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創価学会の実態はカルトでテロ組織

はじめに

 ここまで筆者の創価学会関連の記事をお読み頂いた方であれば、創価学会の実態が、ただのカルトでなく、テロ組織である事に、お気づきだと思う。

 創価学会の正体についてストレートに書いた事はなかったので、今回は実態に焦点を当ててみようと思う。

第一章 戦前の創価教育学会は国の戦争推進に協力し、特高警察とも太いパイプを持つ典型的な体制派の宗教団体であった

 これに関しては週刊文春が以前配信した記事の引用をお読み頂ければすぐにわかる事です。

 今日、創価学会は「反戦・平和の団体」を標榜し、世間からもそう見られることが多い。そこで象徴的に語られるのは前身の創価教育学会が治安維持法違反・不敬罪により特高警察の弾圧を受け、初代会長の牧口が巣鴨拘置所で獄死した事実である。創価学会はそれらを軍部政府と対決した末のこととしている。

 しかし、歴史的事実は大きく異なる。当時の創価教育学会の実像を赤裸々に記録した戦前・戦時中の機関紙誌がある。35年7月から約1年間発行された『新教』と41年7月から1年弱続いた『価値創造』だが、創価大学はじめどの図書館にも所蔵はない。学会は都合のいいごく一部分のみ公にしあとは封印してしまっている。「歴史を歪める資料」とみなしているからだ。

■知られざる歴史をつぶさに調べ上げた

 筆者は現存が確認されている『新教』の大半と『価値創造』のすべてのそれぞれコピーを入手した上で30年代から50年代初頭にかけての知られざる歴史をつぶさに調べ上げ、先頃、『創価学会秘史』(講談社刊)という単行本にまとめた。詳しくはそれに譲るとして、当時の学会の実像は次のようなものだ。

 57歳を目前にして日蓮正宗と出会った小学校校長の牧口は30年11月に教育書『創価教育学体系』の第一巻を出す。資金面で支えたのが元部下で補習塾の経営者に転じていた29歳年下の戸田だった。この時が創価学会の創立とされているが、実際のところ、組織的な活動はその後しばらくは見られない。

 4年余り後、日蓮正宗と教育論の融合を唱える牧口の下に若者が集まり始め、創価教育学会は組織の相貌を現していく。活動の先頭に立っていたのはかつて左翼運動に身を投じ、「長野県小学校教員赤化事件」と呼ばれた一大弾圧で投獄後に転向していた元教員たちだった。その頃、国は転向政策に力を入れ始めていた。思想犯保護施設を整備し、知識水準が高い左翼活動家たちの思想善導を推し進め、戦時体制に組み込んでいくわけだ。そこで利害が一致したのが牧口ら創価教育学会だった。失意の底にある元赤化教員たちは新たな信者を獲得する折伏(しやくぶく)の対象としてうってつけだったのである。

 このため牧口らは特高警察やその元締めである内務省警保局、さらには共産党取り締まりに辣腕を揮い転向政策の仕掛け人でもあった大物思想検事の平田勲らと緊密に連絡を取り合っていた。折伏要員を長野県に派遣する際には東京の治安当局に地元での手配を依頼し、そのおかげで20代半ばの若者一人に対し特高課長や思想検事、教育当局者らが勢揃いで応対する歓待ぶりだった。

 牧口は天皇中心の国体観念を支持していたし、中国大陸への拡張政策にも反対はしていなかった。満州事変後に入植した初期の会員に対しては最大限のエールを送っていた。「わが国は大東亜戦争完遂、世界新秩序建設のために、1億国民血みどろになって、獅子奮迅の勇猛戦を行っている」などと、太平洋戦争が始まると幹部からは戦争翼賛的な発言が次々と飛び出した。『価値創造』はヒトラーの『我が闘争』の紹介に大きく紙面を割いてもいた。

■兵器産業に乗り出そうとすら企てた

 その頃、現世利益を強調する折伏に舵を切っていた創価教育学会には出版業を中心に中小企業経営者が多く集まるようになっていた。彼らは戦争文学で儲け、それを信心の功徳と感じ、営業成績を競い合っていた。戸田はその最たるもので、40年に創刊した小学生向け雑誌『小国民日本』では海軍特集を組み、少年航空兵の募集に一役買っていた。さらに戸田は会員が個人経営するレンズ工場を買い取り、兵器産業に乗り出そうとすら企てた。

 それでも創価教育学会が弾圧を受けたのは他の宗教・宗派を「邪宗」として認めない日蓮正宗の原理主義が行き過ぎたからだ。牧口は「取払え」と称して伊勢神宮の大麻(おおぬさ)などを撤去して焼却することを会員に行わせていた。天皇も含め国を挙げて日蓮正宗に帰依すべきとの牧口の考えは国家神道とは相容れず、それがため投獄されたのが実相だ。決して反戦・平和を唱えたからではない。

 創価教育学会に集った元赤化教員の何人かはその後、出征して戦地で命を落としている。牧口や戸田はそうした事実にまったく関心を払わなかった。戸田は終戦直後に中国で戦病死した元赤化教員の一人に関し「信心が足りないからあえなく死んだ」との趣旨の発言を戦後間もない頃の座談会で言い放っていた。

■表の正論と裏の謀略

 戦後、事業に失敗した戸田は軍隊式組織論を導入して折伏を大々的に行い、学会組織は急角度で拡大していった。宗門の反対を押し切り宗教法人化を目指す中、池田氏ら青年部メンバーは宗門の老僧を暴力的に吊し上げる事件を52年に起こした。創価学会の傍若無人な組織力を前に宗門はもはやなす術がなかった。

 じつのところ創価学会が大々的に「反戦・平和の団体」を標榜したのは池田氏の会長就任からちょうど10年が経った70年以降のことだ。折伏至上主義で「貧・病・争」に悩む社会の下層を取り込み組織を膨張させてきた学会はその年前半、批判を力ずくで押さえようと言論出版妨害事件を引き起こし、激しい社会的反発を招いていた。そこでとったのが学生やインテリ層も取り込もうとするソフト路線だった。すでに過去の人となっていた牧口の獄死を反戦・平和の象徴的出来事にすり替え、かわりに真実を封印したのである。

 学園紛争が吹き荒れていた前年、創価学会は日共系でも反日共系でもない第3の道として学生部を母体に新学生同盟を組織化していた。68年に入信し学会の東大総合委員長も務めた元公明党参院議員の福本潤一氏によると、「その頃は折伏戦ばかりで、全共闘から入ってくる人もいたけど定着しなかった」という。ただ、その後のプロパガンダは成功した。核兵器廃絶など平和運動が一定の実績を積んでいったのも確かだ。池田氏は72年に行われた歴史学者トインビーとの対話を皮切りに中国の周恩来など各国要人との会談を次々実現して海外進出を進めたが、その際、「反戦・平和の団体」との表看板は大いにものを言った。

 しかし、創価学会が真に過去から連綿と受け継いできたのは独善的で閉鎖的、そして不寛容な組織体質だ。そして、いつ何時も最優先されるのは組織の維持拡大である。

 前出の福本氏はそうした創価学会の二面性を「表の正論と裏の謀略」と表現する。平和運動を声高に叫び始めたかたわら、学生部の精鋭メンバーは70年代前半、敵対関係にあった共産党の委員長宅などの盗聴を繰り返し、偽装入信させたスパイをライバル教団に潜入させたりもした。90年に始まった日蓮正宗との宗門戦争でも盗聴や尾行は秘密部隊である創価班広宣部を中心に広く行われていたことが知られる。「情報収集のためのゴミ漁りや深夜の団地での匿名ビラのばらまきなど何でもやりましたよ」と、元広宣部員は当時を語る。ただ、大方の一般会員はそんな実態を知らされない。

創価学会「極秘資料」が暴く負の歴史
文春オンライン 2018年5月3日 07:00 より引用

 初代会長牧口の獄中死が反戦平和を訴えた為だというのが真っ赤な嘘だというのはこれを読めば解りますが、その「弾圧」された原因に関しても、実はこの記事の中で触れられていない、深刻なものがあったのです。

 この事実、よっぽど都合が悪いようで、ネットで調べても殆ど出てきませんが(創価学会からのクレームで削除されられたサイトもあるのでしょうが) 昭和18年6月29日、創価教育学会の中野支部長・陣野忠夫が、治安維持法並びに不敬罪の容疑で逮捕されています。

 この陣野が逮捕された事自体は、創価教育学会に対する国の弾圧開始の象徴的な出来事として多くの記述が残っているのですが、その逮捕のきっかけとなったのが、陣野が子供を亡くした近隣住民宅に上がり込み、お前の子供が死んだのは罰が当たったからだなどと折伏をはじめ、余りに非常識で異常な言動に激動した子供の親が、警察に「あいつらを何とかしろ!」と激怒して駆け込んだ事なんです。

 創価教育学会が、戦後と同様、極端な他宗教排撃を行っていて、その為に物議を醸していたのは事実で、それは記事に触れられている通りなのですが、強引な折伏も戦前から健在で、度を越した以上行動を取っていた為、社会問題化しつつあったようです。

 常識的に考えたらわかりますが、国の戦争推進に協力し、赤化教員を折伏して日蓮正宗信徒に転向させる事までしていて、特高警察との太いパイプを持つに至ったような体制に従順な宗教団体が、国から弾圧されるというのは尋常な事ではありません。

 そうした出来事が起きた以上、そうなるのに相応しいだけの何かがあった事になりますし、その何かというのが、実はこの「限度を越した強引な折伏」にあったのです。

 従って、創価教育学会の場合、仮に戦争がなかったとしても、この強引な折伏が、教団の拡大によって確実に社会問題化し、いつかは国の取り締まり対象になってであろうと考えられるわけで、創価教育学会が受けたものは、単なる弾圧というより、社会と国民に対して迷惑行為を繰り返す非常識なカルトに対する取り締まりという側面も強かったのです。

 創価学会に関する書籍でこの点を強調しないのは、創価学会に対して、甘すぎるのではないかと思います。

第二章 日蓮主義を信奉する旧日本軍の軍人らの入信で組織が変質した戦後の創価学会

 これがこの記事の題の核心部です。

 終戦後、創価学会には、日蓮主義を信奉する旧日本軍の軍人らが入信してきました。

 ここにいう日蓮主義というのは、暗殺テロ事件である血盟団事件や、クーデター未遂事件である二二六事件の元凶となった北一輝の思想など、目的を達成する為には、暗殺テロやクーデター決行、武装闘争を厭わない、テロ思想に該当する急進的なものです。

 事実、池田大作の側近中の側近であり、山口組系暴力団後藤組の後藤忠政組長に亀井静香氏ら反創価学会活動を行っていた四名の暗殺を依頼した人物としても知られ、最近亡くなった藤井富雄は、旧日本軍の将校です。

藤井 富雄(ふじい とみお、1924年〈大正13年〉8月17日 - 2021年〈令和3年〉7月11日)は、日本の政治家。

東京都議会議員(11期)、公明代表(初代)、公明党最高顧問、公明党東京都本部顧問などを歴任した。

経歴

・旧制日本大学高等工学校(現:日本大学理工学部)卒業。
・陸軍士官学校、第二次大戦終戦直後に創価学会に入会し、池田大作の側近として折伏大行進時代の学会を支えた。

藤井富雄 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より引用

 また、創価学会の初代顧問・塚本素山も旧日本軍の軍人です。
 ソースにはありませんが、敗戦時の階級は少佐との事。

塚本 素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1日 - 1982年(昭和57年)4月4日[1])は、日本の陸軍軍人、実業家。千葉県出身。陸軍士官学校卒業。本名は、塚本清。

経歴

1907年(明治40年)9月1日、千葉県に生まれる。

旧制千葉県立佐倉中学校を卒業する。1935年(昭和10年)、陸軍士官学校(少尉候補者第19期)を卒業する。

1945年(昭和20年)8月、陸軍大将の田中静壱の専属副官を務める中、宮城事件の鎮圧に同行、終戦となる。敗戦直後から辰巳栄一と親交をもった。そして1949年頃に米軍の情報関係者の仲介で児玉誉士夫と知り合った[2]。

1956年(昭和31年)、日鉄中央機械、日新興業、日新実業が合併した塚本総業を設立し、代表取締役に就任する。塚本不動産社長、八盛興業社長、日新興業会長、大和通運会長を務め、日本カーフェリー(現・マリンエキスプレス)取締役、ニューナラヤ(のち、千葉三越。2017年3月閉店)取締役などを兼任する。

1961年(昭和36年)、創価学会に顧問制度が創設され、日蓮正宗法華講連合会会長(当時、初代委員長)の平沢益吉、三菱銀行員の戸田喬久の2人と共に創価学会顧問(初代)に就任する。

埼玉県熊谷市の法潤寺の建立を発願し、1963年(昭和38年)に、法潤寺が建立された。また、同年に大和製鋼(現・大阪製鐵)の代表取締役に就任した。

1965年(昭和40年)から塚本素山ビル4Fの日本刀美術館(現・佐倉市の塚本美術館)館長を務める。

1969年(昭和44年)8月、藤原弘達の『創価学会を斬る』が出版されそうになると、小佐野賢治や田中角栄に、8000万円で出版を止めさせる交渉をさせた。これが世論で問題にされて以来、創価学会の活動は鈍くなった[3]。
「藤原弘達#創価学会・公明党に対する批判」も参照

埼玉県朝霞市の日成寺の建立を発願し、1978年(昭和53年)に、日成寺は建立された。

千葉県長生郡一宮町の法清寺の土地を寄進し、死後1984年(昭和59年)に、法清寺は建立された。

人物

・戦前からの日蓮正宗の法華講員である。
・戦後、政財界の顔役として活躍する。

役職歴

・塚本総業代表取締役
・創価学会初代顧問
・日本刀美術館館長

塚本素山 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 終戦後、創価学会は軍隊型に組織改編されて、準軍事組織となります。

 また、創価学会には、終戦後、こんな噂が流れたそうです。

 旧日本軍の軍人たちは、創価学会を足場に、クーデターを起こそうとしているのではないか。

 旧日本軍の軍人らの入信と、創価学会の準軍事組織化、会員達の好戦性から、国に目をつけられ、昭和31年12月、法務省刑事局は「その信条に基づく行動に暴力的な動向が顕著に窺われるからである」、「(折伏の)手段として多数の青年行動隊を軍隊の組織区分に準じて編成し、この折伏の実践に当たらせるものである」との理由に拠り、新興右翼団体に分類し、公安調査庁の調査団体に転落しました。

 なお公安警察内部に創価学会を監視する部署と係官がいるという話は有名ですが、評論家の伊達宗克氏によると、「昔から聞いていますよ」、「創価学会は昭和二十年代後半から折伏大行進ははじめ、相手の家に押しかけて仏壇を焼き払うような事件がよく起きたものです。これは届け出があれば捜査しなければならないし、それ以前の調査するのが公安当局ですから、当然、創価学会は調査対象にされますよ。学会に限らず、過去に過激な行動をとった宗教団体は、やはり現在も調査対象になっています」(極秘入手!! 池田大作氏と創価学会・公明党に関する公安 秘 調査報告書の戦慄 『週刊現代』1978年10月26日号)と語っているのですが、実際には日蓮主義を信奉する旧日本軍の軍人らが当局からマークされており、彼らが入信してきた事で、創価学会もマークされるようになったと考えた方が自然です。

 つまり創価学会は、終戦後、ほどなく国の監視下にあったと考えて差し支えないという事です。

第三章 1971年のクーデター計画立案事件

 こうした事実を踏まえた上で、この事件を読むと、全く違った文脈になりますよね。

 池田氏は「内部はどこまでも革命児でなければならない」という考えの持ち主である。国家を転覆させても、自分が天下を取りたいという野望を抱いており、「水滸伝」や「三国志」、ヒトラーの「第三帝国」を、公明党の議員や青年部の幹部に勉強させ、ありとあらゆる権謀術数を会得させようとしているという話もある。
 いざというときには、クーデターもやりかねない怖さがある。
 実際、1971(昭和46)年頃、青年部の最高幹部の間で過激なクーデター計画が話し合われていたという証言もある。学会の人材をひそかに送りこんで、自衛隊と放送局、電波を全部抑え、クーデターを決行すると言う内容だったらしい。

黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録 矢野絢也著 より引用

 別の記事でも書きましたが、3年前の68年参院選で25名が逮捕される新宿替え玉事件を起こし、言論出版妨害事件の表面化で創価学会の異常な体質が改めて浮き彫りとなって70年に池田大作が公式謝罪に追い込まれたという時期です。

 折伏大行進以降、定期的に事件を起こして逮捕者を出し、非難を浴びる事を繰り返していた為、世間の創価学会に対する警戒感は極めて高くなっており、今後、創価学会がどうなっていくのか、不透明感が非常に高まっていました。

 創価学会の青年部の最高幹部らは、このまま学会が消えてなくなってしまうなら、起死回生の一手として、クーデターを起こす事で権力を掌握し、創価学会の国教化を図る事で団体の継続を図ろうと考えたのです。

 なお創価学会には新宿区信濃町に銃や日本刀、ドスを収納した武器庫を隠し持っていた事があるという内部証言もあったそうです(ソース:わが池田大作バッシング 野田峯雄著)。

 つまり、遊びなどでなく、本気だった、という事です。

第四章 繰り返される暗殺

 東村山市議で朝木明代さんが転落死した事件は、創価学会による暗殺だったと疑われており、現在も、この説を支持する人が大勢います。

 第二章の藤井のところでも触れましたが、亀井氏ら反創価学会活動をしている四名を「ためにならない」といって暗殺依頼した事実もありますから、余計と、ですよね。

 また、室蘭市の日蓮正宗深妙寺の住職・大橋信明氏、札幌市聞仏寺所属の法華講幹部富岡孝一氏、對島妙子氏らの交通死亡事故も、創価学会による暗殺が疑われています。

 元学会幹部で実態を暴露する書籍を出版している小多仁伯氏も、車のタイヤに細工されたそうです。

 数センチの長さのネジを差し込み、空気穴にも細工を施し、JAFの整備工に「過去のいろいろな修理や事故を処理してきたが、これほど悪質で程度の悪いのは初めてです」と言わしめる程のものだった、と。

 同氏は「私が高速道路を走行する際、スピンして事故を起こさせる狙いではないかと想像できたのです」と著書で語っています。

 また、創価学会の嫌がらせについての調査報告で、次のようなものも存在しているのです。

事例2
創価学会脱会者 (信心歴 20年以上)
創価学会は、創価学会の脱会者に対し、組織的に嫌がらせや殺人に近い行動を取っている。
創価学会の脱会者や批判者には「仏罰」があたる場合があり、「仏罰」は創価学会自らが作り出している。

Q 交通事故に遭われたそうですね
A ええ。車で側道を通って国道に出たとたんに、突っ込んできた大型の車に衝突されました。そのため、ずいぶん長い期間入院しました。

Q その加害者が創価学会信者だった?
A ええ。何度か面会しているうち、そのようなことを聞きました。

Q それは、本人から聞いたのですか?
A はじめは、ええと、本人ではありませんた。しかし、あとで本人に確認したら、そうだと言っていました。

Q その事故の加害者は、この近くの町の住人ですか?
A ええ、そうです。

Q あなたが創価学会を脱会したのと、その事故の因果関係をどう思いますか。
A 私は、明らかに創価学会が加害者だと思います。そのような嫌がらせを受けた人の話を過去に何度か聞いるし。

Q それは、どのような話ですか?
A 車で引かれそうになったとか、死んだ動物を庭に投げ込まれたとか、糞便を入り口のドアにまかれたか、あげたらきりがありません。ただ、創価学会員がやったという証拠が無いのです。組織的に行動するため簡単に証拠がつかめないのです。また、選挙の時のF取り(票取り)や折伏(信者の勧誘)の時に、友人知人の名前をすべて(創価)学会に教えているため、こちらのほとんどの人間関係を把握しています。従って、友人にも簡単に協力してもらえません。先方の身元がばれてしまう危険があるためです。証拠は無くとも、状況的に明らかに創価学会の仕業だと確信しています。

Q 証拠が無いのに創価学会の仕業だというのは?
A 状況から明らかです。今までこんなおかしなことは、かつて一度もありませんでした。それが、創価学会を批判して脱会したとたん、身辺にいろいろな事故や嫌がらせめいたことが起き始めました。私と同じように辞めた元信者の中には、「学会幹部が言うように誹謗(批判)したり、退転(脱会)した者には仏罰が当たる」と、本気で信じている人もいるくらいです。結局、創価学会もオウム真理教と同じです。オウム真理教がハルマゲドンを自ら起こそうとしたように、創価学会は仏罰を自ら作り出しているのです。

 上記は以前も紹介した、恐らく日蓮正宗が調査して、機関紙に掲載していたの出来ないかと考えられる「創価学会の非合法活動に関する調査」の一部です。

 実際、ここで名が挙がったような名のある方でなくとも、創価学会からの嫌がらせを受けるようになった途端、煽り運転の被害を受ける回数が極端に増えたとか、危険運転をする車と遭遇して、危うく事故を起こしかけた、といった被害証言をされる方がいらっしゃいます。

 つまり交通事故に見せかけた暗殺未遂、暗殺が成就して交通死亡事故となったケースが、山のように存在していると考えられるという事です。

第五章 マインドコントロール

 創価学会が学会員らをマインドコントロールしている事は有名な話ですし、被害者救済法に公明党と創価学会がマインドコントロールの文言を盛り込む事に強硬に反対した事実からも、その事はわかると思います。

 実はこれに関しても、戦後、創価学会に入信してきた旧日本軍の軍人の中に、軍で洗脳を担当していた人物がいたとされていて、どうやら旧日本軍が使用していた洗脳の技術が、学会員に対するマインドコントロールに応用されて使用されていたのではないかとも言われているのです。

 なお、この話はあまり一般的な話でありませんので、著作等を調べても、出てこない可能性がある事を断らせて頂きます。

 現在は流石に行われていないようですが、昔の創価学会は、入信すると、学会員達が大勢で取り囲み、その人の人格を徹底的に否定するような発言を一斉に浴びせ続ける行為を行っていたそうです。

 全ての地域で行われていたかは不明ですが。

 この方法は中国共産党の「思想改造」における洗脳手法と非常によく似ていて、偶然にしては話が出来過ぎている為、恐らく、同じような手法が用いられていたのであろうと考えられています。

 学会員は、宗教が絡む形で、これまでに多くの傷害事件を起こしていますが、それらはマインドコントロールされているが故です。

 有名なのは男子部員約300名が福岡県開信寺に殴り込み、身障者を含む信徒と僧侶らを集団リンチした事件ですが、それ以外にも度々、集団だったり、単独によるものだったりの違いはありますが、暴力沙汰を起こしていて、中には勧誘を巡り、怒ったから殴る蹴るの暴行を相手に加えただとかの小さな事件も無数に起こしてきたようです。

 これらは、学会を批判されたり、宗教の教義に関する話になると、好戦的になったり、怒りから相手を攻撃してしまうような心理状態に、マインドコントロールによって操作されている事が原因です。

 また、学会からの指示に忠実に従い、執拗な嫌がらせを働いたり、非常識な言動や異常な言動を取ったり、問題を起こすのも、マインドコントロールが原因です。

第五章 全てを繋ぐ鍵

 目的の為なら、暗殺もテロも辞さない、クーデターや武装闘争も厭わない、そんな思想を持った日蓮主義者の旧日本軍の将校らが入信して来て、軍隊型に組織改編し、創価学会を準軍事組織に作り替えてしまった。

 この事実を知った上で、クーデター計画を練った事実、武器庫を隠し持っていた事実、暗殺が多発していたと考えられる事実、マインドコントロールが原因で、学会員達が暴力事件を無数に起こしてきた事実を読み返すと、全く違った面が見えてくると思います。

 それがこの団体の実態(正体)の答えです。

 日蓮主義者の旧日本軍の将校らは、噂通り、本気で、クーデターや武装闘争を起こそうとしていました。

 だから戦う為の武器を貯蔵しておく必要があり、決起時には学会員達を兵士として戦わせる為に、マインドコントロールする必要があり、頭数が必要だから折伏によって学会員の人数を増やす必要があり、その為にはお金が必要だったから、一円でも多く、学会に金を集めようとしたのです。

 また、その為には、目的の為には手段を選ばないから、暗殺によって邪魔者(仏敵)を排除する事も平然とやってのけた。

 彼らが目指していたのは、恐らく、日蓮主義国家の建設と統治です。

 公明党が結党当初、国立戒壇を作る事を目標としていたのは有名ですが、これが彼らの本心であり、本性だったという事です。

 また、これが目的ですので、旧日本軍の将校出身の日蓮主義者達が、目にかけた学会員に、テロやクーデター、武装闘争に必要となる知識を伝授したり、いざという時に動かせる私兵的な組織を、独自に作っていた可能性は十分考えられます。

 そして彼らが知識を伝授して育てた学会員の中から、彼らと同じように、目的の為なら手段を選ばない、暗殺もクーデターも武装闘争も辞さずの、過激派の日蓮主義者に育った学会員達も、大勢生まれた事でしょう。

 1971年のクーデター計画立案事件は、こうした土壌を背景として発生した問題であったと考えると、一番しっくりきます。

 創価学会による暗殺事件が相次いだのも、日蓮主義者に育てられた若い学会員達が歳を重ねて幹部になり、彼らが若者を育てる時に、同じ思想を吹き込むという再生産が繰り返された結果、暗殺を肯定する思想が組織文化として定着し、長期間に渡って継承された為であると考えられます。

 戦後の創価学会の実態は、日蓮主義を実践し、理想をかなえる為であれば、暗殺もクーデターも武装闘争も辞さずの、過激派の急進的な日蓮主義者達による日蓮主義運動を継承した団体だった、という事になるのでしょう。

 現代の基準で考えれば、完全にカルトですし、また、テロ組織に他なりません。

 なお、二代目の会長の戸田城聖、三代目の会長の池田大作を見て、この話にピンとこない方もいらっしゃると思いますので、以下は補足です。

 戸田は、教団を利用して金儲けできればいいと考えていたようです。

 池田は、金儲けに加えて、自分が日本の国王になりたいという誇大妄想的な願望を抱いていたそうです。

 要するに、戸田と池田は、日蓮主義者達を利用して、自分の欲望をかなえようとしていただけなのでしょう。

 逆に日蓮主義者の旧日本軍の軍人達は、自分達が前面に出なくて済む為、戸田と池田を担いで利用してやろうと考えていたのでしょう。

 両者の思惑が一致して、組織内で異なる思想を持った者同士が共存する状況が生まれた。

 そんなところだったのだと思います。

 現在の創価学会は日蓮主義の影響がかなり弱まっていると考えられます。

 しかし、相変わらず、嫌がらせを働いて敵対者を自殺に追い込もうとしたり、精神障害者にでっち上げて社会的に抹殺しようとしたり、中傷を拡散して破滅させる等の、事実上の暗殺を肯定する組織文化は根強く継承されていますし、学会員に対するマインドコントロールのシステムも健在で、カルトとしての側面は、綺麗に残っています。

 つまり昔の創価学会から日蓮主義の要素だけ取り除いた状態です。

 また、公明党が長期間に渡って政権党の地位にあった事、国交大臣のポストを握り続けた事で、非常に強固な利権を持つ利権集団に変貌を遂げており、総体革命の実質的な成就によって、地方自治体の多くに強い影響力を及ぼす存在となり、中央省庁=官界や財界にまで、影響力を行使可能なモンスター教団化しています。

 そんな団体がカルトであるという、最悪の状態にあるのが現実です。

終わりに

 この記事は以上で終わりますが、何故、創価学会が、平気で仏敵を暗殺するのか、異常な言動を取るのか、クーデターを企てようとするような事を過去にしでかしたのか、その謎は全て解けたと思います。

 私はこのような危険な団体だと承知していますので、学会員達は、一刻も早く脱会すべきだと考えていて、二世や三世、四世の人で、マインドコントロールが解けるか、解けかけている人達に対しては、脱会を勧めるようにしています。

 上記の記事でも触れましたように、創価学会は、解体、消滅に向かうとしても、カルトの宿命として、綺麗にすんなりと消えてくれるという可能性は考えられなくて、最後にクーデターやテロを起こす危険性もあるので、尚更、そうなるよりも前の段階で脱会した方が良いと考えています。

 学会員でない方に関しては、できるだけ、創価学会とは関わり合いにならない事、可能な限り、距離を置かれる事をお勧めします。

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