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納豆と人生、そして父について(2023.07.10)

私はずっと追求している。人生をかけて。

何を追求しているか?言わずもがな、納豆ごはんをいかに美味しく食べるかについて、だ。

かつて私はあらかじめ用意されたレールの上をお行儀よく走ることしかできなかった。すなわち、納豆のパックを開いたらそこにあるタレ、あるいはカラシを納豆に混ぜ、これをご飯にかけるというオーソドックスな食べ方のみを行っていた。能天気にも、そこに何の疑問も持たなかった。

そして、小さい頃目の前で毎朝繰り返される光景があった。それは父親が麺つゆで作った卵かけご飯の上に添付のタレをかけた納豆をかけて混ぜ、これをガガッと掻き込むという、あまり見た目によくない光景だった。

弟はこれを見て納豆が嫌いになり、つい最近まで納豆を食べることができなかった。それくらいあの食べ方は納豆の匂いも伴って弟にとってトラウマになっていたのだ。

私も同じように、そんな食べ方を否定し、蔑んでさえいた。そして同時に父の生き方をも否定していた。父は公務員だったが、私は「公務員になんてなってなってたまるか」と思っていたし、あんな下品な食べ方だけはしたくないと心に誓っていた。

しかし、やがて私の人生がレールから大きく脱線するのと時を同じくして、私の納豆に対するアプローチも徐々に「普通」から逸脱していった。

まずタレを使うのをやめた。タレの替わりに自ら用意した醤油、もしくはポン酢や麺つゆを使ってみた。やがてそれが塩に変わり、そこにワサビを入れたり、柚子胡椒を入れたり、逆にカラシを入れてみたりして、味の追求を日々行っていた。

最近では地元メーカーのダシ醤油みたいなものを多用していたが、再び塩、そして味の素の使用をベースに、そこにカラシ、ワサビ、柚子胡椒などをその日の気分によって投入し、その割合を変化させるなどして、いかに納豆を美味しく食べられるかを試行錯誤していた。

しかしカエルの子はカエル。長い紆余曲折を経て、最も納豆を美味しく食べることが出来るレシピは、麺つゆを用いた卵かけご飯に添付のタレをかけた納豆をかけて混ぜ、これをガガッと掻き込むという、まんま父親と同じスタイルであるという事に気付いた。目の前では長男がキムチをのせた白飯をお行儀よく食べていた。

圧倒的に美味い納豆卵かけごはん。斜めに差し込む朝日を受けて、神々しくさえあるその姿を見るに、信条やイデオロギーは容易に身体的要求によって覆されるという敗北感に笑った。「結局回り回って結果がこれかよ」と、父親を否定したあの朝に数十年を経て戻ってきたかのようで、血は譲れぬものなのだなという、呪いにも似た思いを得た。

お盆、もし帰省をする事が出来たなら、すっかりおじいちゃんになってしまった父親に「結局お父さんの卵かけ納豆ご飯が一番美味しかったよ」と告げようと思う。


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