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やまねこうさぎの54年間

yamanekousagiの思い出 1969

この文章を読まれる方へ;
これは、書き手である私(みつとみ俊郎)の「自分史」でもありませんし、エッセイとかその類の文章でもありません。
プロ音楽家・ライターである私が、画家で詩人の新見恵子という女性と出会い、以来恵子の死までの54年間、二人が生活を共にしてきた時間の記憶であり、「こういう夫婦生活や生き方もあるのか」という一つのサンプルとしてお読みいただければ幸いです。タイトルの「ヤマネコウサギ」とは、彼女が私のことを「ヤマネコ」と呼び、私が彼女のことを「ウサギ」と呼んでいたことに由来しています。


出会い

東京渋谷に生まれ育ったヤマネコにとって、渋谷の街も青山もほとんど自分の庭のような存在だった。
だからだろう。
一番先に「合格通知」の来た青山学院大学への入学を早々と決めたのも、ある意味、自然な流れだったのかもしれない。

仏文科という選択は、ヤマネコにとって幸いだったのか、それともどうだったのかは、初めてのガイダンス(学科の説明のようなものだったような)の日に判明した。
初めての環境(大学)で、見知った人間が一人もいないクラスでどこに座るかはその人の自由だが、おそらくその人の個性が最も濃く出る部分かもしれない。

教室のほとんどは女性だった(まるで、女子大に紛れ込んでしまったのかと目を疑うほどだった)。
(教室中を覆い尽くす)香水やフレーグランスの圧倒的な香りに(私の脳と感覚は)完全に蹂躙されていた。
どこでもいいのなら…とほぼ一番前の机に座る。
女性たちの間にちらほら男子の姿も見える。
彼ら、男子らの大半は、教室の後ろの方に座っていた。
と言っても、数えてクラス全体で60人ほどの中、10人もいないのでは?
それぐらい男性の数の少ない教室だった。

ふと前を見る。
一列前に座っていた女性に話しかける。
「これから何が始まるんですか?」
こんな気の抜けた話をしたのかしなかったのか、今となってはほとんど思い出すこともできないが、その女性に心をひかれたのは確かだった。
華奢で、とても小さな女性だった。
その彼女と、まさかそれから54年も人生を共にするとは夢にも思わなかった。
そんなヤマネコとウサギの出会いだった。


フランス語

彼女がスイスからの帰国子女だったということは数ヶ月経ってから知った。
中学、高校という多感な時期に外国で過ごすということが、人の感覚や人生にとってどのような意味を持つのかは、当時の私には、はっきり言って想像もできなかった。
ただ、そんな彼女が、英語やフランス語に堪能だということは(私にとっては初めての)フランス語の授業を受けながら次第にわかってきた。

フランス語が、それまで使ってきた英語と違い(英検1級は高校2年の時に取得したし、ほぼ日常的に英語は使っていた)、必要以上に、口の筋肉を使う言語だということは、先生たちが一生懸命、口をへの字に曲げたり、唇を尖らせたりする仕草で分かったような気がした。
とはいえ、英語よりもフランス語の方が難しい、という世間の評価は必ずしも正しくないなとはその時思った。
「ケスクセ?」
なんだ〜、カタカナに近いジャン!
そんな安易な思いも湧いたが、そこからフランス語への苦闘が始まり、このフランス語を仕事で使うことになるとは夢にも思わなかった。

ある日、恵子に「スイスでどんな生活していたの?」と聞いてみた。
父親の仕事で、最初は父と娘の二人の生活だったそうだが、後に、他の家族とも合流する生活だと知った。
その父である人は、大学の教授の一人だった。
この当時、青山学院大学には、アドバーザーズグループ(通称、アドグル)というものが存在し、学生が学業とか学科の区分に関係なくどの先生とも交流できるグループだった。
自分の専攻学科の先生ではなく、よりパーソナルに付き合える「家族的なグループ」とでもいえば良いのだろうか。
私は、そのグループの指導教員に、恵子の父を選んだ。
そこが出発点だったのかははっきり覚えていないが、そうこうするうちに、私は、彼女の実家(小田急線狛江駅のすぐ近くだった)に頻繁に出入りするようになっていた。
恵子の家を訪問するというよりは、自分の指導教授の家を訪問する、ということが口実に使えたからだ。

(私は)元々があまり人見知りする性格ではないので、恵子の母ともすぐに親しくなった。
ある意味、本来の目的だった恵子の父との交流よりも、その母との交流の方がはるかに多かったような気がする。
時には、私が恵子の実家にいて食事をしているところに恵子が帰ってくる、といった風景もしばしばだったような気がする(きっと、側から見ると実に不思議な光景だろうが)。


有栖川記念公園

青学の仏文科というところは、あの当時(69年から73年ぐらいまで)だけなのかもしれないが、とても家庭的な雰囲気のする学科だった。
クラスも2クラスしかなかった。
それぞれ60人程度なので、お互いの顔や名前を覚えるのには最適な規模だったせいもあるだろう。
したがって、私と恵子は、個人的なデートはもちろんしたけれども、クラスの仲良しグループ全体で、お茶をしに行ったり、近くの公園に遊びに行ったりもしていた。

青学近辺には、あの当時からおしゃれな店がたくさん立ち並び、そこらに買い物に行ったり、遊びに行ったりする場所には事欠かなかった。
青山から広尾まで歩くのはちょっと距離があったけれども、二十歳前後の若い男女が2、3キロの距離を歩くのは何の問題もなかった。
ある日、誰ともなく「有栖川公園に行こう」という話になった。
ついでに、広尾交差点のそばにある外国人向けのスーパーマーケットNationalに寄りたいという気持ちもあった。
ほぼ10人ぐらいの団体(女性と男性ほぼ同じぐらいだったかな?)が公園を訪れ、何をするでもなく写真を撮ったり、散歩したりした。
その中に、当然、恵子もいた。

恵子と仲の良かった青学高等部時代からの友人たちも数人一緒だった。
一方、男性陣は、金沢から来た男、徳島から来た男、そして私の親友でもあった北越谷出身の男などだった。
それに比べて、女性陣は、そのほとんどが都内や横浜といった都会の「お嬢さん」たちばかり。
あんな時、私たちが一体何の話をしていたのかは、今となっては思い出す術もないが、若さというのは、もうそれだけで何もかも包み込んでしまう「魔法」を持っていたのだから、きっとそれほどたいした話などしていなかったに違いないと今では思う。

ちなみに、有栖川記念公園の名前の由来である有栖川の宮というのは、幕末に徳川慶喜に嫁いだ皇女和宮の元婚約者で、西郷隆盛らと一緒に江戸攻めを仕掛けた官軍の総大将だった人。
都内には、そうした宮家、あるいは大名たちの屋敷跡を公園にした場所がたくさんあり、その一部は大使館やホテルにもなっている。
東京の街というのは、そんな歴史的な来歴の多い場所でもあり、大学のあった青山、広尾、六本木というエリアにもそうした場所がたくさんあり、私たちの格好の遊び場にもなっていた。


大学紛争

私と恵子が大学に入学した年、1969年というのは、その前の年にあった東大闘争に象徴されるように、全国各地の大学、高校で学園紛争が一斉蜂起のように起こっていた年でもあった。
なので、せっかく大学に入学したとはいえ、すぐにロックアウトという状態になり、最初の一年間ロクに授業を受けた記憶がない。
授業料値上げ反対闘争、とか学園長への抗議集会とか、連日のようにデモや集会があり、授業どころではなかった。

そんな中、学生は、学園闘争にシンパシーを感じる派とそうでもない派(つまり、ノンポリという人たち)にはっきりと分かれていた。
私たちのグループは、どちらかというとそうした闘争にシンパシーを感じ、そのお手伝いめいたことをしていたし、デモがあれば、ヘルメットを被り一緒に校内や青山通りをデモ行進したりしていた。

恵子の父はその時期青学の教授の一人であり、どちらかというと、学生たちから糾弾される立場だったが、彼はかなりリベラルな考え方の学者であり、どちらかというと非体制側の人間と見られていたために、学生に同調することはあっても、けっして批判される立場ではなかった(この時代の学生と教師の関係は、一時期の中国での文化大革命期「紅衛兵」に糾弾されるインテリたちの姿にも似て、今振り返るとかなりグロテスクな光景だ)。
そのせいもあってか、恵子の父の家(狛江)には、学生たちがいつもたくさん集まっていた。
私もその一人ではあったものの、私の目当ては、父である教授よりも恵子にあったのは当然のことだった。


多摩善生園

ウサギの父は、神学者であると同時に一牧師でもあった。
その彼が常に説教をしていたのが、東京の多摩にある善生園というハンセン氏病の療養施設の中にある教会。
この施設には、当時プロテスタントの教会が2つ、そしてカソリックの教会が1つだけあった(おそらく違う宗教の施設もあったはずだが、そちらに関してはあまり詳しい知識を持たない)。

ある時、私とウサギで連れ立って礼拝に参加した。
一般の信者の方たちは皆さん「元患者」の方ばかり。
礼拝後の懇親会では、この信徒さんたちが私たちに気を遣って、丁寧に洗った別の食器でもてなしてくれた。
もう日本にはハンセン氏病の菌は存在しないにもかかわらず、その当時でさえ相変わらずこの病気に対する偏見だけは消えていなかった。
自宅に帰宅して同居していた叔母にそのことを話すと叔母は嫌悪感はあらわにした。
私がいくらもうそんな病気は存在しないんだよと説明しても、小さい頃から周りの偏見に洗脳されてきた叔母には、そうした理性的な対応はあまり意味をなさなかったのだ。


プロポーズ

伊豆の西海岸に岩地という小さな小さな町がある。
隣の松崎は、そこよりも若干大きいが、『長八の宿』という、つげ善治の漫画でも有名な「なまこ壁」という独特の壁の多いちょっと特殊な地域だ。
伊豆という土地自体が、「源頼朝の流刑地」としても知られるところなので、陸地でありながら「島流し」と称されるほどの孤立した文化を持つところだ。

その「岩地」で、私は、恵子に「結婚を申し込んだ」。
といってもそれほどロマンチックな場面はなかった。
学生時代にその岩地で民宿の手伝いのアルバイトをしていた関係で、よく知っていた民宿(ここら辺りの民宿のほとんどは釣宿でもある)に泊まり、そこで将来を誓い合った、と言ったところだ(だって、こっちが寝ているすぐ横の部屋で男の釣り客が団体でドヤドヤと騒いでいて)、こちらの「愛の語らい」は、途切れ途切れ状態だったので、あまりロマンチックとは言えないプロポーズだったことは確かだった。


会費制パーティ

結婚式も披露宴もするつもりは、まったくなかった。
恵子の父が牧師であり神学者だと言うことは十分わかっていたけれど、そうした形式に囚われないリベラルな人だと言うこともわかっていた。
とはいえ、親の意向に真っ向から逆らう気もなかった(私の両親は、中学の時に既にこの世を去っていた)。
とりあえず、恵子の父に「話がある」と言ってアポを取った。

恵子の父との面談(といって良いのだろうか?)は、渋谷のレストランで行われた。
ただ、よく世間にあるような「お宅のお嬢さんをいただきたいのですが」的な紋切り型の口上を述べる気もサラサラなかった。
幸い、結婚話を切り出したのは、彼の方だった。
「なんだ、わかってたのか?」と、私は心の中で拍子抜けをした。
そりゃ、そうだろう。
あれだけ何度も家まで送り迎えをしていれば、よっぽど鈍感な親でも気づくはずだ。

結婚式も披露宴もやらない方が良いと言ったのは、むしろ彼の方だった。
「でも、友達中心にパーティでもやったらどうだ?」
こう言ってくれたのも彼だった。
となれば話は早い。
学生の身で、そんな(パーティ)費用も自腹でまかなえるほどの財力もなかった。
ここはいっちょ、会費制にしてしまえ!

結婚式もなし、披露宴もなし、でもパーティだけはする。
恵子が文句を言わないだろうか?
彼女曰く、「ウェディングドレスが着れれば何でも良いよ」。
ドレスは、裁縫の得意な彼女の叔母さんが仕立ててくれた。
1972年の4月22日。
台風のような低気圧が去ったすぐ後で、妙に生暖かい風の吹く日だった。
悪友たちが、「ビールがぬるいゾ!」と叫んでいたのを今でも良く覚えている。

プロかアマか

小さい頃の私の夢は、スターになるか、料理人になるかだった。
祖母に育てられた私は、料理の上手だった祖母の料理を見るのが大好きな男子だった。
明治生まれの典型的な薩摩おごじょの祖母は、「男の子は台所なんかに来るもんじゃない!」と言って私を叱り、そして台所から追い払うのが常だった。
それでも負けずに私は祖母の料理をひたすら覗き見ていた。

小学校の頃から「舞台に上がって注目される」ことを夢見ながら(そんな妄想にふけりながら)学校から家までとぼとぼと帰るのが常だった私は、ある日フルートという楽器に出会う。
というよりも、当時一緒に住んでいた叔父の知り合いに、有名な音楽大学の桐朋学園の関係者がいてその方の紹介でフルートを習うことになったからだ。
きっとその楽器が性に合っていたのだろう。急速に上達し、学校の勉強もそっちのけで楽器の練習に励んでいた。
その甲斐あってか、高校時代には既にかなりの腕前になっていた。
そして、先生は桐朋の人だったので、「桐朋なら入れてあげるよ」とは言ってくれたものの、当の私に「音大に入る」気はさらさらなかった。
とは言え、音楽家になろうとは思っていた(ただ、まだ大学当時「音楽家になろうか料理人になろうか?」の二択はまだ残されていたが)、私に音楽のプロへの道を開いてくれたのは、他ならぬ恵子だった。

大学に入った当初から弟子入りしていた作曲家の森田公一さんのツテで、学生の身でありながら音楽の仕事はけっこうしていた。
しかしながら、音楽家のプロとして社会に踏み出す覚悟はまだできていなかった。
そんな時だった。
恵子が私にこう言ったのだ。

「音楽、本当に好きなの? 本当に好きならプロになるっきゃないじゃない。プロにはアマチュアには絶対見えない景色があるのよ。その景色を見てみたいと思わない? アマチュアは、いつも安全なところにいて景色を見ているけど、プロはそうはいかないのよ。いつも断崖絶壁のいつ落ちるかわからないリスキーな場所で景色を見なくちゃいけないの。でも、そこから見る景色は、安全なところにいるアマチュアには絶対拝めない景色なのよ。それを覗いてみたいとは思わないの?」
この彼女の一言が、結局50年以上もプロ音楽家としてのキャリアを作る道につながったのだった。


恵子はデザイン事務所へ、私は大学へ居残り

私たちの新婚生活の最初の住まいは、東京世田谷祖師谷にある極めて古い木造アパートだった。
小田急線祖師谷大蔵駅から10分ほど歩いた閑静な住宅街にあるアパートなのだが、ヤモリがガラス窓にしがみつき爬虫類独特の足の裏の吸盤が可愛くもあり気持ち悪くも映る、とても和む古い内風呂もないアパートだった。
大学には一緒に入った二人だが、恵子は先に一人で卒業し四谷にあるJAL関係の仕事を主に行うデザイン事務所に就職していた。
一方の私は、まだもう一年頑張って30単位ほど取らないと卒業できないギリギリのところにいた。

とは言え、新婚の二人なので、(人生に対する)悲壮感などまったくなく、私は相変わらずプロ音楽家としての生活(それほどの仕事はしていなかったが)と学生としての生活の両方を掛け持ちしていた。
あ、そうだ。
どちらかというと、家にいる時間の方が圧倒的に長い私の方がハウスハズバンドのような役割を受け持っていた(つまり、主夫であり、料理の支度はほとんど私の仕事だった)。

そんな新婚家庭に、現役の学生たちが興味を示さないわけがない。
特に、女子学生は。
連日のように「新婚家庭見たさ」に友人たちがたくさんやってくる。
時には、彼ら彼女らは、雑魚寝状態で泊まっていき、翌朝、一人ずつ「行ってきま〜す」と家を後にする。
恵子の実家は、私鉄の小田急線でそこから3駅ほど先に行ったところ。
当然、恵子の家族もやってくる。

というか、こちらが彼女の実家の狛江に行くことの方が多かったかもしれない。
東京都内とは言え、未だに畑などの残る狛江の駅からほんの目と鼻の先にあった恵子の実家。
思えば、私の実家である渋谷の街で「私たちの青春」が育まれた記憶はまったくない。
むしろ、恵子の実家の狛江、そして祖師谷という土地にこそ、私たちの「青春」の思い出が多く横たわっていたのだろう。


「神田川」そのままの新婚時代

「〜若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ、あなたの優しさが怖かった〜」

この曲の中に出てくる「二人で行った 横丁の風呂屋」という歌詞は、祖師谷という土地にはあまり似つかわしくないかもしれないが(世田谷なので神田川はそばにはない)、それでも、この曲そのままの「私たちの新婚生活」を思い出すには十分過ぎるほどの「世界」がこの曲にはあった。
内風呂のあるアパートなどに住めるはずもないお金の全くなかった新婚時代に「一緒にお風呂屋さんに行き」そして、お風呂屋さんの前で待ち合わせる。
「一緒に出ようねと言ったのに〜」。

やはり、実際のお風呂屋さんではそれほどジャストなタイミングで出ることはできない。
どちらかが、当然待たされる。
でも、そんなことすらも嬉しかった二人だったような気がする。

引越し〜大山、そして三宿のアパートへ

新婚生活は、祖師谷のアパートから始まった。
恵子の母親と一緒に不動産屋回りをしたせいか、どうしても狛江や成城学園辺りを中心に探したせいでもあった。
3年ほど経った頃、突然引越しをした。
今度は、世田谷の三宿という場所。
三軒茶屋の近くといった方がわかりやすいかもしれない。
住宅街とも繁華街とも言えない、ちょっと微妙なエリアだった。
とは言え、都心へのアクセスもよく、かなり便利な場所だった。

私は自由業だから、時間的には余裕のある生活だったが、恵子はきちんとした勤め人。
つまり、堅気な仕事人なのだから、彼女の便利な場所を選ぶ方が理にかなっていた。
その意味では、祖師谷よりは、三宿の方が遥かに理にはかなっていた。
その直前に渋谷の大山の近くにあるアパートにもほんの数ヶ月暮らしたことがあったが、ここは火葬場の近くだったので、都心に近いとは言え、なんとなく「長居は無用」という感じで、早々に引越しを決めた。
私としては、渋谷の富ヶ谷の実家に近いという点は評価していたのだが、住環境としては最適とは言えなかったのだろう。


石川好さん夫婦と知り合う〜日吉のマンション暮らし

東急東横線の日吉駅は、慶應大学のキャンパスで有名だ。
その日吉駅の慶應キャンパスの反対側にあったマンションに引っ越した。
けっこう高い建物で、8階が私たちの住処となった。
夕方には富士山がきれいに夕陽をバックに浮き上がって見えるような、そんな場所だった。

ある日、恵子が「近くの友達のところに行こう」と言い出した。
「え?歩いて行くの?」と聞くと、そうよと答えた。
後から知った話だが、その日の友人宅への訪問は、訪ねた人物石川好氏(この当時はまだ何者でもなかったが、後に大宅壮一賞を取り「朝まで生テレビ」というTV番組に頻繁に出演するほどの有名作家になった人だ)の奥さんと恵子が密かに「旦那同士合わせると面白いかもね?」と計画されていたようだった。
その石川氏の奥さんはまだ学生で、恵子が当時勤めていた武蔵大学の院生だったのだ(後に、彼女も一流のSF作家になる)。
ただ、その日の出会いが私の人生の大きな転機だった。

伊豆の大島出身の石川好氏は、9人兄弟の下から2番目。その日は、大島の話は全然出なかったが、彼の口から出たのは、アメリカでの武勇伝ばかり。
彼の一番上のお兄さんがカリフォルニアのロスアンゼルスへ移民で行った一世だったのだ。

そして、彼の語り口の面白いこと、面白いこと。
「え〜?この人、一体何者?」と思わせるほど、その口から出る話に、私はすっかり肝を抜かれていた。
いや、肝を抜かれるというよりも、話があまりにも大きすぎて「眉に唾をつけたくなる」ようだったのだ。
一体どこまでが本当で、どこまでが「盛っている」のかさっぱりわからなかった。
ただ、一つだけ確かなことは、私自身の心が大きくアメリカという大地に惹かれていたということだった。
それぐらい石川氏の話すアメリカは、とてつもなく「ウソっぽく」、とてつもなく「面白かった」。

翌日から私のアメリカ行きの準備が始まっていた。


義父・新見宏が訪ねて来る

恵子の父は、青山学院大学の神学科の教授でもあり、牧師でもあった(彼が当時牧師を務めていたのは、東京多摩にあるハンセン病患者の施設全生園内の教会)。
いわゆる神学者としてはかなり名前の通った人でもあり、恵子が中学生の時にスイスに暮らしたのも、この父と二人で暮らすためだった。

エキュメニカル運動という、カソリックとプロテスタントの境をなくそうというキリスト教界の動きを推進していた一人が義父だった。
その世界会議がスイスのジュネーブで行われたための外国住まいに恵子が付き合わされた格好だった(後に、母親や他の家族も同居するようになったが、最初の一年間は、父と恵子の二人暮らしだった)。
きっと、恵子は「母親代わり」として連れて行かれたのだろうし、ある意味、恵子は、父のお気に入りだったのだ。

そんな義父が、ある日、日吉の私たちの家を訪ねてきた。
マンションとはいっても、うなぎの寝床のようなスタイルの間取りだったために、落ち着ける場所は台所だけだった。
そこでの私と恵子、そして父の3人の会話を追体験することはできないけれども、私の中では、やはり恵子と義父の絆の深さが今さらのようにわかったような気がした。
父と娘は、やはり強力だ。


留学の決意〜渋谷ロゴスキーでのロシア料理の会食

日吉での石川好氏との出会いから10カ月ほどたったある日、私は義父に「話があるんですけど渋谷で会ってくれませんか?」と水を向けた。
そして、それに応えるかのように、彼は「じゃあ、またロゴスキーで会おう」と言ってくれた。
また、というのは、私が、恵子との結婚の話を打ち明けたのが、同じ渋谷のロゴスキーというロシア料理の店だったからだ。
今度は、結婚話ではなく、留学についての相談だった。

結婚話の時もそうだったが、この義父は、何でも先を見通す力が本当に鋭い人だと思った。
結婚話の時も、今度の留学話も、結局、彼の方から「何々なんでしょう?」と水を向けられたのだ。
それもそのはず、彼は、戦争が終わってすぐにアメリカに留学している大先輩。
私の留学に反対する理由は何もなかった。
しかし、彼が留学した戦後すぐには私費での留学は許されてはいなかった。
全て公費の留学、つまり、フルブライト奨学資金に合格しないと留学はできなかった時代だったのだ。
そんな時代に、直前まで敵国だったアメリカに留学した義父の苦労は以下ばかりか。
想像に難くない。

ヤマネコウサギ、初めての一年間の別離

私がアメリカ行きを決意し実際に旅立ったのが、1977年のこと。
その頃、恵子は、仕事とは別に日本画を習いに行っていた。もともと絵を描くことが大好きだった彼女。
彼女の日本画の才能はみるみる開花していた。
そんな彼女は、私と一緒にアメリカに行くことを躊躇った。
日本画ができなくなるからだ。
もっともな理由だと思った。

そして、私と彼女は一年間の別居を選択する。
私が、単身赴任のような形で再びアメリカで学生生活を始めた。
しかし、この頃の円とドルのレートは1ドル270円になったばかりの頃だった。
360円の固定相場に比べればまだマシとはいえ、およそ百万の日本円を貯めてアメリカでの生活に当てようと考えたが、そんなものは、あっという間に消えてしまった。
学費が高い上に生活費だってままならない。
結果、恵子に泣きつくことになる。
とはいえ、現在のように、インターネットなどない時代。
国際電話での二人の会話は、「一体いくらかかるのだろう?」という怯えながらの会話だった。
恵子は、常に家族から言われていたそうだ。
「そんなことしてるんだったら、行っちゃった方が遥かに安上がりだよ」と。

結局、恵子は私が二年目を迎えた78年にアメリカで合流した。
とはいえ、留学生のパートナーはアメリカで仕事をすることは許されていない。
生活の苦しさは相変わらずだった。


アメリカでの学部、大学院、そして音楽活動

それでも、音楽を専攻していた私は小銭稼ぎには困らなかった。
日本とは比較にならないぐらい教会が多い上に、結婚式での演奏仕事が本当に多かった。
そうそう、ウィークエンドには、地元のバーでの演奏もかなり多かった。
日本の大学時代、ハードロックのバンドにはいたが、ブルースやカントリーなどあまりやったことはなかった。
基本的にアメリカのローカルなバーでは、カントリーロックさえやっていればお客さんは満足してくれたのだ。

イリノイ州の片田舎にある大学で音楽を勉強していた日常は、とてものんびりしたものだった。
アメリカの大学は、UCLAとかコロンビア大学のように都会のど真ん中にあるような大学はまれで、そのほとんどが田舎に作られていた。
私の通っていた南イリノイ大学も、そのうちの一つで、カーボンデールという(炭鉱の谷)という意味の町だけあって、そのローカルな雰囲気はなかなか日本では味わえないものだった。
しかし、その大学を卒業し大学院のために移ったミシガン州立大学のキャンパスは、とてつもなく広く、後から知ったのだが、あの有名な博物学者、南方熊楠がはるか昔に通っていた学校だった。
あるいは、それよりも、バスケットのスーパースター、マジック・ジョンソンのいた学校といった方がわかりやすいかもしれない。
音楽学部は、全米のミュージックスクールのベスト10に入るぐらいレベルの高い学校だったが、私にとっての成果は、コンピュータ音楽と指揮を学べたことだった。
そして、恵子も、この街のマーケットで日本画を売ったりしていた。
ただ、アメリカ人にはなかなか日本画は理解されづらいようで、中には「この絵はまだ完成してないんだろう?」というトンチンカンなことを聞いてくる人もいた。
油絵と根本的に違い、何も塗っていない白い空間が多いのが日本画の特徴だが、それがなかなか欧米人には理解されづらいようでもあった(中国画にも同じような傾向はあるようだが)。

ここでは、イリノイの時と違い、多くの日本人留学生との出会いがあった。


フランソワーズアルディと谷山浩子

音楽の勉強にわざわざアメリカまでやってきたのに、貧乏学生の私は、まともなオーディオ機器を買う余裕もなかった。
音楽を聴きたくても家では聞けないので、自然とミュージックスクールの図書館でレコードを聴くことになる。
まあ、それでもそれほど不自由ではなかったが、やはり自宅でも音楽が聞きたい!

そう恵子に訴えると、彼女は2つのカセットテープを送ってきてくれた。
一つは、フランソワーズ・アルディというフランスの歌手。
もう一つは、谷山浩子のアルバムのコピーだ。
どちらも、私の好みというよりは、恵子の好みなのだろう。
ただ…。
カセットテープは送ってきてくれたけれども、肝心のレコーダーがない。
仕方なく、pawn shop(質屋)を探して超安いテープレコーダーを手に入れた。
これ以外に聴くものはないから、この2つのテープをエンドレスのように繰り返し聞いた。
おかげで、今でも谷山浩子の声やアルディの声を聞くだけで、遠い昔のアメリカのボロアパートの一室にワープすることができる。


ウサギのタイプライター

一年の(アメリカと日本での)別居生活の後、ヤマネコとウサギは
再びアメリカで同居を始めた。
片方は学生、片方は無職、の身ではそれほどの収入は期待できない。
なので、ウサギは、公にはアルバイトはできないが、学生を相手に、論文や宿題、そしてプレゼンなどの資料をタイプする仕事を請け負った。
これがことのほか繁盛した。

アメリカのキャンパスで驚いたことの一つに、ハンディキャップの人たちに対する配慮が日本とは比較にならないほど充実しているということだった。
かいだんのすぐ横にある車椅子用のスロープはアメリカで初めて見たものの一つだった。
車椅子の人が自立できるような配慮は至るところにあった。
それだけではない。
このヤマネコが学生になった70年台の半ばは、ベトナム戦争が終わったばかりの頃だった。
戦場から帰国した人たちの多くが学生としてキャンパスにいた。
ヴェテランveteranと呼ばれる除隊した兵士達には様々な特権があった。
その一つが、優先的に大学への進学を許され、おまけに学費に対する優遇措置もハンパなく手厚かった。
なので、キャンパスの中には、明かにベトナム戦争の帰還兵と思われる人たちが多くいた。
その中で私の目を驚かせたのが、通常の車椅子ではなく、ほとんど寝たきりで動くストレッチャーのような乗り物を自分で操作しながら教室から教室へ移動している人たちがたくさんいたことだ。

そういう人たちは、単に足が不自由、手が不自由といったハンディキャップに止まらない。
両手も両足も自由にならない人だってキャンパスにはけっこういる。
時々心配になって仕方がない。
だって、あのまま誰かに後ろから押されたら階段を転げ落ちて大怪我をするか、あるいは死んでしまうのではないかといつも冷や冷やしながら見ていた。
そうした傷病兵の一人がウサギの顧客になった。
私がその方から元の原稿を頼まれ、そしてそれをウサギに渡す。
ウサギは、せっせとタイプ打ち作業を一生懸命行った。
これでも結構な稼ぎになった。
そうやって、ウサギは、また一つ特技を増やしていったのかもしれない。
あるいは、それがウサギにとっての「楽しみ」だったのかもしれない。

アメリカで知り合った生涯の友

学部のイリノイでの2年間は、わりとノンビリとしたものだった。
それほどの競争もなく、フルートとリコーダーの練習、そして授業のための学習にせいを出していれば良かった。
しかし、大学院のミシガンでは、かなりの競争を強いられた。
しかも、graduate assistant(担当教授の補佐的な役割をしながら院生として学業に励む)という形で奨学金をもらっている以上、学部の生徒を教えなければならなかった。
これがまた大変で…。
何が大変かと言うと、私は人の名前を覚えるのが超苦手。
ナンシーとかエミリーとかキャサリンとか、名前を全て覚えた頃には、もうセメスター(学期)は終わっている、みたいな状態だった(きっと、学生に評判悪かっただろうな?)

中西部の田舎の学校と北部ミシガンの一流大学の大学院ではたしかにその「レベル」が違ったのだろう。
毎日のようにライバルとの競争にしのぎを削った。
そんな中、心許せるピアニストとの出会いもあった。
マーク・スパイサーという男で、その奥さんジュリーとも、同じ妻帯者同士ということもあり、恵子共々仲良くなった。

この夫婦、とにかく陽気でそして知的で会話が本当に楽しい二人だった。
彼らとは、日本に帰国してからも、そのずっと後にもお互いの信頼関係は続いていた。
このマーク、パートナーのジュリーのことを「世界一綺麗な女性」と呼ぶ。
確かに綺麗な人なのだが、自分の奥さんを世界一綺麗と豪語するところがやはりアメリカ人っぽい。
とにかく、良くも悪くもアメリカ人なのだ。
私も、恵子のことを「世界一の女性」と絶対的な自信を持って言えるが、ひょっとしたら私も相当にアメリカ人っぽいのかもしれない。

このマークがピアノを教えているニューヨーう州エルマイラ・カレッジに一度招かれてマークと一緒に学内でコンサートをやったこともあった。
もちろん、恵子も一緒の旅で、恵子とジュリー、そして彼らの3人の娘たちとも仲良く遊んだ。
この夫婦とは切っても切れない絆を感じている。


百万本のバラ

ヤマネコが一人でアメリカに行き勉強を始めた年の11月。
ヤマネコは、ウサギの誕生日に2,000本の赤いバラを送った。
外国からでも花を贈れるという情報を得て、日本にいる友人に手筈を整えてもらった。
2,000本という数なので、あまり大きな薔薇ではなかったはずだ(私は、実際には現物を見ていない)。

はるか遠くの外国から誕生日に薔薇を送る。
一度してみたかった「くさい演出」だ(笑)。
でも、ヤマネコは、こういう(くさい)ことをやるのにまったく恥じらいを持たない。
生来の「目立ちたがりや」。
日本の男性があまりやらない(あるいは、やりたがらない)「スタンドプレイ」だと思う。

愛猫シューシューとの出会い

名前は思い出せないのだが、大学院での勉強のために通っていたミシガン州立大学にはキャンパス新聞があり(どこの学校でもあるはずなのだが)、そのad欄(売りたいとか買いたいとかいった読者の掲示板のような欄)に、「あげます」というのがあり、その中に「ネコあげます」というのがいつも掲載されていた。
それをいつも眺めながら、ウサギと私は、「ネコもらってこようか?」と話すことが多かった。
で、ある日、意を決してその「あげます」広告の中から一つ選びそこを訪ねることにした。

電話してアポを取り、そのアパートを訪ねると男性が二人出てきた。
「あ、そうか、ここはゲイのカップルなんだな」と内心思ったけれど、そんなことは口には出さない。
ゲイカップルらしく、こざっぱりとした綺麗な部屋だった。
そして、彼ら曰く「この中のどのネコでもお好きなのをどうぞ」。
多分、4、5匹はいたと思う。
まだ生まれて一週間かそこらの子猫たちだ。
みんな可愛かったが、その中の一匹が私とウサギの方に近づいてきた。
あ、この猫は(私たちの家に)来たがってるんだなと咄嗟に思い、私たちはそのネコを家に連れて帰ることにした。
以来、このネコが亡くなるまでの24年間、苦楽を共にするとはその時、(私たちもネコ本人も?本猫?)知る由はなかったのだが。

ネコの名前は最初から決まっていた。
シューシュー(chouchouフランス語でキャベツキャベツ、という意味だが、その理由は、フランスの作曲家ドビュッシーの娘エンマの愛称でもあったからだ=でも、その言い方は中国から来ているという。つまり、パンダのな名前のように、中国では同じ音を続けると幸福を招く、ということらしい)。

ところが、アメリカ人は、誰もまともに「シューシュー」とは発音してくれなかった、結局(フランス語が喋れる人以外は)。
みんな、チャウチャウとか、チュウチュウとか…(おいおい、ネズミじゃないんだぞ!)。


帰国、そして音楽活動再開

大学院を卒業した後何をするかは皆目見当がついていなかった。
ボロコフ先生は「ニューヨークに行って、スタジオミュージシャンになってみてはどうか」と勧めてくれた。
しかし、数多くの音楽家が世界中から集まるニューヨークで果たして音楽で、しかも、演奏で食べていかれるのか?
その自信は全くなかった。
というか、東京で少しはそれらしき経験(スタジオでの演奏)は積んでいたが、それが果たしてニューヨークで通用するのか?

そんな時だった、アメリカのフルートコンベンションでお世話になったアイオワの音楽ショップのオーナーから「うちで働いてみないか?」という誘いがあった。
もちろん、演奏の仕事ではないので多少の躊躇はあったものの、そのオーナー夫妻に恵子共々大変お世話になった義理もあったので、一度お店を訪ねた後就職を決めた。

とはいえ、本来の「やりたかったこと」ではないので、ほぼ一年で急に「里心」がつき、日本への帰国を決めた。
グリーンカードを申請する一歩手前の急な帰国だった。
何の当てもない、アメリカ留学を決めた時とほぼ同じような「行き当たりばったり」の決断だった。
よくそんな大事なことをろくすっぽ考えもせずに決められたものだと今は思う。
それよりも、そんな「あっちへ行ったりこっちへ行ったり」の私の人生に恵子もよく付き合ってくれたものだと思う。

もちろん、おかげで日本へ帰ってからの「仕事探し」は大変だったのは言うまでもない。
しかし、「蛇(じゃ)の道は蛇(ヘビ)」とはよく言ったもので、アメリカ時代の指揮の先生の親友が府中のアメリカンスクールの校長先生をやっていたおかげで、非常勤で音楽を教えたりもできたのだ。
前途多難な日本での音楽家人生のスタートだった。


チェリスト溝口肇との出会い、そして彼の来訪

最初はオーケストラへの就職を考えていた。
しかし、アメリカの時は超ラッキーにオーケストラのオーディションに受かったが、日本ではまずそのオーディション自体が少ない。
それでは、とスタジオでのレコーディングミュージシャンを目指して仕事探しを始めた。
そうしたスタジオでの仕事には、それを斡旋するインペグというエージェントがあることがわかった。
まずは、そのインペグさんとのコンタクトから始まった。
都内に数カ所しかないそのインペグ屋さんのいくつかに名前を登録しておけば、仕事は「突然」やってくる。
「明後日の午後1時からアバコスタジオでお願いします」と言った具合で、いつも「その仕事」は急に飛び込んでくる。
「その時間」に先約があったとしても、そちらを断り、こちらの仕事を優先しないと二度と電話はかかってこない。
しかも、スタジオで失敗などしようものなら二度とお呼びはかからない。
それぐらい厳しい仕事だ。

そんな時、スタジオで一人のチェリストと出会った。
溝口肇というチェリストだ。
見るからに「イケメン、ナルシスト」そのままの男で、いつも楽器と一緒に化粧ポーチを持って歩く男でもあった(これは、けっして悪口ではない)。
そんな彼が当時住んでいた方南町のマンションにやってきた。
案の定、ワインを片手にやってきた。
私も特製のイタリアンを作りもてなした。
彼とはその後、何回か一緒にライブをやった。
当時彼が付き合っていた(らしい)ピアニストの菅野よう子さんとも一緒にライブをやったが、溝口氏は私の曲をあまり弾きたがらなかった。
きっと気持ちよくチェロを鳴らせなかったからだろう。
私の曲は、「予定調和」の部分が少ないから、演奏でも「ナルシスト」の彼は、私が作るような曲にハマるタイプの音楽家ではないことがよくわかった。


スティールパン奏者ヤン富田くんとの出会い

一方、恵子の方もアメリカ帰りだったので、就職には苦労していた(とにかく、外国生活というのは、それまでの日本での関係を一旦デフォルトにすることを意味していた)。
幸い、恵子もいくつかのアルバイト先を見つけた。
そのうちの一つが、京都の西陣織のメーカーで帯を作る工房が方南町の近くにあり、彼女はそこで「帯の下絵を描く」仕事をした。
その同僚の一人の女性の旦那がやはりミュージシャンで、その名前をヤン富田くんと言った。
その後、プロデューサーとしてカリスマと呼ばれるようになったが、知り合ったばかりの頃はまだ「何者でもなく」ただのスティールパン奏者だった。
いや、スティールパンという楽器自体がレアな楽器のために、彼もまた生活には苦労していたようだった。
その分、彼の奥さん(恵子の同僚)が生活費を稼ぐという、アーチストにありがちなパターンの夫婦でもあった。

スティールパンというドラム缶から作った楽器の先駆者でもあったヤンくんとの出会いは、その後かなり長い間続くことになる。
一緒にラップのアルバムまで作るようになったが(ポニーキャニオンからリリースされた『建設的』)、彼とはよくいろいろなイベントで一緒に演奏した。
ラップのレコーディングだけでなく、レゲエのダブや、CMのレコーディングなど、たくさんの仕事を一緒にしたのだが、そもそもの知り合うキッカケがお互いの奥さん同士の関係だったので、自ずと家族ぐるみの付き合いが多かった。
彼らの羽田の自宅にお邪魔した時、そのアナログレコードの数に驚かされた。
私も人よりは多くのレコードを持っていたつもりだったが、彼のコレクション(というより仕事の道具)は半端ではなかった。
家の四方の壁中、床から天井まで完全にレコードで覆い尽くされ、当然その数など数えられようはずもなかった。
さすがに(その時)クラブDJはやっていなかったようだが、クラブDJの人たちが持つような膨大なコレクションが彼の第二の楽器だったのかもしれない。


ラップとの出会い&レコーディング

かつてシーケンサーと呼ばれる音楽専用のコンピューターがあった。
MC8と呼ばれた機種で、それ一台で車が買えるほどの値段だった。
まだそれほどの稼ぎがあった訳ではないが、音楽業界では、「お金ができてから新しいものを買う」のではなく、「買ってからその借金を仕事で稼ぎだす」という考え方が主流で、私もご多聞に漏れず、そのやり方で購入し、仕事をしまくった。
不思議なことに、こうした高価な器械を持っているだけで仕事は面白いようにやってきた。
「買ってから稼ぐとはこのことか」と妙に納得した。

そして、その仕事の一つにヤン富田くんがプロデュース・アレンジを担当したラップのアルバムがあった。
私の役割は、そのシーケンサーのオペレーター。
ほとんどヤンくんと二人だけの打ち込み作業が始まった。
最初は、「どんな音楽ができるのやら?」という感じで、ヤンくんに言われた通りに音を打ち込んでいたが、途中から「これはラップのアルバムなんだよ」という説明を受けた。
いや、説明を受けたからといって、この当時、ラップなどということばの意味を知っている人はあまりいなかった。
音楽家でさえそうなのだから、世間一般の人たちがこうした音楽を知る由もなかった。

当時文化人アーチストとして活躍していたいとうせいこうくんと藤原浩、そして高木完という二人のラッパーで結成された「タイニーパンクス」というグループで作られたラップのアルバム。
そのスタッフの一人となった私の名前は、その記念すべきアルバムにオペレーターとしてクレジットされた。
以後、この「タイニーパンクス」と一緒にさまざまなTV番組やイベントに出演する日々が続いた。
なかでも、CXの公開番組の「冗談画報」は傑作だった(複数のバンドが登場し、それぞれのファンがスタジオに集まる、という構成のライブ収録番組)。
イングリモングリというバンドや米米クラブなどと一緒にスタジオでの収録だったのだが、私たちがステージに登場すると、スタジオに集まったバンドのファンたちは一斉に怪訝そうな顔をした。
それもそのはず、普通のバンドとは全く違い、ステージにあるのがドラムスやギターなどの楽器ではなく、テーブルとその上に乗るターンテーブルだけだったからだ。
これだけで「一体何をするんだろう?」という顔をみんなしていた。
まだラップの「ラ」の字も知られていなかった時代の話だ。

私が関わるものは、いつも時代の「先」を行っていた(これは、けっして自慢などではなく、たまたまそうなったというだけの話だ)。


永遠のディーバとの出会い

歌手おおたか静流さんとどうやって出会ったのか記憶が定かではない。
しかし、彼女との出会いが、私自身の音楽人生を大きく変えたことだけは確かだった。
多分、ラジオCM音楽を作り始めた頃が最初だったような気がする。
きっとそのための人材を探している時に誰かに紹介してもらったのが最初の出会いなのかもしれない(とはいえ、その私とおおたかさんの間に入って紹介してくれた人物が誰なのかも今となっては覚えていない)。

彼女に最初に依頼した仕事は、栃木放送のラジオCMだったはずだ。
地方の仏具メーカーのCMソングを依頼され、その歌に子供のコーラスをつけねばならなかった。
とはいえ、子供に歌ってもらうのは負担が大き過ぎる。
そこで紹介されたおおたかさんは、ある意味、「どんな声」でも注文に応じてくれる本当の「職人肌」の歌手だった。
「子供の声」「黒人の声」「オペラ歌手」何でもござれの人で、正直「何でこの人がもっと有名じゃないのだろうか?」と思った。

しかし、その後、メジャーデビューを果たし、あれよあれよと言う間に「本当に有名に」なってしまった。
ただし、このおおたかさんにも弱点はあった。
いや、これを弱点というのは、あまりにも酷な話だ。
彼女の歌のピッチ(つまり音程)はあまりにも正確で、例えば、二人分の声を重ねる場合でも、あまりにも「正確に同じピッチの二人の歌手」になってしまうため、二人(で歌ってるよう)には聞こえない。
コーラスというのは、微妙にピッチの違う数人が声を揃えて初めて「多数が歌っているように」聞こえるからだ。
彼女の場合、そうはならない。
だから、一人で何人か分の声を重ねる仕事はたくさんやったけれども、この「ピッチの正確さ」が邪魔をするケースはたくさんあった。
なので、結果的に、彼女に「わざと音を外して歌ってもらう」ことになるのだ。
こんな「贅沢な悩み」を抱えた歌手はそうザラにはいない。

録音の仕事だけでなく、ライブ演奏もたくさん付き合ってもらった。
千葉県の柏市でやったコンサートに、私の小学校時代の恩師を招待した。
たまたまその女先生が柏出身だったからだ。
その時、おおたかさんにも一緒に出演してもらった。
これが唯一私が恩師に果たせた「恩返し」だったのかもしれない。


ウサギの友人たち

ウサギと最初に出会った大学入学時、私が盛んにデートに誘い、そしてお互いの話をしているうちに妙なことに気がついた。
いや、妙なことというのも妙な話で、彼女にしてみればスイスでの高校時代の話をしたに過ぎなかったのかもしれない。
彼女が高校時代に付き合っていた(というのは、彼女のことばなので、どういう付き合いだったのかは私にもわからない)という男性の話を盛んにしてきた。
つまり、そういう過去の男性の話をして私という男を多少遠ざけようとしていたのかもしれない。
そうした彼女の心の微妙な機微は今となっては知る由もないが、私としては、目の前に「好きな女性」がいるのに、その女性から過去の彼氏の話をされるのは面白くない。
こちらも意地でも、こちらを振り向かせてみようと、かえって意地になって、デートに誘ったりする。
とはいえ、時も時、大学闘争の盛んな時期なので、落ち着いてデートにも誘えない。
ということで、彼女の日本の高校(青学高等部)時代の友人や、幼友達などにウサギのことについての探りを入れてみたりする。

一人、本当に小さい頃からのウサギの友人でSさんという女性がいる。
この人の家(祖師谷にあった)にも二人で遊びに行ったことがある。
この女性の父親は、かつて読売ジャイアンツのスタッフの一人で根っからの野球人の人でもあった。
この彼女からウサギの小さい頃(小学生時代)の写真などを見せてもらった。
三つ編みの長い毛を垂らした女の子がそこには写っていた。
流石に私と知り合った頃には、その長い髪の毛はなくなっていたが、それでも長い髪という印象はあった。
大学生にもなって流石に「おさげ」はないだろうから、その小さい頃の写真を妙に印象深く覚えている。
ちなみに、このSさん、アメリカ人と結婚して長くアメリカに住み、帰ってくる気配は一向にない(とはいえ、私と恵子もアメリカで何度か再会しているのだが)。

ウサギの友人は、高校時代の友人たちと大学に進んでからの友人たちに集中していた(この幼馴染みの女性を除いて)。
その中でも、晩年まで交際の続いたUさん(ケーキ作りが得意で六本木のど真ん中に実家のある女性。大学にもウサギと一緒に仏文科に進んだので、とても長い付き合いになる)は、高校時代のウサギの印象をこう語ってくれたことがある。
「彼女は、スイスからの転校生で、それはそれは初めて学校に来た時は、学校中の話題の的だったのよ。だって、昔は帰国子女などということばもなかったし、何しろ<スイス帰りの女の子>なんて、みんなの噂のタネになるのは当たり前の雰囲気だったんだから」

そうか。そうだよな。
ウサギの高校時代といえば、1960年代の半ばだったはず。
その時代に、ヨーロッパ帰りの女の子が話題にならないわけがない。
そんな運命を背負った人だったのだな、と改めて思う。

学校以外のウサギの友人といえば、帯の下絵の仕事をしていた時の仕事仲間のKさん。
彼女は、ウサギと同様に花鳥風月の絵が得意で、特に図鑑に載せる細密画など描かせたら天下一品の人。
この彼女の趣味はキノコ(というか菌類=こういう趣味の人は意外と多い)。
この手の学会の会員でもある(そう言えば、アメリカの有名な現代音楽の作曲家ジョンケージもキノコなどの菌類のファンとしても有名だ)。


バンド活動

日本の大学時代、アマチュアバンドでロックをやっていた。
アルバトロスというハードロック(プログレ系)のバンドだが、この頃に初めてハッパを覚えた。
つまり、マリファナというドラッグなのだが、この時期、このドラッグをやらないミュージシャンの方が逆にレアだった。
ただし、その出会い方は、人さまざま。
私は、このバンドのリーダーの家にバンド仲間と遊びに行った時に、このドラッグとの不思議な出会いを体験した。

大学祭での公演の後(この頃、このバンドはライブハウス出演だけでなく、大学祭での演奏に忙しかった)、バンドメンバー全員でリーダーの家に転がり込んだ。
確か、吉祥寺の近くだったと記憶しているが、今となってはその記憶も定かではない。
誰かがハードロックのレコードをかけ、それに合わせてハッパが回ってきた。
吸い方を誰かがコーチしてくれた。
「ゆっくりと吸い肺の中にしばらく留めてから吐き出すように」。
素直に従った。
それが始まったのは何回目の吸い込みだったかは覚えていないが、急に脳がが不可解な動きをし始めた。
突然、「そこにいる自分」と、そこには存在せずに幽体離脱でもしたような「観念上の自分」とに分離してしまったのだ。
それがなぜわかったかと言えば、一緒にいたバンド仲間の誰かが「あ、こいつ、来てるよ。おかしくなってるぜ」と言う声が聞こえたからだ。
おそらく、その彼の目の前にいる現実の体を持った「私」は、他人から見れば本当にラリって見えたのだろう。
でも、私自身にそんな自覚はなかった。
ただ単に、ハッパを吸っていい気持ちになっている自分がいるだけだった。
しかし、周りの目にはそう見えなかったのだろう。

その「観念上の自分」は、そう言った意味で、「意識だけの自分」だったような気がする。
肉体を持たない「意識だけの自分」。
で、その「自分」は、これまでの現実の「みつとみ俊郎」ではなく、それこそ「世界一才能に恵まれた、何でもできる自分」になっていた。
と同時に、あることに気がついた。
「そうか、これが多くの芸術家やミュージシャンがドラッグをやる理由なのか?!」

バックコーラスの女性、そして彼女の不倫

私と恵子の知り合いに、ある有名アーチストのバックヴォーカルを勤める女性がいた。
彼女が、その有名アーチストと一緒に私たちの自宅を訪れた。
私がそのアーチストに「私の母はかつて神楽坂で芸者をやっていたことがあり…」云々の話をすると、「私の家もそうだったんですよ」と返してきた。
きっとそんな話は、彼のファンにもけっして公開したことはないようだった。

ところが、そのアーチストとその知り合いのコーラスの女性は、ある日から突然同棲を始めてしまった。
その女性にもご主人はいたし、そのアーチストにも妻はいた。
つまりダブル不倫ということになる。
こういう時、その両方を知っている人間は、ある意味、ジレンマに陥る。
どちらの味方もできないからだ。

下北沢のミュージシャン飲み会

元々クラシックのプレーヤーだったヤマネコだが、スタジオミュージシャンをやるようになってから、芸能人やポップス系のアーチストとの付き合いが急に多くなった。
彼ら彼女らよりは多少年上の私が、「兄貴」のように慕われていたからかもしれない。
そんな中始まったある飲み会の幹事を引き受けることになった。

本当の主催は、ユーミンがプロデュースしたある有名女性歌手、とその彼女と当時付き合っていたヒップホップ系のプロデューサー兼アーチストのA。
このプロデューサーが育て上げた有名アーチストの数は数え切れないほどだが、そのような流れで、この「飲み会」には、その当時人気のあったアーチストたちがたくさん集まってきた。
下北沢という街は、昔からミュージシャン、アーチスト、役者たちの溜まり場でもあった。
そして、私の実家にもほど近い場所なので、「地の利」はたしかにあった。
今思えば、よくもまああそこまでたくさんの有名アーチストたちが集まったものだと思う。
そんな「飲み会」の幹事をやっていた。


フレンチポップスのプロデュース

80年代、六本木、渋谷に様々な洋楽レコード(この頃はまだCDは一般的ではなかった)を漁っていた。
その中でも六本木のウェーブというビルの一階にあったレコードショップは、私にとってヨーロッパの珍しいシングルレコードの宝庫でもあった。
その中で一際目立ったジャケットがあった。
それはキャロルセラという女性アーチストのOSE(オズ)という曲。
聞くと、日本の歌謡曲とほとんど同じような展開の曲で、フレーズも耳馴染みのありそうな(もちろん初めて聞く曲なのだけれども)曲で、私はいっぺんにこのレコードに心を奪われていた。

ここから私とフレンチポップスとの長い付き合いが始まった。
そして、キャロル・セラとも。

そして、この私のフレンチポップスへの傾倒が身を結ぶのが、それから一年後の「フレンチポップスフェスティバル」というイベントだった。
このキャロル・セラ、ファビアンヌ・ティボー、コリーヌ・エルメス、ジル・キャプランという4人の女性フレンチポップスアーチストを招いての「フレンチポップスの祭典」だった。
折りも折り、バブル期ということもあり、いくつかのアパレルメーカーがスポンサーになってくれ、青山CAYと(できたばかりの)玉川高島屋で一週間ぶっ通しのコンサートを行った。
とはいえ、まあ、そのコンサートを成功させるための私の苦労は並大抵のものではなかった。
フランスに行って、向こうのエージェントとの契約や打ち合わせに赴いたのはもちろんのこと、楽譜の用意、バンドミュージシャンの手配、リハーサル、その他で神経をすり減らしたのは、私としても初めての経験だった。
その証拠に、最後の日の打ち上げのパーティの席で、皆、口々にこう水をむけてきた。
「みつとみさん!痩せたね!」
そりゃ、そうだ。
「お前たち、俺がどれだけ苦労したか、知らないだろう!」
もう二度とフランス人と仕事で付き合いたくはない!と思ったほどだ(友達として付き合うなら話は別だけど)。


生涯の友

人と人との出会いは、本当に不思議なものだなと思う。
日々出会い、そして日々分かれて行く「人と人」。
でも、そのうちの誰と生涯を通じてお付き合いできるのかは、本人にもその相手にもわからない。
それこそ、中島みゆきの「糸」という曲にあるように、誰が「縦の糸」で、誰が「横の糸」なのかは、ある程度の時間がたってみないと本当にわからない。
もちろん、54年の時間と空間を共有した恵子との出会いも、「その最初の瞬間」には到底わかり得なかった事だった。

その意味で、同じ音楽仲間との出会いも、ほんの数年間だけの付き合いから、最後の最後まで付き合っていけるような関係が築けるのかは、音楽活動を始めただけではわからない。

一人の音楽家がいる。
Tさんという作曲家&ピアニストだ。
彼とは、バンドを一緒にやったところから付き合いが始まった。
そして、彼の結婚式にも出席し、たくさんの仕事をシェアし、そしてプライベートでも家族ぐるみの付き合いをしてきた。
彼の奥さん(実は、彼が教えていた教え子の一人)と恵子は本当になんでも話し合える「友」となっていた。

この彼女、富山の出身でとても朗らかで明るい人だったので、私も、ある意味、なつき、恵子とも仲良くなっていた。
そして、この彼女、二人の娘さんの母でもあったが、時折、私に「今夜のご飯作りに来てくれない?」と声をかけてくる。
私は、どんな時でも料理をしていれば幸せな男なので、そんな声かけにもすぐに応じる。
ただし、事前に電話で「何と何を作るから材料買っておいて」と注文することは忘れなかったが。


NHKの子供番組の音楽担当を任せられる

その頃頻繁にお付き合いのあったある大手レコードメーカーのSさんから急に呼び出しを受けた。
今度NHKに一緒に行かないかという誘いだった。
なんでも子供番組の担当ディレクターに会うことになっているらしい。
その頃の私は「俺がやってないのは、演歌と子供の歌ぐらいなもの」と豪語していたぐらい、ありとあらゆるジャンルに手を出していた。
というよりは、もともとジャンルなんてなきに等しいと考えていたので、まあ最初からなんでもやってやろう、とは考えていたのだが。

そこへ「子供番組」の誘いだ。
とはいっても、この時点ではまだ私が音楽番組の担当になるかどうかはわかっていなかった。
ところが、このSさんと一緒に赴いたNHKで担当ディレクター氏(かなり若い方だ)と会ったその瞬間、私は妙に気に入られたのか、ほとんど即決で採用が決まってしまった(後から聞いた話だと、この番組の音楽担当にはかなり多くの作曲家がオーディションされていたらしい)。
つまり、私は「狭き門」をいとも簡単にくぐり抜けてしまった、ということなのらしい。

さあ、それからが大変。
歌のおねえさんのオーディションはあるは、アレンジをたくさんやらなければいけない、など、思った以上に仕事は多かった。
それでも、そんな「狭き門」を潜ってきたのだから、周りから足を引っ張られることと言ったらそれは大変なものだった。
「天下のNHK」の番組の音楽を任せられるということがどれほどの重責で、どれほど神経を使う仕事かということは、生来の「ノー天気」の私は、ずっと後になってから気づいたのだった。

それにもう一つの発見は、こうしたNHKの教育番組の「オタク」が存在することを初めて知ったことだった。
この時選ばれた「歌のおねえさん」たちとは後々までお付き合いをすることになるのだが、ネット上では、私とそうしたおねえさん達の「あらぬ噂」が拡散していたようだった。
それも、かなりの驚きだった。


伊豆に家を建てる

伊豆に自宅を建てたのが2001年。
最初は別荘として使う予定だったし、実際、そうしていた。
しかし、ヤマネコが伊豆に家を建てるようになったのは、単なる「偶然」ではなかった。
これには、幾つかの「伏線」があったからだ。

一つ目の伏線は、アーチストの来生たかおさんの存在。
彼とのつきあいは、テニス仲間として始まった。
というよりは、その前に文化人類学者の山口正男先生の存在があった。
ヤマネコの親しい編集者から「あるテニスサークルがあるんだけど、一緒に入らないか?」といった誘いを受けた。
それが山口先生の主宰するサークルだったのだ。
自称「山口組」。
この名前を電車で大声で叫ぶと周りの乗客は皆一斉にこちらを見る。
それが楽しくて、このサークルのメンバーは、故意にその名前を連発した。
で、そこでさらに紹介されたのが来生たかおさんだった。
凝り性の来生さんは、自宅付近でもテニススクールに通っていたが、この山口先生のサークルにも頻繁に顔を出していた。

で、来生さんは、よく伊豆高原のキティスタジオでレコーディングを行なっていた。
この当時は、リゾートスタジオでレコーディングするのが一種の「流行り」でもあったからだ。
でも、来生さんの本当の目的は「そこ」ではなかった。
彼は、思い切りテニスを楽しみたかったのだ。
そのために、ヤマネコとウサギも「一緒に来ないか?」と誘われた。

それをウサギに言うと、彼女はこう切り返してきた。
「伊豆高原って、私たちが最初に泊まりがけで旅行に行ったところよね?」
そうだった。
ヤマネコの知り合いの音楽教室のオーナーの別荘が伊豆高原にあり、その別荘を借りて、ヤマネコとウサギはよくそこで過ごした。
そんな縁のあった場所だった。


渋谷の自宅を処分


今思えば、この時期(40代後半から50代まで)が私の人生で最も経済的に安定していた時期だったのかもしれない。
日本で最もメジャーな放送局であるNHKでのレギュラーの仕事や、キッザニア設立の準備委員を務めていたこともあり、収入はかなり安定していた。
音楽家としては充実していたかどうかは定かでないが、かなり目立った働きをしていたことだけは確かだった。
ただ、一方、ウサギとは別居生活をしていた。
彼女が狛江の実家に戻り、私は一人独身生活のような形だったが、正式に別れるようなことはなかったし、その気もなかった。

そんな中、渋谷の富ヶ谷の家と土地を処分し、私、弟、そして姉の三人できれいに財産をスプリットした。
それぞれの使い方は三人三様だった。
弟は、彼の奥さんの実家のある静岡市にマンションを買い、姉は三分の一になった渋谷の富ヶ谷の敷地をアパートと実家にしてそのまま住むことを選択した。
そして、私は、方南町のマンションを借りながら、伊豆高原に別荘を建てるという道を選んだ。
そこがそのままヤマネコとウサギの自宅、そして「(ウサギの)終の住処」になるとはその時点では想像もしていなかったのだが。


女性オーケストラ<フルムス>

私が、女性プロ音楽家だけを集めて女性オーケストラ<フルムス>を作ったのが2007年。
それまでに、女性フルーティストだけの<フルフル>というバンド(多分、この場合バンドという言い方が一番適切だろうけど、一般的に見れば「女子十二楽坊」のような音楽グループになるのかもしれない)の活動を行っていた。
最初は、新大久保の楽器店ダクの協力で、大掛かりなオーディションを行った。
審査員も私を含め5人ぐらいが50人ぐらいの応募者の審査を行った。
そこで選ばれた7人を鍛え、デビューさせる企画だったのだが、私自身がちょっとその企画に疲れてしまったのと、途中からスタッフとして加わってもらった人が、まあ、ちょっとした食わせ者で、私のプロジェクトごと横取りされてしまった、という顛末があり、このプロジェクトは途中で頓挫してしまったのだけれども、その代わりに、今度は(フルートだけでなく)すべての楽器を集めて「女性オーケストラ」を作ることになった。
まあ、これも最初から全部の楽器が揃っていたわけではなく、最初は、フルフルの流れでフルート数人とハープ二人、という超変則的なアンサンブルで始まった。
最初のデビューライブが、赤坂のノベンバーイレブンス。
私がずっと個人のライブをやっていた、宇崎竜童さんと阿木燿子さんご夫妻のお店。
それが、発展して40人編成程度のオーケストラにまでなったのだが、私自身がヴォーカル好きということもあり、ヴォーカルつきオーケストラ、というこれまた超変則アンサンブルになってしまったのだ。

さらに、もっと超変則なのが、その活動。
普通に、ホールでのコンサートも行っていたが、私が興味を持っていた音楽療法とこの若い女性アーチストたちとの接点を求めて、(今はなくなってしまったが)、当時都内と近県に百軒以上の施設を経営していた株式会社「ワタミの介護」と音楽サービスの契約を結ぶことに成功した。
ある方の仲介で、プレゼンを何度も行い、実際の仕事にすることに成功したのだが、この会社自体が日本で一番大きな損保会社に吸収され、もうこの施設運営会社はなくなってしまった。

恵子が病気で倒れてしまったのは、そんな活動を行っている最中だった。


うさぎのフランス修業

ウサギの作った短歌の一つ。
「パリよりは一世紀遅れているという村の家々 石積み囲う」

彼女は、この時期、一人南仏を旅する。
旅の目的は、遊びではなく「家具絵付けの講習」。
下記は、彼女自身のことば。

「フランスの雑誌に家具絵付けの講習に興味を持ち、問い合わせをした。
パンフレットが届き、その翌年の夏、パリから列車で7時間ほど南下したロゼール県にあるアトリエでの講習に参加した。
初めての土地であったのに、懐かしさを感じた。
若い頃から好きだった絵画や文学を通して、自分の裡に作りあげていた南仏のイメージと現実とが重なって見えた」。

私は写真でしかこの時のウサギのフランス生活を知ることはできないが、彼女にこれほどの意思と積極性があったことに少し驚いたことは確かだった。


恵子の脳卒中発症

再び同居を始めた私と恵子は、伊豆と東京を行ったり来たりの生活をこの時点(2005年ぐらいの時期)から始めていた。
と、ほぼ同時に、恵子の実家の母がガンを患いその世話のために恵子はしばしば狛江にも戻るようになっていた。
恵子とその母の絆は深かった。
デコパージュやトールペインティングを教えながら、そしてその代理店にも通っていた恵子の疲労は相当に蓄積していたはずだった。
狛江、伊豆、そして方南町と3点を行ったり来たりする生活。
さらに母の看病と介護、そして仕事といった彼女のストレスと疲労はとんでもない結果を生み出すことになった。

あの日は、忘れもしない、2011年の9月の初頭。
台風のような風の吹き荒れる嵐の日だった。
電話が鳴ると、受話器の向こうから聞こえてきたのは、恵子の一番下の弟の声だった。
「恵子が倒れたよ」
一瞬、何のことか理解できなかった。
「倒れた?」「誰が?」
恵子だとは微塵も思わなかった。
「おばさん?」
狛江で同居する恵子の叔母だとその時点では信じて疑わなかった。
しかし、実際はもっと冷酷な全く別の事実が告げられていた。
恵子が脳卒中で倒れて、救急車で病院に運ばれたのだという。

私は、状況を確認しながら、外出の準備を始めた。
東京医療センター。
昔の国立第二病院だ。
目黒の八雲にある相当大きな病院だ。
車を走らせながらいろんなことを想像した。
最悪の事態も想定した。

病院に着いたのは夜中12時過ぎだった。
病室の前には、恵子の一番下の弟がいた。
彼の説明は理路整然としていたので、私も状況をきちんと理解することができた。
恵子は、狛江で叔母とご飯を食べようとしていた時、急に吐き、倒れ込んだという。
慌てて叔母が119番通報をして連れてこられたのがこの病院だったというわけだ。
ある意味、叔母がそばにいたのが不幸中の幸いだったかもしれない。
私の小学校時代の友人は、実家のお寿司屋さんの閉店後、店で倒れ朝まで誰にも発見されなかったという。
幸い命は取り留めたがかなりの後遺症に悩まされていた。
恵子の身体も、右半身麻痺という状況に陥ったが、それでも言語障害だけは免れた。
ことばを失ってしまわずに済んだのは本当にラッキーとしか言いようがなかった。
ヤマネコとウサギの間のコミュニケーションができなくなることだけは避けられたのだから。

東京医療センターに半年、そしてその後のリハビリのために、川崎市麻生のリハビリ病院にも半年入院し、そして二人で伊豆での療養生活が始まった。


ウサギの入院生活

ウサギが倒れた翌日、彼女は目を覚ました。
ほとんど一晩中彼女を見ていた。
「なんでこんなことになったのだろう?」
最初はそう考えた。
しかし、次の瞬間、その思いはすぐに打ち消された。
「これは啓示に違いない」
彼女が倒れるまで私がやっていたことは「音楽と介護」をどうやったら仕事に結びつけられるかと言うこと。
そのために、フルムスの女性アーチストたちの助けを借りながらさまざまなことをやっていた。
とは言え、それらは単に私が「頭で考え、そしてこうするべきと企画し実行してきたこと」。
正直、私には介護の経験がなかった。
小さい頃に両親を亡くしたので、大人になってから「親の面倒を見る」と言う経験は皆無だった。
そんな私が「介護」の真似事をやっている。
きっとそんな私に神様が「お前もきちんと自分で介護の大変さを知りなさい」と機会を与えてくれたのだろう。
そう考えると、妙に心が落ち着いた。

恵子は、ベッドに横たわりながら自分の置かれた状況を必死に把握しようとしていた。
しかし、入院して一週間ほどは、「事の重大性」を全く認識していないようだった。
「いつから仕事にいかれるかな? あそこに連絡してくれた?」
そう私に尋ね、すぐにでも仕事に復帰できる気でいた。
自分の状況を本当に認識するまでには時間が必要だったのだろう。

彼女のリハビリに何か役立つことは?と考え、入院の翌々日にスケッチブックと色鉛筆を差し入れた。
それで、彼女が自由に(日記代わりに)絵を描いてくれたらという思いだった。
そのスケッチブックは、最終的に40冊以上に積み上がっていった。


ウサギのスケッチブック

ウサギの描いたスケッチブックの中にこのような記述がある。
「こんかい 秋をみていない
すぎてゆく日々はひたすら
小さなはじまりを待つこと
ひとつのことができたとよろこぶこと
右手もがんばってかこうとしている
右手よ  キャンバスに絵だ
わすれない」

クレパスでたどたどしく書かれたひらがなや漢字は、まま。
力のない左手で懸命に描いたその絵や文字は、彼女の悲痛な叫びのようでもあった。

そして、急性期病院からリハビリ病院に移ってからもその叫びは続く。
「すぎてゆく日々は いままでとちがう
すべてが新しい始まり
またサイレンの音がひびいている
急病棟があるから
休日の夜
しずかな早い夜のはじまり」

多少、左手や右手でのクレヨンの使い方に慣れたのか、その文字は以前のものよりはスッキリしている。
それでも、辿々しさは変わらない。
ウサギの頭の中での右手と左手の葛藤はどのようにめぐっていたのだろう。
(ヤマネコが)その心理を尋ねることはなかった。


ヤマネコの音楽療法

ウサギが脳卒中で入院したのはひょっとしたら「神の啓示」なのではとヤマネコは考えた。
なぜかと言えば、それまで女性オーケストラのメンバーたちを従え、施設や病院などで「音楽療法」的な活動も行っていた。
とは言え、ヤマネコは音楽療法士でもなく、その資格を取ろうともまったく考えてはいなかった。
ヤマネコは、むしろその「資格」に懐疑的ですらあった。
根本的に、「音楽というのは、そのすべてが癒しであり、治療である」と考えていたヤマネコは、音楽と音楽療法を分けて考えることすら「ナンセンス」だと思っていたからだ。
なので、恵子が脳の病気を発症し長期に渡って入院生活を強いられたことは、ヤマネコにとって、ある意味、「啓示」以外の何者でもなかったのかもしれない。

「お前は、口では音楽は病を癒し治療に役立つと言っているけれども、それはけっして実践の伴ったものではないだろう。そんなお前に実践の機会を与えてやろう」。
(ヤマネコは)そう言われているような気がしてならなかった。

手始めに、ヤマネコは、ウサギの病室にiPodを買って持っていった。
彼女の好きなフランソワーズ・アルディなどのフレンチポップス、シャンソンやクラシック、そして谷山浩子などの曲をたくさん入れて。

もちろん、彼女に贈ったスケッチブックは、彼女の絶好のリハビリの道具になっていた。
そして、(ヤマネコは)改めて彼女の「才能」に驚かされることになった。
ウサギは伊豆の自宅から見える景色や周りの草花をよく描いていた。
しかし、目の前にあるのは、伊豆の海ではなく、病室の殺風景な光景。
なのに、彼女の記憶力と描写力は、そんなことはものともしなかった。
今目の前に伊豆の海が見えているかのような正確な描写に私は度肝を抜かれたが、絵に限らず、音楽でもこうした「想像力(イマジネーション)」が最も大事なスキルなのだということを彼女は身をもって示してくれたのかもしれない。

絵画というのは、けっして絵筆を持つ指が作り出すものではなく、その人がどれだけ頭の中にその「造形や色」を思い浮かべることができるかにかかっている。
同じように、音楽でも、楽器を奏でるための指がそれを作るのではなく、アーチストが頭に描いた(というか、鳴らした)音をどれだけ忠実に「音を通して再現できるか」にかかっている。
この頃のヤマネコは、こうしたウサギのスキルと一緒に暮らしていける喜びを日々味わっていた。


肩たたき

日本の医療保険制度は、完全ではないにせよなかなか良くできた制度だと思っている。
国民皆保険の日本では、(アメリカのように)「医療費が高いから」と治療を受けず、あるいは(保険がないからと)治療を拒否されるようなことはまずない。
とはいえ、ウサギのような高度な治療を必要とする(しかも)緊急性の高い病気の場合には、都内のハイレベルな医療機関に入院治療を受けることができるが、こうした「急性期病院」にはそう長くは入院していられない。
なので、ウサギのようにリハビリが大事な患者は、一ヶ月も過ぎた辺りから「リハビリ病院は決まりましたか?」的な「肩たたき」が始まることになる。
もちろん、病院側も面と向かって「早く出てください」とは言えない。
だから、自然とこうした聞き方をすることになるのだ。

(そう言われた)ヤマネコは、いくつかのリハビリ病院を探して回った。
おそらく、都内で最もリハビリ病院として有名なのは、あの巨人の有名スター野球選手が入院した初台の病院なのだろうが、私は、そこが自宅から近かったにもかかわらずそこを見学することは一度もなかった。
そうしたミーハー的な匂いのするものに嫌悪感を抱いていたからだ。
最終的に、ウサギの実家のある狛江にほど近い川崎の麻生リハビリ病院に決めた。
入った瞬間の病院内の「明るさ」にヤマネコは心ひかれたのかもしれない。
そして、その担当医の患者へのアプローチにも感動した。
すべてに「上から目線」の急性期病院の大先生とは違い、最初の訪問の時に、ベッドの脇に跪き患者と同じ目線に立って話をするその姿勢に感動したのだ。

ほぼ毎日のように狛江からその病院まで通った。
(この病院は)そのために選んだようなものだった。
面会時間ギリギリの6時までヤマネコは粘り、そして時にウサギと一緒に食事をして帰ることもあった(この病院では、家族との食事が、一定のエリアでは許されていた)。
各駅停車で狛江から5つ目のその駅との往復は、ある意味、ヤマネコにとって「至福の時間」だったのかもしれない。

そして、その病院でほぼ半年を過ごした後、ヤマネコとウサギは、伊豆の自宅でリハビリ療養生活をするために戻っていくことになる。


最も辛かったこと

最初の頃は恵子のリハビリも順調だった。
彼女自身も前向きに回復させようとしていた。
しかし、杖で歩くことはそれほど容易なことではなかった。
ごくたまに転ぶ。
右半身麻痺の身体は健常者のそれとは根本的に違う。
健常者は、転ぶ時、無意識に受け身をする。
つまり、倒れる時の衝撃を身体のどこかで庇ってダメージを最小限度に抑えようとする。
それが人間の本能でもある。
しかし、身体の半分の自由のきかない恵子は、身体で受け身をすることはできないのだ。
なので、倒れ込んだ衝撃を身体(特に骨)がまともに受け、骨折することがあった。
一度ならずも二度までも大腿骨を骨折し、手術まで行った。
ところが、手術を担当した(伊東市民病院の)W先生には、医者として人間として「いかがなものか?」と思うような言動がしばしば見られた。
退院後、診察に通っていた時にも、ウサギはよく怯えた。
この先生の物言いが、かなり高圧的だったからだ。
しかも、不用意なことばが多い。
「そんなことを言ったら患者は絶望するんじゃないか」と思われるようなことを平気で言う。

そのせいかどうかはわからないが、恵子は次第に杖で歩くことを恐れ、ある時からすっかり車椅子から離れなくなってしまっていた。
歩く努力をしなくなってからのウサギの体力はどんどん衰えているようだった。
筋肉を使わなくなってしまったので、トイレに間に合わないこともあった。
それまでは、トイレに何の問題もなかったにもかかわらず、この変化は、恵子にとっても私にとっても大きな出来事だった。
結果、彼女のメンタルは時々(どうしようもないほどに)落ち込んでいくようだった。

私が彼女から一番聞きたくなかったセリフが割と頻繁に聞かれるようになったのもこの時期からだった。
「私なんか何の役にも立たないんだから、捨てちゃいなよ」
これを言われるのが、ヤマネコには一番つらかった。
彼女の世話をしながらもヤマネコは一度も「大変だ」と思ったことはなかった。
むしろ、彼女の世話をできることが嬉しくさえあった。
人は、誰かに何かをしてもらうことよりも、誰かに何かをしてあげることの方がはるかに幸せなことだということを、ある意味、ウサギの世話をしながらヤマネコは悟っていたからだ。
別に、ウサギがヤマネコに何かをしてくれる必要は全くなかった。
ただ、そこにいてくれさえすれば、ヤマネコはそれだけで幸せだった。
ある意味、生きる希望でもあり、生きがいそのものだった。

ただ、そう彼女に訴えても、彼女が私のその言葉をどれだけ理解してくれたのかどうか、今となっては知る由もない。


伊豆での暮らし

恵子の脳卒中罹患と同時に二人とも本格的に都内から伊豆に居住を移した。
もちろん東京での「療養リハビリ生活」という選択肢もあったが、私たちはそれを選ばなかった。
ウサギが本当に伊豆の自宅から見える風景や環境を気に入っていたからだ。
(都会が大好きでナイトライフが何よりも好きだったヤマネコと違い)もともと草花や自然が大好きだったウサギにとって伊豆の自然とその景観は申し分のないものだったのかもしれない。
入院当時から描き始めたスケッチブックにも伊豆の自然や海、草花が描かれている。

気がついてみると、そのスケッチブックは50冊を超えていた。
短歌の同人誌に定期的に投稿し、そしてスケッチブックに好きな絵を描く。
そんな生活を伊豆の自宅で楽しんでいるようにも見えた。
しかし、その(表面的な)楽しさの陰では、外にも出られない、自由に歩けない、そして、何よりも(これまで通りの)結婚生活を送れない悔しさを思いっきり心の中にため込んでいたのかもしれない。
そして、そんな「悔しさ」を紛らわせてくれるのが、短歌を書くペン(実際には携帯で打ち込んでいたのだが)と、絵筆だったのだろう。

そして、時に、そうした「ストレス(と言って良いのかどうかもわからないが)が爆発する時「こんな役に立たない私なんか捨てちゃいなよ」というセリフが出てくるのだった。
そうした、一見「苦悩」とも思える二人の生活をなんとか維持していこうとした原動力、つまりモチベーションは、「毎日明るく楽しく生きていこうよ」という二人の了解関係。
そして、何よりも、お互いを強く支えられたのは、二人の間に他人には共有できない強い「愛」があったからに他ならない。


ヤマネコとウサギの関係の微妙な変化

伊豆自宅での二人の生活は日々平穏を保ちながらも、少しずつ微妙に変化していた。
ウサギの半身は動かない。
当然、家事一切はヤマネコが担当する。
それ自体には何の問題もなかった。
元々が「主夫」に憧れていたヤマネコだ。
ある意味、願いがかなったのかもしれない。
しかし、「毎日、明るく暮らして行こう」と二人で誓い合ってはいたが、それでも片方が介護し、片方が介護される生活は、どこか(肉体的にも精神的にも)変則的なバランスを二人にもたらす。
一年365日、三度三度の食事の世話をするのは、いくら「料理好き」のヤマネコでも少しずつ負担になっていったのだろう。
一方のウサギにとっても、自分ではまったく家事一切できないことに対する負い目や悔しさが日々募っていったに違いない。

朝昼晩、食事時になると、ウサギはテーブルの前で食事を待つ。
一方、台所にいるヤマネコはせっせと食事を作る。
そんな光景が来る日も来る日も繰り返されていく。
そんなある日、突然、ヤマネコの中で変化が起こった(と、ヤマネコは感じた)。
料理が苦痛で苦痛でたまらない。

こんなことは、ヤマネコの生涯で一度も起こったことはなかった。
小学校に上がる前から台所で祖母の料理作りを楽しそうに眺めていたヤマネコ。
そんなヤマネコの夢は、一時「シェフかパティシエになること」まで膨らんで行った。
しかし、突如襲ったウサギへの病魔との闘いから、ヤマネコは料理への情熱を失いかけていた。
一方、出された料理を黙々と食べるウサギ。

こんな生活がいつまで続くのだろう。
ウサギはウサギで、そしてヤマネコはヤマネコで考えていたに違いない。


別れの予感

2週間ぶりに恵子が、(骨折の治療のための入院を経て)病院から戻ってきた。
最初は1週間ぐらいと言われた入院だったが、結局2週間になってしまった。(その間に)体を休めろと多くの人から促されたが、それも果たして実現できたかどうか。
その間に、一度東京での演奏の仕事も果たした。恵子の容態次第でこの仕事もキャンセルか?とも思ったが、なんとか無事責任は果たせてほっとしている。
よく舞台の仕事をする人間は、「親の死に目にも会えないかもしれない」と言われるが、家族より大事なものなんてこの世に存在するのだろうか。ましてや、自分の人生にとって最も大切な存在だったら何よりも最優先させるはず。仕事なんて、二の次、三の次で良いのでは、と私は思う。

恵子のいないこの2週間の違和感をどう表現したら良いのだろう….ことばに悩む。
この50年間、常に目の前にい続けた存在が(目の前から)いなくなるということがこういう違和感を生むものなのか、と。
いつかはわからないけれども確実にいつか訪れる「別れ」の予感ともいうべきものを私は味わっていたのかもしれない。
人の世に「永遠」なものは何一つないのだから、自分自身の存在か(自分という存在がこの世からいなくなるということを自分自身が認知できるものなのだろうか)、あるいは自分にとって最も大切な存在が、自分の手からすり抜け落ちてしまう日の予感は辛いが、その日の覚悟はきっと必要なのだろう。


ウサギの苦悩と短歌

ウサギが、短歌雑誌「ぱにあ」の同人になったのが2001年。
それまで短歌とは縁のなかった彼女がなぜ、どうして短歌をやる気になったのかは、私にもよくわからない。
しかし、それまでに自費出版の詩集を2冊出し、「詩人満冨恵子(この場合、新見恵子と言った方が良いのかもしれない)」としてのレゾンデートルは確立されていた。
しかしながら、そのペンの矛先は、今度は三十一文字(みそひともじ)の短歌に向けられるようになっていた。
そして、それがウサギにとってもヤマネコにとっても本当に幸いなことだったことは、彼女の死後はっきりすることになる。

俳句には季語が必要だ。
しかし、短歌にはそれが必要ではない。
その分、短歌の作者は、詩のように、作り手の感情をことばの中に直接ぶつけることができる。
ウサギの短歌の数々を見てもそれはよくわかる。
ヤマネコとのアメリカや日本での生活。
そして、父との別れ、母の病、そして弟の病と死、と言った人生の苦悩をそのまま彼女は、ことばに紡ぎ「歌」を作っていった。
その作業によって、ウサギは自分の苦悩から解き放たれ、そして自分という魂を世の中と外界と結びつけることに成功したのだ。

2001年から始まったウサギの「短歌人生」の最初から付き合ってきた雑誌「ぱにあ」の編集長は、最初から「詩人が初めて挑戦した短歌の、随所に見られる詩情に私は刮目させられた」らしい。
それだけウサギには「短歌の才能」があったのだろう。
遠く柳原白蓮にもつながる彼女の「血」がそうさせたのかもしれない。

季刊の雑誌に投稿するために書きためていた短歌の一部を地元のローカル新聞にも投稿していた。
その彼女の創作方法は、(病気をして以来、不自由な右手を庇うように)左手で携帯に打ち込むことだった。
そうして書いた短歌を10篇、まとめてヤマネコがパソコンに打ち込み、せっせと投稿していた。
そんなウサギの短歌の清書作業を手伝いながらも、ヤマネコはウサギの創作を読む機会はあったものの、そのウサギの内面と本当の意味で向き合うことができたのは、(死後)ウサギの「短歌集」を発行する段階になってからであった。

脳腫瘍での入院、退院、そして恵子の旅立ち

それでも、ヤマネコとウサギの生活は穏やかに過ぎていた。
その平穏が破られたのが、2022年の11月だった。
それは、ヤマネコにとってもウサギにとっても「唐突な瞬間」だったと思う。
特に、ウサギにとっては自身の脳卒中の発症以上の「人生の一大事」だったに違いなかった。

ある土曜日の午前、その日の午後に予定されていたコンサートを鑑賞しようと身繕いのために入浴の準備をしていたヤマネコの行動が全ての「均衡」を突き破ってしまった。
ヤマネコは、当然のごとく風呂場で脱衣をしようとした。
しかし、どういうわけか、最後の下着が外れない。
外れないという言い方がおそらく一番適切なほど、ヤマネコは自身の身体のコントロールを失っていたのだ。
別に、倒れ込んだわけではない。
突如、身体を動かすことができなくなってしまったのだ。

慌てて、ヤマネコはウサギに助けを求めた。
とはいえ、車椅子の彼女になす術はない。
彼女は、咄嗟に、いつも来ていた訪問看護師さんに電話をかけた。
多分、そのせいだろう。
救急車はすぐにやってきた。
そして、ほとんど裸同然の私は、救急車の担架で運ばれそのままドクターヘリで長岡の順天堂大学病院まで運ばれていったのだ。

私が脳腫瘍と診断され手術と受けたのは、その日から3日後のことだった。

離れ離れの一ヶ月

ヤマネコがウサギの介護を始めてからほぼ確信的に思っていたことはただ一つ、「ウサギより先には死ねない」ということだった。
身体の不自由なウサギを一人残して自分が先に逝くことだけは避けたかった。
その思いで必死で生きてきたのかもしれない。
しかしながら、この年(2022年)の11月に脳腫瘍で倒れてしまったヤマネコは病院に入院し、ウサギは一人自宅に取り残されてしまった。
つまり、ヤマネコにとって「最も避けたい状況」が予期せぬ形で起こってしまったのだ。

普通だったら、被介護生活を送るウサギは施設なりにショートステイで生活することになったはずだ。
彼女のケアマネージャーもそれを強く勧めた。
しかし、ウサギはそれを断固拒否し、一人で自宅で頑張っていた。
それを知ったヤマネコは強く心配したが、遠く離れ入院生活を送るヤマネコになす術はなかった。
ヤマネコが無事に自宅に戻れたのは、入院からちょうど一ヶ月後の12月3日のことだった。


唐突なウサギの旅立ち

「死」というのは、いつの場合も、誰の場合も、突然、唐突にやってくる。
特に、ウサギの場合の「旅立ち」はあまりにも突然だった。

ヤマネコが退院して自宅に戻り、ヤマネコとウサギの人生の第二段階(あるいは、第三段階)への準備を少しずつ行おうかと思っていた2023年の1月5日に「その瞬間」は唐突にやってきた。

数年前から訪問看護師さんに入浴の介助をしてもらうようになっていた。
ヤマネコにとって、それはある種の大きなストレスからの解放でもあった。
2011年に病気になり入院、そしてリハビリの生活にあったウサギは、他の脳卒中の患者と違い、右半身の麻痺以外は、本当に健常者と変わらなかった。
ただ単に「(身体の)右側が動かない」という状態がどれほどもどかしく「悔しい」ものだったかは、ウサギ本人でないとわからないが、ヤマネコがウサギの世話をしていたのは、ウサギの身体の介護というよりも、日常生活を維持するためのハウスキーピングの維持者としての役割の方がはるかに大きかった。
つまり、ヤマネコの役割は、「主婦」とほぼ同じだった。

「その日」は、少しでも生活費を切り詰めようと、携帯電話の契約を見直しにショップに出かけた矢先に起こった出来事だった。
ヤマネコがショップに出かけ、そして帰宅する途中、ちょうどその時間帯に自宅を訪問していた看護師から電話を受けた。
通常、看護師さんがヤマネコに電話をしてくることは稀だったので、ヤマネコも「嫌な予感」がした。
看護師さんは「奥様の呼吸が止まってしまいました。至急お戻りください」。
え?! そんなバカな!
耳を疑うような看護師さんのことばに、ヤマネコはまだ事の重大性を認識できずにいた。
しかし、とりあえず帰りを急いだ。
そんな時に看護師さんから2回目の電話があった。
救急車が市民病院まで搬送するのでそちらに向かってください。
そんな指示だった。
慌てて病院に向かったヤマネコはウサギを搬送するはずので救急車よりも先に病院に到達していた。
待つこと15分ほど。
やっと救急車が到着したが、ヤマネコになすすべはない。
ひたすら救急病棟の横で待つこと1時間。
やっと看護師が現れ「チームで蘇生を試みましたが、もうこれ以上は、奥様の身体を傷つけるだけですので、先ほど蘇生を停止しました。すぐに医師が報告に参ります」。

そうか、やっぱりダメだったか…。
未だに、信じられない自分がいたが、ヤマネコの心の中では「ちゃんと受けいれるしかないよ。これがウサギの運命だったのだろう」という声がした。
それでも「なんで?どうして?今なの?」という叫びも一方でしていた。
さらに追い討ちをかけるように、看護師が「ご遺体の引取はどうしましょうか?葬儀社に任せた方が良いので、葬儀社の方をお決めください」。
まだ最愛の彼女を失ったばかりのヤマネコに薄情な看護師のことばが宙をよぎっていく。
そこから遺体と一緒に自宅に戻るまでの時間のなんと長かったことか。

恵子の見送り

どういった形で恵子を見送れば良いのか?
普通の葬儀など無論やる気はなかった。
宗教的な儀式も一切行うつもりもなかったし、恵子を知る友にはできる限り見送って欲しいと思ったが、さてどうやって知らせものかと思案した。
恵子の携帯に残されているアドレスは、携帯を変えたばかりでほとんど記録されていなかった。
それこそ、古い葉書や手紙の類を引っ張り出した。
「きっと、全員に知らせるのに数日はかかるだろうな…」そんな感じで途方に暮れたが、恵子の亡くなった当日の夜、思いがけない来訪者があった。
どこでどう情報を仕入れたのか、いとこのエリコの子供のニナ子とその家族(ご主人、子供二人)だ。
ニナ子以外は初対面の人たち。
私の家のベッドに眠る恵子の遺体を見ている怪訝そうな顔の子供たちに、私と恵子の姿はどう映ったのだろうか?

それから数日は、友人たちが次々に来てくれた。
火葬の都合で、5日間の日が空いた。
10日をお別れ会に設定したが、当日来れない人の方が圧倒的に多かった。
それはそうだろう。
都内ならまだしも、伊豆の家までわざわざ足を運んでくれるような人はそれほど多くない。


恵子の短歌集出版

ウサギの遺品を整理していて気づいたことは山ほどある。
というか、「気づかされた」という方がより正確だろう。
例えば、数多く残された写真とかでもそうだが、私がウサギのどこに魅力を感じていたかが、時空を飛び越えて「その瞬間」まで戻っていくのは当然のこととしても、思いがけない「発見」もたくさんあった。
それは、彼女の「才能」の数々だ。

彼女が生きている時には、正直、ほとんど省みることもなかった彼女の「詩人」としての才能。
それは、お菓子の木箱の中に残されていた数本のカセットテープに残されていた。
彼女自身が朗読した、日本語、英語、フランス語の「詩」のテープだ。
彼女の「肉声」が残されていることも私にとっては、本当に貴重な贈り物だが、それ以上に驚いたのは、彼女の英語やフランス語の発音の流麗なことだった。
小さい頃、スイスに住んでいた帰国子女だから当たり前、なのではないと思う。
これも、彼女の「詩人」としての才能の一つかもしれないと感じた。

中井英夫という作家に傾倒して、ファン心理からか、彼の家にまで押しかけたことのあるほどのウサギだ。
どこにそんな情熱があったのか、本当に不思議だが、中井英夫の作家としての才能に惚れ込んだのか、それとも薔薇やその神秘主義的な語法に惹かれたのか、今となっては尋ね由もないが、彼女が詩人として残してくれたものは決して少なくない。
自費出版した2冊の詩集。
そして、何よりも、死の20年ほど前から始めた「短歌」の創作が彼女の生きる指針でもあったろうし、何よりもその「詩的才能」は見事なまでに短歌というフォルムに結集されていた。

彼女が世を去る当日も「早く短歌集出したいな」と呟いていたことをヤマネコは決して忘れてはいなかった。
彼女の死から半年後、その「短歌集」は出版された。
「やまねこうさぎの夢」というタイトルの短歌集には、彼女の残した短歌のすべてが収められている。
それを読み、「これほどまで豊かに自己の感情を言葉にできた詩人」と長年一緒に暮らすことのできた幸せをヤマネコは今さらのように味わっていた。


そして、一人残されたヤマネコの未来は

どんなに愛し合った二人であっても、同時にこの世を去ることはできない。
この世に生まれ落ちた場所も瞬間も違っている二人が「出会い」そして「別れる」。
ただそれだけのことなのに、先に逝く人間と後に取り残される人間ができてしまう。
何年も一緒の時間を共有した空間に一人取り残される寂しさがこれほどのものだったとは、ヤマネコにも到底想像はできなかった。
辛い。
悲しい。
そして、寂しい。

これから、一人で一体「何をやれば良い」というのだろうか?!
なぜ、私だけが一人この世に残されてしまったのだろうか?
どうして私はウサギと出会い、そしてまた別れてしまったのだろうか?
その答えを出すために、ヤマネコがやるべきことは一体何なのだろう?

きっとまだやらなければいけないことが何か残されているのだろう。
それをやり遂げれば、私はまた再びウサギと愛見えることができるのだろうか?
それとも….





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