような気持ちもする。
仕事内容はもちろん、僕はそこの上司も気に入っていた。
ミルクボーイの内海に見た目も声量もそっくりで見たらわかる面白おじさんな感じが好きだった。
僕は入社早々その人と仲良くなったのだが、それと同時に一年と少しもすればこの職場を離れると聞かされた。
理由を聞いてみると、どうやら彼の奥さんは半年後も予約が取れない彫師らしく、仕事が大好きな彼女に「別に働かなくていいよ」と言われたらしい。
馴れ初めは内海が働いていたコンビニの常連で声をかけられ付き合うことになったとのこと。
ミルクボーイの内海が職場で逆ナンされるとは思えないけど、なんとなくこの明るさと居心地の良さに惹かれたんだなとうっすら納得した。
今思い返せば、彼女が僕の知る最初の養っている女性だったかも知れない。
仕事を辞めた後何をするんですかと聞いてみると「僕歩くの好きなんでずっと歩きます!!!」と笑顔で言われた。
散歩好きとは信じようにも信じられないような肥満体質だったが、そんな江戸時代の偉人みたいなこと言う彼が僕は好きだった。
その時は全くどうも感じていなかったが、その当時から見た未来にまるで同じような理由で辞めることになっているのは少し感慨深い話。



養う女と養う男でラジオをしています。
出版業界の今後や、田中君からの多動な人へのメッセージがつまった最新回はこちらから。
全然誰も聞いてない今がチャンスです。



養う女、養われる男に興味を持ってくださった方はぜひ、第1回から読んでみてください。

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