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ルックバック実存パンセ哲学

映画『ルックバック』をやっと観れた!
それでめちゃくちゃ感想を書きたい気持ちになった。

完全に初見で映画を観るために、感想や評価を必死に避けてきた甲斐があってめっちゃ面白かった。読み切りで10数ページしか情報にない。藤野が京本という脅威に4コマを諦める…くらいの情報で臨んだ。

あらすじやストーリーは改めて説明したりしないし、もう全員知ってると思うから作画や描写のこと、アーティスト論、京アニ事件のことは書かない。


ルックバックを観てて思ったのはパスカルの『気晴らし』だった。

 小学生のときに抱いた創作への情熱をずっと持ち続けていた2人は、あの卒業式の日に出会わなかったとしても同じ表現の道に回帰して、どこかで2人は出会っていたんだろう、というパラレルワールドの様相だった。

 パラレルワールドで男に殺されそうになる京本を藤野が助ける場面は本当にハラハラした。めっちゃかっこいい!そして漫画とスポーツの両方の才能を持っていた藤野はスポーツを専念しながらも、漫画をまた描くようになっていた。あのときの情熱がずっと残っていたんだなと思うと、何か心に響くものがあった。映画を観ている人みんな泣いたと思う。知らないけど。

実世界でもパラレル世界でも結局、2人は絵を描くことを選択する。

 これって絵を描くということは2人の実存主義ということだと思う。4コマ漫画が原体験となって人生観や実存が決まってしまって、””もう表現から逃れられない””という哲学というかカルマのようなものを感じる。実存主義に縛られているような心持ち。

 実世界で、藤野は亡くなった京本の家を訪れて絵を描くことは無意味だと自覚する。それでも絵を描くことを辞めていない。藤野には絵を描くことしか方法が残っていない、というよりも漫画を描いて表現することこそが藤野の実存だと思う。無意味なことを自覚しながらも表現することを辞めないことが藤野の実存主義だと感じた。あるいは無意味であることを、漫画を描くことで一時的に忘却しているようにも思う。

 それで思想家・パスカルの『気晴らし』やハイデガーの退屈論を思い出した。ざっくり説明すると、人間は、漠然として存在する死や退屈を考えないために気晴らしをしている。死や退屈というのは考えても仕方がないこと、問いかけても真理はないどころか抗えないという無力感や絶望感さえ覚えるものだから、それらが露呈しないように、ときに逃避のように気晴らしにひた走っている。労働とか家事とか趣味とかなんでも、様々な行動は気晴らしであるという哲学だった。
(ただ、パスカルは「死」ぬまでの気晴らしというテーマが主だから、退屈まで解釈していいかは不明。いつか『パンセ』を読んで確かめたい)


 藤野にとって、死や退屈に値するような漠然とした”逃げるべきもの”とは何かを考えると「絵を描くことは無意味である」ことが、死や退屈に近いものだと思う。表現者であるならば、その表現が無意味であることは、あまりにも理不尽で虚無的だと思う。それでも藤野は漫画を描くことで一時的に忘却・気晴らししている。それってすごい勇敢というか英断だと思う。

 アート的な表現が死だから、スポーツだとか趣味だとか恋愛だとか、他に気晴らしを見つけることはできる。多くの人はそう選択をする気がする。それを端から見れば夢を諦めたようにも見えるし、美談にするならば第二の人生とか言われるかも。スポーツ推薦で大学に行ったパラレルワールドの藤野のような感じかもしれない(漫画を描いていることを知らない状況の)。

 でも、藤野は漫画を描くことを続けている。さながら、死に漫画で殴り描いて、死を上書くようなイメージで、巨大なヴィランに立ち向かうヒーロー漫画を読んでる感覚になった。だからこそ、それでも藤野が漫画を描き続けるのは、漫画を書くことが藤野にとっての実存主義であるからと思う。


これが「無意味であること」じゃなくて、他にも「京本の死」とか「自分には漫画しかないこと」とか妄想が膨らむ、色々考えさせる作品だった。

なんにしても、漫画を描く!という実存主義が藤野を貫通していることが、藤野の背中から伝わってきてかっこいいし、運命的だと思う。


なんで藤野は京本の4コマを見て諦めたのか。

 映画を観ていてこれが疑問だった。学級新聞の4コマの中に藤野はギャグ漫画を描いている。一方で京本は風景画を描いている。だから、ギャグ漫画と風景画はそう比較できるものじゃないし、藤野が悔しがることも諦めることもないんじゃない?と思ってしまった。

 反対に、京本も藤野の4コマに感動したのに、ギャグ漫画を描こうとはしていない。風景の4コマを描いている。憧れたわけじゃないの?と思った。

「絵が上手い」と「画が上手い」は大きく異なるし、言葉やストーリー性も、人間と風景という対象すら違うものだから。ちぐはぐに思えた。

『でんじゃらすじーさん』を読んで、絵が上手いなぁ、なんて感想をもつ奴なんか頭がイかれてるし、『ルックバック』を観て、絵が上手いなぁ、て思うのは分かるけど一個目に出てくる感想ではないだろと思う。


 でも、表現という実存主義だと考えるとつじつまが合ってきた。京本が初めて藤野の4コマを見たときの感動や、藤野が京本の4コマに感じた焦りや諦観は、表現そのものに対するものだったんだと思った。面白いとか絵が上手いとかじゃない、感覚としてある「すごい」という気持ち、胸の高鳴りだったのかも。

 小学生なんて(小学生に失礼かもしれないけど)理屈とか抜きで、純粋にすげぇって思うやつが一番すげぇって少年ジャンプみたいなところある。藤野も京本もそれかも。そこに理屈なんてなく、ただただ心を動かされた。



この映画で一番好きなところは「卒業式のあと京本にサインをして、自宅までスキップで帰っていくシーン」だった。

 雨も降り始めた田舎道を、手を大きく振り上げながらスキップで進んでいく。でもなんか、その動きがすこし滑稽に感じた。スキップすることに対してではなく、動き方に滑稽さを覚えた。藤野はスポーツも万能で運動神経もいいはずだから、きれいに手を振り上げながらスキップすることはできると思うけど、なんとなくおかしくて、だから、よっぽど嬉しかったんだなと思った。力を込めて脱力したような、莫大で高密度な嬉しいエネルギーをスキップで表現しているんだなと、こっちも笑顔になってしまう。


それだけでも、めっちゃ良い映画だった😊

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