薩摩の名将島津義弘公が今も慕われるのは関ヶ原の戦いで敵中突破の退陣劇を敢行したから?
今回はいきなりの西暦1600年に話が飛ぶけど、あの歴史の中でも一大転機となった関ヶ原の戦いで、徳川家康と対峙した石田三成の西軍に属した薩摩の武将、島津義弘公が今も慕われているという話をシェアしたいのですよ。
突然ながら、サブアカに最後まで無料で読めるサークル機能の記事を投稿しましたので、サークルを使ったマネタイズに興味のある方はどうぞご覧下さいまし。
さてと、現在も薩摩(鹿児島)では島津義弘公が関ヶ原の戦いで正面からの敵中突破を果たして艱難辛苦の退却行に難儀しながらも、領地の鹿児島まで帰ってきた時の苦労を偲んでいるんですよ。
その退却行を偲んで現在でも、島津義弘公を祀ってある妙円寺(現在は徳重神社と呼ばれています)まで、徒歩行でのお参りをする行事が開催されるんですね。
その行事の名称を妙円寺詣りというんだけど、当時の行軍を模して武者装束に身を固めた参詣者たちが武者行列をつくり、妙円寺を目指してそれぞれの地元を出発するんですよ。
そうやって何時間もかけて歩いた武者行列が、妙円寺に到着した後に順番に誓文を読み上げてから、武者行列の集団参拝を行うのです。
妙円寺は鹿児島県日置市伊集院町にあるんですが、この妙円寺を目指して妙円寺につながる道筋に続々と武者行列が集まってくる様は、壮観で見応えがある景色なんですが、この武者行列は年々煌びやかになっているようです。
というのも私が参加していた高校生の頃は、武者行列の装束が往事を偲ぶような本格的な渋い色合いの鎧兜がほとんどだったのに、現在では子ども達まで段ボール作りながら、煌びやかな彩りの手作り鎧兜で参列するんですね。
段ボール作りと言ってもバカにはできません、ぱっと見の外見は本物の鎧兜に見間違うような見事な出来栄えなので、煌びやかな色とりどりの稚児武者の行列は武者人形の行列みたいで、ほんとに可愛いんですよねぇ。(^_^)b
それを見守る保護者の表情もまた、見ていて微笑ましいものがありますね。
妙円寺詣りの舞台になる島津義弘公を祀った妙円寺は、県庁所在地の鹿児島市内からはおよそ20㎞くらいの距離なので、徒歩だと4~5時間で歩けるんだけど、武者装束に身を固めていると5~6時間の所要時間になるでしょうね。
それだけの時間をかけて妙円寺まで行軍するわけだけど、中には途中の行程を車ではしょって時間短縮して、ほどよい距離から行軍を再開するという横着組も存在するんですが、これって往事の苦労を偲んでるんかいな・・・。
まぁ、参詣するだけでも良しとしなきゃいかんでしょうけど、ね。(^_^)b
この行軍の時に歌われる歌が「妙円寺詣りの歌」という、そのまんまの歌なんだけど歌詞が長くて22番まであるんですが、地元の小学校ではこの長い歌を最後まで完唱できるかどうかの審査会まであるんですよ。^^
子どもも妙円寺詣りに参加するのなら、最後まで「妙円寺詣りの歌」を完唱できないとダメよ・・・ってことですね。
その「妙円寺詣りの歌」を全員で歌い継ぎながら行軍するわけですが、子ども達だけじゃ無くて参詣常連の連中は、みな全歌詞を覚えていますもんね。
ちなみに「妙円寺詣りの歌」の歌詞を一部だけ紹介するとこんな風な歌詞になっています。
妙円寺詣りの歌 (作詞:池上真澄 作曲:佐藤茂助)
※歌い出しの小節だけ見やすいように強調文字にしてあります。
1.明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよがせて 嵐はさっと吹き渡り 万馬いななく声高し
2.銃(つつ)雷(いかずち)ととどろけば 太刀稲妻ときらめきつ 天下分け目のたたかいは 今や開けぬ関ヶ原
3.石田しきりに促せど 更に動かぬ島津勢 占むる小池の陣営に 鉄甲堅くよろうなり
4.名だたる敵の井伊本多 霧にまぎれて寄せ来るや 我が晶巌ら待ち伏せて 縦横無尽にかけ散らす
5.東軍威望の恃みあり 西軍恩義によりて立つ 二十余万の総勢の 勝敗何れに決戦や
6.戦い今やたけなわの 折しも醜(しこ)の小早川 松尾山をかけくだり 刃(やいば)返すぞ恨めしき
7.前に後ろに支えかね 大勢すでに崩るれど 精鋭一千われひとり 猛虎負嵎(もうこふぐう)の威を振るう
8.蹴立てて駒の行くところ 踏みしだかれぬ草もなく 西軍ためにきおい来て なびくや敵の旗の色
9.家康いたくあらだちて 自ら雌雄を決っせんと 関東勢を打ちこぞり 雲霞の如く攻めかかる
10.かかれ進めと維新公 耳をつんざく雄叫びに 勇隼人の切先の 水もたまらぬ鋭さよ
11.払えば叉も寄せ来たり 寄すれば叉も切りまくり 剛は鬼神を挫けども 我の寡勢を如何にせん
12.運命何れ生か死か ここを先途と鞭ふるい 奮迅敵の中堅に 活路(みち)を求めてかけ込ます
13.譜代恩顧の将卒ら 国家(くに)の存亡この時と 鎬(しのぎ)をけずる鬨(とき)の声 天にとどろき地にふるう
14.篠を束(つか)ねて降る雨に 横たう屍湧く血潮 風なまぐさく吹き巻きて 修羅の巷のそれなれや
15.薙げど仆(たお)せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂 たばしる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり
16.骸も染みて猩々緋 御盾となりし豊久を 見るや敵兵且つ勇み 群り寄する足速し
17.賜いし御旗ふりかざし 阿多長寿院駈け入りて 兵庫入道最期ぞと 名乗る雄々しき老いの果て
18.欺かれたる悔しさに 息をもつかず忠吉ら くつわ並べて追い来しが 返す我が余威また猛し
19.牧田川添いひと筋に 行く行く敵をけちらして 駒野峠の夜にまぎれ 伊勢路さしてぞおち給う
20.献策遂に容れられず 六十余年の生涯に 始めて不覚をとらしたる 公の無念や嗚呼如何に
21.興亡すべて夢なれど 敵に背(そびら)を見せざりし 壮烈無比の薩摩武士 誉は永久に匂うなり
22.無心の蔓草(つるくさ)今もなお 勇士の血潮に茂るらん 仰げば月色縹渺(ひょうびょう)と うたた往時のなつかしや
・・・って、ついついどこまで書くか迷ってしまい、結局は最後まで紹介しちゃったけど、歌詞から読み取れる関ヶ原の戦いを彷彿とさせて、島津義弘公がこの鹿児島で今も慕われている理由が、この歌に込められています。
ところで、今も島津義弘公がこの鹿児島で慕われているわけは、関ヶ原の戦いで敵中突破の退陣劇を敢行したからだけじゃありません。
豊臣秀吉が行った無謀とも言える朝鮮出兵での戦功や、それ以前の九州制覇に向けて破竹の勢いで勝ち続けた猛将ぶりと、4兄弟の次男という立場で藩主をもり立てながら、藩主も凌ぐほどの人望があったからでしょうね。
その辺は、池宮彰一郎著作の「島津奔る」や、天野純希著作「衝天の剣 島津義弘伝」などの、島津義弘公の生涯を書いた本を読んでもらえば納得できると思います。
密かに隠れ武人になるためには、こちらのマガジンで身を護るスキルを身につけてくださいね。
ってことで、今回は
「薩摩の名将島津義弘公が今も慕われるのは関ヶ原の戦いで敵中突破の退陣劇を敢行したから?」という名将島津義弘公にまつわる話でした。
では!
よみがえる つわものどもも のほほんと。
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