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豊臣秀吉の思ひ「豊国神社」大仏「方広寺」【三十三間堂周辺シリーズ】

奈良に大仏があったように、京都にも大仏があったが今は焼失。方広寺と言えば「鐘銘事件」だろうか。高さ4.2メートルの大きな梵鐘の銘文の一部に「国家安康」、「君臣豊楽」と書かれていたのが家康の怒りに触れ、その後、戦いに入っていく。
 最後に、方広寺は、京都国立博物館、三十三間堂まで敷地で、三十三間堂の南側にひっそりと南大門が遺っている。

変更履歴

  • 2023/07/22 TV番組「京都浪漫」より追加

  • 2023/02/25 初版


▼HP

▼アクセス

京都市東山区大和大路通正面茶屋町530
※京都国立博物館の駐車場がいっぱいの時はここに停めるのも手です。有料ですけどね。

▼祭神・本尊と脇時

※後述「▼見どころ」参照

▼見どころ

 秀吉と繋がりが強い豊国神社と方広寺は境内が繋がっているので、どちらからも参拝可能。
 行けばわかるが、とにかく道幅が異様なくらい広いのだが、これは秀吉が大仏を作った時の名残ともいわれている。
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 豊臣秀吉は妻に「脳の練習で忙しい」と言ったぐらい嵌ったようで、秀吉と家康が天皇の前で能を舞ったとか・・。
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▽方広寺

 本堂には、かつての大仏の10分の1の大きさで江戸期に造られた盧舎那仏坐像が安置されている。若干、鏡風味の透明板なので太陽の位置によって、外からは見えにくい。大仏殿の欄間に施されていた左甚五郎作の龍の彫刻っも見どころ。

 ちなみに大仏は、大仏完成後の翌年に発生した大地震で崩壊した。。ここで、権力者ぶりを発揮して、信州善光寺から阿弥陀仏を招くが、残暑の中、雪が舞うという珍事!?が起こり、祟りだ!と恐れ元に戻した(返戻した)とか。。
 その後、秀忠が思いを次いで、大仏再興に力を注ぐが3度焼失したそうな。。ただ思いは強く再興したのだが、ここであの有名な徳川のイチャモン(罠)で豊臣家滅亡の道に進む。

 銘文の「国家安康」「君臣豊楽」が家康の名前を分断し、豊臣を君主とするものだと徳川家康から難癖がつけられ、大坂冬の陣の導火線となった梵鐘である!?って滅茶苦茶だな・・権力者は(笑)

 最後に昭和にも尾張の有志が再興すべく、半身の大仏を寄進するが、これまた焼失する。。って、ある意味、不運お伝説が残っている・・。

 では、境内右手に進み豊国神社神社に行きます。神社は、秀吉が奈良の大仏に倣って造営を命じた大仏と大仏殿が建てられてた場所です。現存する奈良の大仏よりも大きな大仏だったようで、巨大な大仏殿と「京の大仏さん」の姿は、洛中洛外図などにも描かれるなど、京都の名所のひとつとして人々にはとても身近な存在だったようです。その思いが今の京都に繋がっていると言ってよいかと。もし秀吉が天下を取っていなかったら、江戸時代に神社仏閣の復興は無かったんじゃないかと言うこと。秀吉の人気が社寺への貢献ならば、権力者は真似る(継承)するしかなかっただろうなと思う。

▽豊国神社

 1598年、天下統一を果たした豊臣秀吉は伏見城において生涯を終えた。御遺骸は遺言により、東山阿弥陀ヶ峯の山頂に葬られ、その中腹に祀ったのが豊国神社です。
 1658年、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると徳川家康により廃祀され、江戸時代で荒廃するが、1868年に明治天皇により再興が決定し今に至る。理由は「天下統一を果たしたが、幕府を作らず天皇を尊重した人物」と再評価したようです。つまり、権威と権力をわきまえていたということかもしれませんね。
 歴史好きにはたまらない?伏見城の遺構と伝えられる国宝がある。

→稲荷社

 秀吉といえば稲荷系が多いですね。出世稲荷など色々あります。出世稲荷など色々あります。「正一位」とあるので、伏見稲荷大社の分祀ということかと。

→唐門、拝殿、本殿

 再建当初、豊国神社は大坂城の城外に造営が予定されていたが、京都の人々が、京都に墓も神社もあったのだから、元の場所に作るべきだと京都再建を熱望。その結果、京都には本社、そして大阪には別社が建てられることになったとさ。そして、滋賀・長浜、故郷・愛知にも「豊国神社」がある。

 西本願寺・大徳寺の門と並び、国宝三唐門に数えられる、本殿正面に建つ唐門は南禅寺金地院から移築された。伏見城の遺構と伝えられ、豪華な装飾が施されている。と、リユース!

  • 秀吉の居城のひとつ・伏見城の城門だった

  • 伏見城が廃された後は二条城に移される

  • 南禅寺の塔頭・金地院へ移築

  • 明治に入ってから豊国神社に移築

 西本願寺、大徳寺の唐門とともに「国宝の桃山三唐門」の一つとされる。唐門の上部には、豊臣家の家紋である「桐紋」が見られる。扉や屋根下には、神社仏閣の名彫師・左甚五郎による彫り物が施されている。造営当初は門全体に漆が塗られ、彫刻も極彩色で金箔だったようだ。

 左の扉(上の写真)の下部に彫り込まれた鯉は、流れの急な河を登り切った鯉は龍になるという「登竜門」の伝説にちなんだ造型で、農民から天下人にまで上り詰めた秀吉の立身出世を表現したとも。

 本殿は見えないようになっていますが、有料区域(宝物館)に行けば、裏側から見れます。後ほど。

→宝物館

 宝物館の入口は桃山時代の灯篭@重文となっている。豊国神社廃絶後、三十三間堂近くの妙法院に伝来し、豊国神社再興後返納されたようだ。
 境内図があった。本NOTEの冒頭の通り山の中腹にあったようで、山麓には神社仏閣、塔頭など広がっていたのがわかります。

2019年:京都国立博物館
『京博寄託の名宝-美を守り、美を伝える-』で、「薄菊桐紋蒔絵唐櫃@重文」が展示された。

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 宝物館には能舞台の屏風がある。その屏風には建仁寺から豊国神社に移動した風景、豊国神社横の方広寺の大仏殿、清水寺も描かれている。この屏風には、今でいう仮装をお祭りの模様が描かれており、南蛮人やタケノコの着ぐるみを着た民衆の絵となっている。
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→有料区域:馬塚

 なんか工事しているなと思ったが、なんか「馬塚」という看板が、行ってみた。

 説明書きを探すが、ないので帰ろうとすると、工事をしている会社の仮御殿!?にあった・・。

 神社が廃されていた間は、これが代わりに拝まれていたようです。塔には秀吉の名前は無く、代わりに梵字と「元和元年八月十八日」の命日が刻まれているだけ。それだけ、厳しい対応があり、人々の尊敬があったのでしょうかね。「馬塚」の名前は塔の近くの地名が「馬町」だったからとか!?って、あり得そうだな。ある意味、隠語ですね。わからなければ権力者(徳川家)も潰したら、今で言うと選挙に勝てないので、手が出せないかもしれません。

→有料区域:本殿背後

 実は本殿だけでなく横にも社がありました。本殿は豊臣秀吉を祀り、横は北政所・豊臣吉子を祀る「貞照神社」ですね。

 本殿裏=神様に一番近いところです。立派だな~北野天満宮や太宰府天満宮もそうですが現人神は立派??とかるのかな。下鴨神社とかは結構、質素なんですよね。


▼旅行記、セットで行くところ



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