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ちょうど半分

あれは17年前。
私は17歳。高校二年生を終え次の春は高校三年生になろうとしていました。
当時組んでいた高校生バンドの解散ライブを控えていて、まだまだ肌寒い3月19日でした。
心の病と10年戦い続けた母と私たち家族は
その病と薬に敗北したのでした。
敗北だったのか、それとも救済だったのか
それはまだ私にもわかりません。
当事者の母にも聞けませんが、母は今回も今際の淵で助かる。なんだかんだで生きてしまう。自分が死ぬとは思ってなかっただろうなと
そんなことをぼんやりと思っています。

たくさん管の繋がった母は、残される我々家族や身内の身辺、心の整理のため
一週間の延命措置を与えられました。
そして、3月26日旅立っていきました。
生かすため管が外され、運ばれた時と同じ眠ったまま
その瞳は二度と開くことなく。

青空の澄んだとてもいい天気の日でした。

そこからは早送りのような日々でした。
嫌なこともたくさん聞きました。
まだまだ幼い私や弟には猛毒のような現実と心無い言葉たちや大人の振る舞い。
だけど、実に無力だと気付かされいかに自分が幼く子供で大人を馬鹿にし偉そうに構えていたかそんなことも学んだ幾日でした。

それから紆余曲折あって17年。
生きていた母と過ごした17年。
母が旅立ってからの17年。
そして、今日からは17年と1日。
母が居なくなってからの時間の方が1日長くなりました。
これからの毎日が1日、1日
あの人のいなくなった日を重ねていくのです。

そしてもう一つ。
自分が歳を重ねていくにつれて
私の人生において絶対に忘れてはいけない人がおります。
それは、母が再婚した方です。
私や弟にとっては二人目の父。
血も繋がらない私たちを守り、与えてくれました。
寡黙で冗談も言わない真面目な父が
わたしたちを守ってくれなければ、今頃どうなっていたかわかりません。
彼がいなければ今の未来は、そして私の心はなかったかもしれません。
だから、母の命日は
父への感謝の日でもあるのだと
私はそう思っています。

人生はまだこれから私にどんな試練を与えるかわかりません。
だけど、どんな試練も受け入れて、私は自分の音楽に変えていきたい。

痛みを知るものしか、心を痛めた人に寄り添うことはできないと思っています。
人の心に優しく触れられる人ってそういう人だと思っています。
だから、私も微力ながら誰かそんな人間になれたらいいな。って
そんなことを思いながら、私は今日も生きます。
みんなも、死なないで。
とにかく生きて。

そんな私が書いた曲

後ろ向きな母に宛てた曲
「フラットマザー」
9年前の映像...


そして、父に宛てた歌もありました。
これも8年前の作品です。

そして、人生は一度きり
どんな人もスポットライトは自分に当たっているんだよって気持ちで書いた曲がこちらです。

よし!今日も生きる!!

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