見出し画像

考えるきっかけを手渡す本と娯楽のための読書のギャップ

世の中には2種類の本がある

世の中には2種類の本があると思う。あるいは本を書く動機は、大きく二つに分けられると言い換えても良い。

1.読者を楽しませるための本
2.著者の考えを広めるための本

厳密に考えれば、教科書や参考書、それからハウツー本のように「学ぶための本」も存在するだろう。しかしここでは、こうした本もあえて「2」に分類してしまおう。
なぜなら「2」は、書き手が持っている知識をシェアするための本、読者が学ぶための本だからだ。

一見しただけで1か2かが分かりやすい本は、需要と供給のねじれが起こりにくい。
推理小説の読者は娯楽や気晴らしを求めているし、ダイエットの本を買おうと考えている人は、効率よく痩せるための知識を身に付けたいと思っている。勉強しようと思って推理小説を買う人はまずいないし、娯楽のためにダイエット本を買う人も見つけるのが難しい。

しかし拙著『白い孤影』の場合は、このねじれが起きている。

自分の考えを広めたい著者
vs
娯楽を求める読者(「楽しむための読書」という欲求)

というねじれだ。

このねじれが生じると、どんな不都合が起きるのか。分かりやすいのは、ブログや読書レビュー投稿サイトでみかける感想だ。

「自分の考えを広めたい著者」である僕は、「自分の考えを広めるために、レビューや感想はネタバレ前提で書いて欲しい」と思っている。

しかし「娯楽を求める読者」であるレビューアーたちは「他人の読む楽しみを邪魔をしてはいけないから、結論を書くのは控えよう」と考える。

この部分の考え方のギャップが、結構キツいのだ。

感動ポルノか? 「共有財産的な記憶」に関する議論の呼び水か?

拙著の取材結果から導き出した結論は、世の中で流布しているメリーさんの噂(恋した将校を待つ女)から遠く離れたものだった。
この事実を提示することで、無自覚なまま無責任な噂を拡散してきた当事者たちをいたたまれない気持ちにすることを拙著は狙っている。
つまり手に取った段階で、多少なりとも彼女のことを知っていることを前提にした本だ。
「可哀想で、健気で、美しい話」というのは一服の清涼剤。娯楽の一種だ。
キツい言い方をしてしまえば、彼女にまつわる噂は「感動ポルノ」ではないか。

近年「障害者や社会的弱者たちに勇気をもらう」という形で共感をいざなう、いわゆる「感動ポルノ」 は当事者の居心地を悪くさせるばかりで、相互理解に寄与しないと批判されている。
僕は安易な共感に訴えることを良しとしない。
共感や情動ではなく、ファクトとエビデンスの丁寧な積み上げによって物語り、理解することが大切だという立場を大事にしたい。

本書は著者の考え(メリーさんが神話化した理由の考察や彼女がアウトサイダーアーチストだったという仮説)を伝えるための手段として書かれている。だからネタバレを気にするというのはナンセンスだ。ネタバレさせてようやく議論の叩き台が整う。

では何が議論されるのか。
「ストーリー」の意味についてだ。近年各国間の歴史認識(つまり「ストーリー」)の差違に関する考察が脚光を浴びている。

(参考リンク)
「戦争の記憶」のその先にある未来への責任(コロンビア大学特別講義)  | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト(NY支局 小暮聡子)https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/03/post-9829.php

戦争だけではない。「共有財産的な記憶」に関する変遷も議論されている。

『遠野物語』をめぐる“神話”の構築過程 ―その民俗学史的評価へ向けての予備的考察―(文化科学研究科・日本歴史研究専攻 室井 康成)
http://www.initiative.soken.ac.jp/journal_bunka/080220_muroi/muroi.pdf

京都の「河原町のジュリー」 (wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E7%94%BA%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC

国民による「ストーリー化された戦争の記憶」が各国間で齟齬をきたしている様、外部の人間によって客体化された土地の民話が当該地域で意味を変遷させていく様、都市の記憶と結びついたマレビトの存在が年月の経過と共に読み替えられていく様。

繰り返しになるが、メリーさんについて考える際には上記のような「共有財産的な記憶」の移ろいについて、横浜以外の事例を参照しながら考えることが必要だ。

謎解きの本ではない。

一般にノンフィクションの本には、「謎」を設定し、その謎を解き明かしていくという不文律がある(たぶん欧米圏での論文の書き方が起源なのだろう)。したがって手練れの読者ほど、この読み方しか出来なくなっている。

ところが書き手である僕は、このセオリーを意に介していない。舞台芸術や現代アート的な作法で消化して欲しいと考えている。その上で美術評論や劇評を書くときのような形で、議論の叩き台として受け止めて欲しいと希望している。

読後、澱のような感情が心に残ると思う。もし娯楽の線を狙っていたならば、こんなラストにしただろう。

彼女の物語は「誰の共感も呼ばない話」である。
我々はその孤独の深さと、自らの島宇宙を守りきった人生に言葉を失うだけなのだ。

敢えてそうしなかったのは、議論の出発点になることを意図したからである。

その議論とは、もちろん「著者の推論の妥当性」だ。
そしてこれまで無責任に垂れ流されてきた「感動ポルノ」や「涙のファシズム」的な噂に対する是非である。

間違っても「彼女の生き方をどう思いますか?」と読者の感想を話しあって欲しいわけではない。
人の噂の無責任さ、街やインターネット上に醸成された「共有財産的な記憶」について、考えて欲しいのだ(きっと「感動するんだからいいじゃないか」という人が一定数いるはずなので、紛糾するだろう)。

戦争は関係ない

戦争の悲惨さを伝える本でもない。もし彼女が平成生まれだったとしたら、おそらくメンヘラ少女になっていただろう。彼女のありようを戦争に押し付けて考えるのは、短絡的だ。今や戦争はある種のブラックボックス化している。そこでどんな悲惨が生じてもおかしくないと思われている。彼女の後半生を戦争との因果関係に絡めて語るのは、単に受け手が納得したいからではないだろうか。深く調べず、深く考えずに納得したい。それがメリー伝説を産んだのだろう。

しばしば「書くことは考えることである」と言われる。この例に倣って言えば「読むことも考えること」だ。そんな読書もあるのだと、受け止めていただけると幸いである。

メリーさんは「無敵の人」である。つまり孤独で、失うものさえもなく、なにをやってもなにひとつ手にすることが出来ず、奇妙な出で立ちさえしていなかったら誰からも顧みられない人。本書はその「無敵の人」としてのメリーさんをあぶり出すのと同時に、世間で流布する「悲劇のヒロイン」としてのメリーさんとのギャップがなぜ生まれたのか、という部分にも焦点を当てている。

彼女の前半生は悲惨な幕引きをした。彼女は精神を病んで出奔した。

 「それでも生きる」という唯一の選択肢を放棄すると、誰にも知られないまま一人で死ぬか、誰かに自分の存在を知らしめるために何かするか、しかない。一人でひたすら創作をするとか、そういう方に没頭して他に目もくれない人は全然幸せです。ただ「認められたい」という気持ちがある場合、「報われない」という悪夢が別にある。
白の感想 『ジョーカー』より 
http://miharashiro.blog5.fc2.com/blog-entry-1712.html?sp
家族は年老いて妄言をくり返す母だけ、親しい友だちも恋人もおらず、理不尽な暴力にさらされ、精神の病気も抱え、お金の心配ばかりする毎日。こんな毎日では、遅かれ早かれ壊れてしまうことは容易にわかるし、同じような状況の人は今、たくさんいるはず。
白の感想『ジョーカー』より

共感できなくても、その人が置かれた状況や立場を考え、想像することはできる。その状況全体を「理解」することはできる。私たち自身が加害者だと思い至ること。もちろん「私は今まで彼女のことを知らなかった」という人もいるだろう。しかしあなたは(そして僕も)社会の一員で、その社会が彼女をどう扱ってきたか、ということが問われていると思う。

僕たちに必要なのは、情動的な「共感」を敏感にすることだけでなく、もう少し「理性」を働かせることなのではないか。


この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?