20年連れ添った「吃音」という障害についての知見
「吃音」とは
「吃音」(きつおん)ときいてピンと来る人は少ないだろう。簡単に言えば言語障害の一種で、上記のように言葉がうまく出ないという障害のことである。(chi1yin1と読んでしまった人は中国語を勉強しすぎなのでちょっと休んだほうがいい)
僕が生きてきた20年は、「吃音」という障害とともに歩んできたと言っても過言ではない。常に生活の裏側には「吃音」がいて、外界との接触の際に表に出てきて自分の邪魔をしてくる。そんな存在だ。
幼少期
まだ物心もついていない頃、「センター」と呼ばれる場所へ連れられ、おばさんと言葉を話す練習をする。それが最初の記憶である。
今思えば、うまく言葉を話せなかった僕を見かねた母が言語聴覚士の元に駆け込み、少しでも<普通に話せるように>させたいという思いだったのだろう。
保育園に入る前の僕はただ母が連れて行ってくれる場所について行くと言う感覚だった。なので不思議には思わなかったが、特に成長のないまま小学校に入学すると、<普通とは違う自分>を嫌でも痛感させられた。
文の先頭から読点までのたった一行が読めないのだ。
最初の文字を読もうとすると、文字が伸びてしまったり、連続して発話される。自分では制御できない私の<呪い>に、純粋な小学生の好奇の目が向けられる。冷やかされ、笑われる毎日はたった10年弱しか生きていない自分にとっては耐え難いものだった。
家で「吃音」が出てしまうと、母がゆっくり、それでいて流暢に話せるように手拍子をしてくれる。発話が連続され、パニックになってしまった時は、背中をなでてくれる。
嬉しいと言う気持ちの反面、その優しさが自分が<普通ではない>という事実の裏付けになっている気がして、余計に辛かった。そんな秋だった。
「吃音」と戦う少年期
そんな経験があり、伝えたいことが山ほどあるのに伝えられないかった自分は工夫をする様になる。それは記号として同じ意味を持っているが、発音が違う言葉をとにかくたくさん学ぶということだ。
吃音もち以外には全く伝わらない感覚だと思うが、要は出にくい子音と出やすい子音があり、「あ、この言葉でない!」と思ったら、瞬時に同じ意味を持つ違う発音の言葉に言い換えるのである。
わかりにくい説明になってしまったので例を挙げると、頭の中で文頭に「私」という言葉が浮かぶとする。だが、実際に発音しようとすると最初の「わ」が出ない。そうした時に、「私」を「僕」に言い換え発話することで言いたい言葉の意味をそのまま相手に伝えることができる。今ではこの作業を1日に何百回何千回としている。
小学生、中学生の語彙は限られたものなので、その高等技術を習得するために辞書を毎日読んだ。辞書を「引く」ことは皆さんも経験があると思うが、僕の場合1ページ目の「あ」から「わ」まで順番に「読む」のである。
辞書にはその言葉の意味に近い別の言葉がたくさん載っているので、僕にとっては宝の山であり、外界と接触する一番簡単で、みんなが普通にできていることを習得するためには一番うってつけの方法であった。
こうして、愛読書「辞書」という奇妙な小年が出来上がったのである。
20歳現在の「吃音」に対する知見
吃音と言う障害は、大勢の前などプレッシャーがかかる場面で引き起こされると言われている。一概に言えば、自信がないのである。
その自信のなさを膨大な語彙で包み込むことで、やっと<普通>と同じ状態になれる。
このnoteを書いているのも、外国語を学んでいるのも、言葉に絶大な信頼を置き、生きる糧にしているからである。もちろん、吃音についてのnoteを書いているのは、僕を心配して欲しいからでも、哀れんで欲しいからでもない。単純に「吃音」と言う存在を理解し、実際に苦しんでいる人々の味方になってほしい。それだけである。
私と吃音はこの20年間共に歩んできた。辛い思いもたくさんしたが、僕と言う矮小な存在に<言葉>と言う希望をもたらしてくれた。言葉に傷つき、言葉に救われた20年間だったが、これからも死ぬまで「吃音」とともに生きて行きたい。
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