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農民にひかれた生産技術が文化を作る

私は大野見に来てから米を作っている。
およそ半年、手塩に掛けて主食を自給するのは、野菜を育てたり、
野生動物を狩るのとはまた違う気持ちよさと安心感がある。

と、同時に米作りが他とは違い、いかに協働的な活動で、
地域のつながりを要するか思い知らされた。

それが心地よいか悪いか。

ともあれ、昔からこの村で脈々と営まれてきた稲作が
この土地の雰囲気や村民性を構成する濃い要素なのではないかと実感した。

大野見の文化を作ってきた稲作の記録が、
昭和43年から続く大野見の広報誌にも編まれている。


馬も女性も総出の田植え風景


初夏の風かおる奈路駄場!
四万十の清いせせらぎに交わって「コイコイコイコイ」と夏を告げる「かじか(カジカガエル)」のさえた声が、夜明けをおしむかのように静かにれる。
折から 
「へイショをそうてサイマワリ」
「オーイ」 
「あと馬しずかにーサイの手元に……くわまをたのむ」 
「オーイ」
と、おもおじの声に、あと馬がこたえる。

「あと馬いさめて、ヘイショ、へイショ」
 「オーイ!!ソレッソレッいけ」

と、馬を追いこむ威勢のいい声もするどい。

夜は白みかけているが 深い朝もやでしかとはわからない。だが、昨夜から飼いこまれた若駒(若い馬)の「いななき」が谷あいにこだまし、馬も人も張り切ってかのようにおもえる。

大野見にて。昭和初期の代搔き作業風景。

 漸く、元気いっぱいの代かき(しろかき:田起こしが完了した田んぼに水を張って、土をさらに細かく砕き、丁寧にかき混ぜて、土の表面を平らにする作業)男達が目に入る。

腰きり上衣に股引きというザットした姿ではあるが、なじ鉢巻をしめこんだ元気のいい壮年達、五頭の馬をならべて今日の植田をかいている。頃しも着かざった早乙女(田植えを手伝う女性のこと)が、三々五々集ってくる。

早乙女。大野見での昭和初期の風景。

 今日の日にと、前もって縫いあげておいた母の手ばたになる縞地の半袖衣に、キリリとしめた五寸巾帯すそをはしおり「ピンク」のすそよけをちらつかし、手甲、キャハンにすげ笠姿のあでやかな娘の声もはしゃいでいる。 

田植えは音楽が生まれる営み

 今日は、百石田の田植えの日だ。祝酒をチョット一ぱい!!くわじろもすみ植えつけを待つばかりのオサバイ田(オサバイ様:最初に植える田んぼに豊作を祈願して鎌や斧、神酒をお供えする風習)の畔端にたった今日の田主(たるあじ)竹太郎さん、五色の短冊をむすびつけた小ざさを首の筋にチョイとさし、小だいこを片手に、

「あさごまを、サバイの門へまいらしょうや」
「ボタ餅がおじゃよーきなこつけたけたらなおよかろう」 と、座つけ歌(祝歌)をうたいだせば、

「あさこえは(トントコトントコ) なあらせ、なあらせよーーー」
「キジヤこそきけや ケンチホロホロやーー」

トントコトントコにぎやかに切り歌がだされ、早乙女の手つきもあざやかに植えられていく。次第に田植えもはしゃいでくる。

頃あいもよろしく、「ヤマ歌」がでる。 ヤマ歌の出しは、太鼓うちと早乙女が掛け合いで、どちらからか始められる。

♪「大野見のーコブが瀬にこそ、八重玉草が浮きよる。玉草八重に結びて流すぞ下の瀬でとれ、瀬でとりて あけてみたれば 石より堅い約束 約束はかたうしたれど、うどんなやつでちがえた。」♪

  早ビル(午前のおやつ) ヨーヂヤ (午後のおやつ)ともなれば、出されるドブ酒にほのかな「よい」のまわった赤ら顔のしろかきの声もはずむ。

「ヘイショヘイショ」
「それッいけそれッいけ」

と酒の気もまじって馬を走らすが、たずなさばきも鮮やかな代かきはすすみ、馬のいななきと歌が山あいにこだまする。

 夕日が西にかたむいた頃、山をおりた山師たちが手伝いにくる。早乙女を「カラカイ」一段とにぎやかになる。早乙女は、山師の男達に「ドロンコ」をぬり、酒をもてなす。

からかう声にまじって、田植え歌も一段とはりきり、夕暗せまる頃、最高調…… 「麦田(もぎた)」 もすんで、「ヤレヤレ」と腰をのばす頃、当家は、ドブロクをふるまい、「ヨウメシ」を出して一日の労苦をねぎらい、めでたく終る。

古老の語る百石田の田植え風景であるが、有名をはせたにぎやかな田植えである。これとともに三ツ又の太鼓田も又話題に残る百石田におとらぬにぎやかさであったと伝えられる。

また「寄進田」(神田)の田植えはまた格別で、縦に一人ずつ廻りまわって植えたもので、神田終了後は当人を定めて「ドブロク」を世話させ、肴(つまみのこと)をもちよってにぎやかに飲み、豊年の吉兆をと祝いあったものである。

「ソリャヤッタチ、ヤッタチ、マンバチサケルバーヤッタ」と、語り伝えられている。

 また、早ビルとオヤツには、天明このかた続いたと伝える「カイモチ」によって、「田植がゆ」が、 朱塗りのふたつきの「タゴ」に入れられて田に運ばれたという。

 家によれば、米とむぎ半々のかゆであったらしい。「カイモチ」の姿をみると「カイモチがきたよ―― 白いカタビラビラビラだして・・・ ……」とうたいだされたという。

明治時代の田植えを回顧する

 これは、古老の話による、明治の中頃までの田植え風景である。
  今のように、レジャーのない田園地帯のしつけどきの重労働を、「いい仕事」(共同作業)で能率化をはかり、にぎやかな田植えで小さな楽しみをみつけだし、労働をやわらげようとした生活の知恵でもあった。

 こうした田植え風景も明治二十三年、全郷を荒廃地と化した大洪水の復興作業、それからくる貧しさとの斗いから次第に影をひそめてしまった。

昭和の田んぼ除草風景(広報大野見の表紙)

 現代社会から最も取り残されたといわれる農業構造ではあるが、近代化はすすみ、五月の田園には馬にとってかわったトラクターのうなりが、山々にこだまし、早乙女のピンクのいきな姿はみられない昨今、古人の農業労働が如何に重労働であり、それをおぎなう生活の知恵が、のんびりくりひろげられたかをしのぶことも又ほほえましい一こまであろう。

【出典】
1970年6月 第51号 広報 大野見
(発行 大野見教育委員会/編集 大野見村広報委員会)



【考察】たかが米、されど米


記録に残るように、トラクターが登場する前、家々がお互いに助け合いながら米は作られてきた。金銭を払うのではなく、労力を交換するこの文化を大野見では「イイ」(または「結い」)という。
特に田植えにおいては、一日手伝ってもらうと、一日手伝いにいく、これをテマモドシ、テマガエシという。

「イイ」と米作りの不可分な関係。つまり、米作りとは、家族という生物として持続可能な最小単位ですら足りない、人手を要する仕事であった。

トラクターが登場したとはいえ、田植え時期には都会に出ている子ども世代が帰省して家族総出で行うのは、米処であればよく見られる風景だし、家族ぐるみで田植えを手伝うのも珍しくない。
田植えの1〜2ヶ月ほど前に、米作りに不可欠な水を引くために行う溝掃除(溝田役)から始まるが、これも昔から地域総出で行われてきた。

家庭菜園から手軽に、ひとりで始められる野菜づくりとは異なり、より社会的な営みである米作りは、そこでの地域性や土着文化そのものを形作ってきたのだろう。
それは例えば、非常に農耕民族的な、平穏を好む堅実で奉仕的な大野見の人の気質にもよく表れている。

また、田植えや稲刈りは、家々が集まり、技術や知恵を伝承する場でもあったと想像するが、農民に伝承すべきひかれた生産技術がある、というのは、生活の術やインフラを経済システムや国に頼りきらない強さの証拠でもある。

暮らしに必要なものは買えばそろうし、隣の部屋の住民を知らなくても困らない、一人でも生きやすい便利な社会は、同時に、個人の衣食住がより消費に支えられていることを意味する。
ご近所付き合いや「イイ」の"わずらわしさ"がはらんでいた価値に、改めて出会い直してみると、ただ重労働だったと昔の人に同情だけしているのがナンセンスに思えてくるのである。

「たかが米、されど米」だ。

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