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物理は苦手だけれど、物理のオンナ先生がステキすぎる。

米沢 富美子 著「女性物理学者として生きる」

この本は、娘が理系に行きたいというのを聞いて買ったように思う。

ところがこれが読んでみるとすこぶる面白く、さらに児童書なので読みやすく、何度も読んだ。何年か経ってから、ベトナムへも持ってきた。米沢先生は、物理学の研究者であり、日本で初めて物理学会の会長職もつとめた素晴らしい女性である。

面白いところを書きたいと以前から思っていたが、あれも書きたい、これも書きたいと思いなかなか書けなかった。

面白い個所がたくさんあり過ぎる。そして文体も素晴らしい。女性にしては珍しく、とても平易で読みやすい。芯が強く、喜怒哀楽もはっきりしている。

まずは、幼少期の頃のこと。お母さんのことを書いてある。

彼女の母親は部類の数学好きで、お風呂も入らないで数学や幾何の問題に明け暮れた。

父親が堪り兼ねて、急きょ自宅にお風呂をこしらえたと書いてある。

年頃の娘がお風呂にも入らないで幾何の問題に夢中になるのも、ちょっと理解しがたい。母親は成績も良く、先生が進学をさせたいと両親に話をしに来たが、それは叶わなかった。

そのうち結婚して子供が生まれたが、それが彼女であった。母親は、自分以上に数学や幾何にのめり込む我が子に、かつての自分を見いだし喜んだ。跡継ぎが出来たと思うのである。

それを受けて彼女もスクスクと成長し、母親以上の数学好きに育った。

彼女の言葉を借りると、幾何の問題を解くときに、補助線を1本引くことで、その問題が一気に明瞭になり解決に向かう。その面白さがたまらないのだと言う。

もちろん理系の僕は理解し同意するのだが、その度合いについては、やはり温度差があるように思う。そんな彼女は小学校の頃のIQテストで大阪中で1番になり、早速注目されるようになった。

その後、茨城高校を経て京都大学に進学することになる。

その頃の茨城高校から京都大学へ進学する女の子は少なかったが、彼女の同級生もまた素晴らしい秀才達で、この年には一度に3人が入学した。英語の得意な友人は「嵐が丘」を原書で読んでいたり、古典の好きな友人は試験の引用文があると「これは源氏物語・帚木の巻の第一章第三段」等と、こともなげに言い当てた。彼女も世の中には偉い人がいるものだと関心していた。

彼女は京都大学に進み物理学を専攻する。その頃はノーベル賞を受賞した湯川秀樹さんがおられて、彼女は強引に逢いに行く。この辺りは、彼女の性格から来ているのだろうと思う。 

 1年のときも2年のときも偏微分方程式などの演習問題集を夏休み中に2冊ずつ上げた。まだエアコンもない時代で暑い部屋で汗びっしょりになりながら、朝から晩までただひたすら数学に取り組んだ。友達に映画やコンサートに誘われても行かなかった。「その方がはるかに楽しい」からである。

 全くもって理解しがたい。彼女の数学好きが大学院の入試で役に立った。物理の試験は相応に難しかったが、差が出るような問題ではなかった。ただ数学は3問中1問が飛び切り難しく、彼女は難なく解き、試験を一番でパスした。物理学科の進学に、数学で抜きんでたと言うのも申し訳ないと思った。

男性から求婚された。

その後進学し、大学院へ進むのだが、丁度「エスペラント部」で知りあった、男性から求婚された。これは後の旦那さんになる人である。彼女は将来研究者になるか、結婚かでとても悩んだ。彼女は「物性物理学」を専攻していた。これは物質の性質をミクロな原子や分子の振る舞いから説明する学問である。

 何週間も掛って考え、二者択一ならば「物理」を取るしかないと応えると、彼は「なぜ物理と僕の奥さんの両方を取ることを考えないの?」といとも簡単に言う。

ショートケーキとシュークリームか決めあぐねている人に、両方食べれば良いじゃないのと応える。昔のドラマによく出て来たストーリーである。

 彼の言葉で、彼女は眼からうろこが落ち、決心した。そうか欲しいなら、両方選べば良いのだと彼女の心は空高く鳥のように舞い上がった。「欲しければ両方選ぶ」そして「自分で環境づくりをする」と彼女の人生観を根底から変えたのがこの旦那さんである。

旦那さんのロンドン転勤。

 彼は証券会社に入社し、そのうち留学生として1年間ロンドンに派遣される。その頃は今のようにネットも無いし国際電話も電話局からしか掛けられない。今はすこぶる便利になったものである。スマホでビデオ通話が出来るし、費用も掛からない。

彼女はロンドン留学を決意する。

 図書室でイギリスにある大学の全てを調べ上げ、学長宛てに手紙を書いた。「貴大学の大学院で物理を勉強したいので、奨学金を頂けませんか」という何とも無茶な手紙である。若気の至りというべきだろうが、驚いたことに30の宛先のうちの2つからOKの返事を貰ったのだ。

 授業料免除、寮費と食費も免除、さらに幾ばくかの奨学金まで給付してくれるという。ロンドンから4時間位の処にあるキール大学で、量子化学の世界的権威であるロイ・マクウィー教授の処で勉強し、数編の論文も書かせて貰った。

子育てと研究生活。

 その後帰国して博士課程に復帰し3年生の時に学位取得が決まった。その年の1月に長女が生まれ、その3月に決まった。一番喜んでくれたのは旦那さんである。「人間40才までに人生が決まる。僕もがんばるから、君もこれからもがんばれ」と言ってくれた。

 旦那さんはそのころ東京本店に移り、彼女も朝永振一郎先生の居る東京教育大学へ移った。朝7時半に「ゼロ才の娘」と「娘の着替えやおむつの入った袋」と「論文などの入ったカバン」をもって通った。家に帰ったら帰ったで家族の面倒を見て、深夜論文を読む生活が続いた。朝は6時起きで、いつも睡眠不足である。

 で、そのうち京都大学に戻るのだが子供も増え、まるで論文が書けなくなった。そうすると例のご主人が言う「君は最近勉強をしなくなった。怠けているのではないか」と。

君は最近勉強をしなくなった。怠けているのではないか?

ここが今の時代と全く異なるのだが、ご主人は家事を手伝おうなどとは毛頭考えていない。彼女はここでも強い衝撃を受け、立ち直るのだ。

凄すぎる。旦那もよく言うが、それを乗り越える彼女も立派である。この年には彼女の出世作「不規則系の理論」をものにする。この理論は「コヒーレント・ポテンシャル近似」と名付けられて、その後世界的なブームとなり発展していく。

子供が3人となり彼女もますます大変になるが、時間を買うことで時間のやりくりをするようになる。「使い捨ておむつ」やベビーシッターが彼女を助けてくれたのだ。

彼女は後に書いているが、米国の雑誌によると、結婚・出産・子育てが研究活動の妨げになっているかというかというとそうではなく、子持ち女性の方が子供のいない女性よりも発表論文数も多く生産的であるという。彼女の姿は今の仕事をする女性達のロールモデルになるのではないだろうか。

つづく旦那さんのミューヨーク転勤。

そのうち旦那さんがニューヨーク転勤になる。で、彼女も旦那さんを追ってニューヨークで職探しを始める。ヤシバ大学で2年間、ニューヨーク市立大学で1年間の研究生活を送る。

なんの伝手もないところで仕事を勝ち取るところが素晴らしい。その頃には彼女の論文も世界中で知られていたことが就職につながったらしい。

アメリカでは車が無いと生活が出来ない。彼女は路上で車の練習を数回して試験に臨んだ。今の日本のように自動車学校も無い。「あんたは度胸がある」と運転の先生から言われ、あっさり合格した。やれば出来るの信念だけである。その後中古車を手に入れ、大学の通勤や子供の送り迎え、その頃子供は3人、買い物から郵便局までフル稼働である。

そのうち隣の州で米国の物理学会が開催されることを耳にした。せっかくアメリカに居るのに行けないのは誠に残念ということで、旦那さんに相談した。まだ市内を走るだけでハイウエーには乗ったことがなかったので「俺が連れて行ってやろう」の言葉を期待したのである。

旦那さんの言葉は「出来ないわけはないだろう」だった。

しかし旦那さんが口にした言葉は「出来ないわけはないだろう」だった。彼女は「出たー!」と心の中で叫んだ。数年に一度の旦那さんの名言がまた飛び出したのだ。思わず笑ってしまった。

「自分に限界を引かない」というのは彼女のモットーであったが、運転歴の短さとかハイウエーの治安とか、命に関わる事態を前にして躊躇していたのだが、この旦那さんの一言で単独ドライブを敢行し学会に参加した。

「出来ないわけはないだろう」は運転に限った話ではなく、夫は自分自身についても、彼女や娘達に対しても、現状に甘んずることを決して許さず、いつもひとつ上のことを厳しく求めてきた。

彼女の人生の困難な場面でいつもこの言葉が現れて、勇気を与えてくれたのである。

アモルフェス物質の研究と京都サマー・インスティチュートの開催

その後京都大学に復帰し助教授となった。次の研究は、アメリカで温めてきた「アモルフェス物質の研究」である。それまでの日本のアモルフェスの研究は、応用面の研究が多く、理学的な基礎研究が不足していると感じていたのである。

4年目には世界中から200人以上のアモルフェス研究者を集めて「京都サマー・インスティチュート」を開催した。「アモルフェス半導体の基礎物理学」をテーマとした国際会議である。彼女は組織委員長に選ばれたが、彼女得意の仕切り屋全開である。その会議は、資金集めから、運営、来場者のホテルの手配など多岐に渡るが、彼女は立派にこなし満場の拍手のもと会議は大成功であった。

その実績もあってか、その後慶応大学へ教授として招かれた。

慶応へ移ってからも野心的な研究を次々に開拓している。その一つは、従来は理論物理と実験物理の2本柱であったものに、コンピュータの進歩により加えた計算物理である。

その後「猿橋賞」を受賞。この賞は女性科学者を顕彰するために創設された賞である。その後、乳がんが発見され全摘手術を受けているが、術後3日後には職場に復帰している。5年生存率だとて彼女に掛かれば確率の話であり、全員がそうなる訳ではないと前向きに考える。

日本物理学会長への就任

その頃日本物理学会から電話があった。「今回の選挙であなたが選ばれました。受けて頂けますか?」という。会長選挙は、まず140名位の代議員が互選で3名を選出し、その後2万人全会員の直接選挙で選ばれる。そう言えば候補者に選ばれたという通知が来ていたなと思い出す。

前会長の伊達会長が電話の向こうで待っていて、思わず「ハイ」と答えた。120年近くの歴史のある学会で女性会長は初めてである。女性会員だとて3パーセント位しかいない。

その頃アメリカの国際会議に出席した日本の物理研究者が、アメリカの研究者から「日本物理学会では女性が会長に選ばれたんだって。すごいね」と言われた。当の米国だとて百年の歴史があるが、女性会長は一人しか出ていない。

「え?女性会長って誰のこと?」と聞き返した。米国人は驚いて「だって、米沢が会長になったんだろう」と言った。日本の研究者は「ああ。そう言えば米沢さんは女性だったね」と応じたのだ。米国人は驚いて「君は今まで、米沢を何だと思ってたんだ?」と尋ねると「科学者だと思っていたよ」と答えたという。

彼女はこの話を聞いてとても喜んだ。彼女自身、女性を意識することなく果敢に挑戦してきたのである。我々から見てもとても素晴らしく、誇らしい。物理学会の人達が研究者としての彼女の実力を認め、尊敬し、切磋琢磨してきたのだ。我々のパートナーを見る目はそうあるべきなのだろうと思う。

日本の女性は、素晴らしいと思う。

最近の女性を見ていると賢く、挑戦的で、そして意欲的である。我々男性だとて、負けるわけにはいかない。自分の人生に限界を設けることなく、意欲的にチャレンジしていきたいと思う。

読書感想で、こんなに中身を書いたことは無いが、まだまだ端折ったことばかりである。本当は面白い話がもっともっと出てくる。まあ僕としては十分満足出来るくらい書き尽くした。

自分の娘も含めて思うのであるが、今後たくさんの理系女子がたくさん出てこられることを、願ってやまない。ぜひロールプレイのテキストとして一読して頂きたい。

リケジョにカンパイ!!



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