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雪山を滑る意味

有名な登山家がエベレストに登った理由を「そこにエベレストがあるから」と答えたらしい。
そんな素敵で意味深で突き刺さる一撃は、35歳一般女性のわたしには繰り出せない。

酸いも甘いも知ったオトナたちの明るい解放。
これがわたしにとってのスノーボードをする意味、つまり醍醐味です。

スノーボードを始めて何年かは仕事終わりのナイターが本番。
カチカチのゲレンデをかっとばし、ナイターコースのボトムにちょこっと設置されたキンキンのパークを流す毎日が続いた。
この先に「速い」以外の気持ちよさがあるなんて想像もしていなかったし、深い新雪は滑りにくくてジャマだなぁとさえ思っていたのが今では信じられない。

キッカーで飛びすぎたのと、デコ落ちしたのと、軽トラから飛び降りたので3回。
わたしの左ひざ前十字靱帯は「切れたら縫う」を繰り返した。
4回目なんか気づきもしなかったので、消滅したまま3年くらい滑っていたんじゃないかと医者が呆れていた。
ありえない。スノーボード向いてなさ過ぎる。

それを見ていた母親はギャンブルをするかのように、医療保険の入院日額を大幅に増やした。
何をしたって切れると判断した娘は、もうそのまま放っておくことにしたんだ。
ごめんね、お母さん。

人間というのは得意なことを続けてやりたくなる習性があるらしいが、スノーボードはわたしにとって出来ないからやるものだった。

そんなある時、だれにも触れられていない真っ白にふくらんだ地形をなぞって、流れ落ちるようなラインを描く滑り手の、無邪気で洗練された無我なあそびに触れて、わたしの心はカミナリに打たれた。
こういうやり方もあったんだ…

「無我」は仏教の3つの教えのうちの1つで、「諸法(すべての存在)は無我である」と説かれてきた。
苦しみから解放される方法や生き方がわからない人々の道しるべとしての役割が宗教だと私は理解している。※ちなみに私は無宗教者です

「無我」や「解放」と聞くと、我を忘れて没頭するとか無心の状態を想像するけど、実はそうではない。詳しくはインターネットでさくっと調べてみてほしい。

とにかく、ニンゲンにとって「無我」は救いになるとブッダさんは仰られている。
ブッダさん、宗教には入りたくないけれど、わたしもその考えに賛成です!(何様だよ)


見るからにきもちよく、左右にふり、タテに落とし、飛んだり回ったり、思うままに手付かずの山肌を滑走する通称ウマイ人たちの磨き上げられた芸術的なライン。
まだスノーボードを覚えたばかりの、楽しそうに転んだり起きたりしている大学生グループが全身でスノーボードを感じている姿。
両手をつないだ木の葉滑りのカップル。
まだ曲がることを知らな子ども暴走族。

達すれば達人の気持ちよさがあるだろうことは想像できるし、そうでなくてもまた愉しい。

安曇野の里山で百姓のじいちゃんばあちゃんに育てられた私は、山であそぶことが日常だった。
あの頃からはだいぶ標高が上がったけど、いつもの裏山の延長線に雪山あそびがあったというだけで、スノーボードが好きかなんて考えたことも無かった。
地元の飲み仲間や歴代の彼氏がスノーボードをやっていたから、一人だけ辞めるという選択肢も空気的に無い。

わたしは正直、スノーボードをあまり深く考えずに流され転がされ続けてきた。
自分の力でどうにかしようと思ったことなんてほとんど無かったんじゃないかと思う。
「好きだね〜」と言われても、何か他人事のような気がしていた。

それでもやっと30歳を超えたあたりで「あれ…わたしスノーボードのこと大好きじゃん…」と納得するタイミングが訪れた。(その話はまた)

そんなわたしにも雪山を滑る条件がある。
自然の美しさに似合うラインを描くこと。
動物たちが駆けるラインのように。
これは永遠なる課題でもある。

こんなにも美しい大自然に自分が下手くそなせいで、ぐっちゃぐちゃのがちっゃがちゃのラインを刻んでしまうことが、申し訳ない気持ちになってしまう。
ぐっちゃぐちゃのがっちゃがちゃも現代を生きる自然な人間の姿なんだろうけど。

完全なる自己満足だし、初心者ではないけど腕前はひよっこなので、条件としては厳しすぎて出来ないことも多いけれど、それくらいを当たり前の感覚にしておくのがいいと思っている。

なぜかというと、遊びも長く続けているとアレ?これ修行かな?みたいなシーンに出くわすようになるからだ。
心のゆるみが許されない状況、手放せなかった邪念を無理やり祓って素直にならなければいけない場面、それだけを考えて苦しくも前に進むことを選ぶ岐路、ただまっすぐに滑り続けることでしか達せられない、知り得なかった景色がつぎつぎと目の前に現れる。

「ここ、死ねるな」と、足が震えることも雪山では少なくない。
というか、死ねる状況を考え得るだけひっぱり出す癖があるので困っている。
どんなに狭いツリーホールでも、わたしは自分を殺すことが出来る。
「この人怖いって感情存在するのかな」みたいな人もいるけど、わたしは残念ながらそっち側ではない。

ニンゲンなんてちっぽけで、何かに守られていないとすぐに死んでしまう。
自ら設定した条件をクリア出来る自信がないのなら、黄色信号。
狙って行ったって雪がそういうコンディションではない場合もあるし、そもそもそこに立つ実力も意味もない時もある。
怖がりが過ぎることも自分でわかっているので、いつもちゃんと見ていてくれる仲間が「イケる」と言ってくれて挑戦することもある。
弱いわたしは、人生35年間での持てるすべての力を持ってぶつからなければ。

これがまだ始まったばかりだと思うと、スノーボードのたのしさを残り50年くらいの人生でどれだけ知ることができるんだろう。


さて、急ですが現実に戻ります。

要するに、あそびはあそびです。
息を吸っているだけでも税金を持っていかれる令和5年です。
お金を稼いで時間をつくる…………
これは滑り続ける上でぜったいの掟。
言い方を変えれば、お金に関係ないからこそ、無我の心で、明るく心を震わせられるんじゃないでしょうか。

それを目の前にしたら動けなくなってしまうような、ありのままの美しいものを眺めていたい。
それは地球上のすべての生き物が追い求めているのと同時に、手に持っているものでもあると思っている。
美しいライン、美しい山々、美しい雪、美しいニンゲンの行動。

心と身体をうまく連動させて、その対象にぶつかっていく精神的な愉しさがとにかくイイ。
そのぶつかり方に経験と個性が出る。
とくにウマイ人はひとつひとつの所作が雪山に馴染むので、いつ見ても美しい。

美しさを追い求める人間が雪山遊びを知ったら、きっと惹きつけられずにはいられないと思う。

こんなあそびほかに出てくるかなぁ。
あっても知りたくないな。
忙しくなっちゃうから。

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