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『平家物語』/犬牽エッセイ・シリーズ《人に仕え、犬に仕えた犬飼たち》

 日本の伝統的なドッグトレーナー犬牽イヌヒキを継承する筆者が、その目線でアレコレを見境なく語るエッセイシリーズ。
 今回は何かと話題の〝平家物語〟を取り上げていきたい。

 二〇二二年、平家物語は異例の盛り上がりを見せている。
 サイエンスSARU制作+ 古川日出男原作によるアニメ版『平家物語』とアニメ映画版『犬王(原作タイトル:平家物語 犬王の巻)』が地上波放送&上映に加え、大河ドラマも平氏と源氏がぶつかり合う三谷幸喜作『鎌倉殿の13人』が開始された。
 まさか令和四年に平氏とか源氏とか、そんな単語が飛び交うことになるだなんて。当時の人々は、まったくもって想像に及ばなかったことだろう。

 平家物語を簡単に説明すると、鎌倉時代の虚実混交な軍記物語(合戦史を題材にした文学ジャンル)だ。名称の通り平氏(武士として発展した一族)の栄枯盛衰を記した一作となっており、冒頭の「祇園精舎の鐘の声~」は国語の授業の暗唱も伴って多くの人々の脳裏に記憶されているはず。
 だが・・・平家物語との関係は、それ以上でも以下でもないのが現代日本人の現状だろう。
 かくいう私もそれこそ中学生の時分に授業で出会ってからというもの、長らく興味を持てなかった。要は、取っ掛かりがないのだ。それこそ平氏も源氏も身近ではないし、舞台となった地と縁があるわけでもない。そんな私にとっては海外の歴史物語(それこそシェイクスピアの『ヘンリー六世』とか)と同じくらい、己との距離が遠いなぁと感じる一作だった。

 ではいつ頃その距離が縮まり始めたのかと言えば、ことのきっかけは私が本格的に〝鷹匠〟(猛禽のトレーナー)修行を開始+鷹狩文化研究を始めた大学一年生の時分だったと思う。
 当時の私は伝統的な実技を鷹匠の師匠から習うのと同時に、大学では教授と共に古今東西の鷹狩文化の研究に躍起になっていた。
 中でも神話や伝説そして古典小説に記された鷹狩の模写は、失われた技術や思想の多くを今に語ってくれている。私は夢中になって、数多の物語に目を走らせていた。
 その最中に中学以来、私は平家物語と出会うことになる。
 平家物語と鷹狩、接点がないように思えるがそれは大間違い。殿下乗合てんがののりあいという大変有名な場面に、鷹狩は大きく関わっているのだ。殿下乗合は当時一三歳で平清盛の息子である平重盛の次男平資盛たいらのすけもりが鷹狩に出かけ、その帰りに摂政(天皇の勅令を受けて政務を執る者)である松殿基房まつどのもとふさの牛車と鉢合わせることで起きる一連の騒動のこと。
 史実とはかなり違うらしいが、平家物語本編だけを要約するとこんな話

鷹狩に出かける資盛一行。
帰りに基房の一行と鉢合わせる。
資盛一行は基房一行に挨拶もせず、馬から降りようともしないで通過しようとした。
基房一行は怒り、資盛たちを馬から引きずり降ろし恥をかかせた。
それを聞いた清盛は部下に命令し報復処置として基房一行を襲撃させ、相手の髷を斬ったり牛車を破損させた。
それを聞いた重盛は怒り、襲撃した者達を勘当+資盛を謹慎にした。
重盛の対応に感心が集まる。


 平氏悪行の始まりとされる大変重要な事件が鷹狩の帰り道に起きていたなんて、正直に驚いた。
 だが、感想は言ってしまえばそれだけ。だって本文には鷹狩に関する模写はほとんどなく、資料優先度的にもそこまで高い評価ではなかったからだ。
 結局この時、私と平家物語の関係はそこまで深くはならなかった。

 しかし面白いことにそれから数年後、再び私はこの事件と向き合うことになる。鷹匠も大学も卒業して、本格的に犬牽研究を行っている時期だったと思う。
 ただしそれはオリジナルの平家物語で、ではない。
 平家物語・・・絵巻でだ。
 『平家物語絵巻』は江戸前期(一六五〇年前後)に描かれたと推測され、元来は越前国福井藩松平家相伝の作品だった。
 現在は林原美術館に所蔵され、更に中央公論社よりカラーコピー本も出版されているので誰でも読むことができる当時の私も、本作とは図書館で偶然出会うことになった。

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 要は平家物語のビジュアル本なわけなので、殿下乗合の場面があれば何かヒントでもあるかな?と手軽に開いたところ心底驚いたのは平家物語の本文以上に鷹狩文化の模写があったことだ。
 そもそも平家物語本文には、クライアントに仕えながら猛禽の訓練及び実際に鷹狩を行う/サポートする〝鷹飼〟(後の鷹匠)については記されていない。
 しかし『平家物語絵巻』には鷹飼達の姿がしっかりと描かれ、専門道具の模写まで抜かりがなかった

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 鷹飼達の腰にはブチと呼ばれる猛禽用の身支度棒(片方は嘴を整える為にブラシ状でもう片方は尖らせ羽を整える際に使用する)が描かれ、猛禽の足に巻いて握ることで逃亡を防ぐ〝足革〟大緒おおをまで描かれている。
 ちなみにそのままページを載せるのはまずいので、必要部分をパートナーに模写してもらった☝本物が見たい人は、図書館か本屋へGOだ。

 平家物語本文に鷹飼の姿が記されなかった理由は、正直よくわからない。しかしそれは、私が鷹狩文化に興味を持つ人間だからこそ生まれる問なのだろう。 
 この世に存在するありとあらゆる表現方法に言えることだが、創作においてこの世のすべてを模写することは不可能だ。 
 だからこそ、そこに作り手の思想=取捨選択/優先順位が発生する。私は、それが悪いことだとは決して思えない。私自体ありとあらゆる事柄に犬牽として向き合う場合、ワザと犬牽の目線から外れる物は削るようにしている。そうすることで犬牽にとって重要な要素を世界から浮上させ、一般大衆が普段は見えていない部分を面前に照らし出すことが出来るからだ。
 それが平家物語でも、アニメ版『平家物語』でも起きただけの話だろう。アニメ版『平家物語』では一話の最後に殿下乗合が描かれる。場面には大鷹も登場するが(しかし『平家物語絵巻』の猛禽は小型で足も細く当時よく飼育されていたはいたかにも見える)足革も大緒も描かれていなかったし、勿論鷹飼の姿もなかった。
  策はまだしも足革は日本最古の詳細な鷹狩文化情報を記した『日本書紀』にてをしかはあしをとして記されているくらい歴史も古く、文化的にも重要な道具だ。
 更に言えば、そもそも足革を付けていない猛禽などすぐに人の手から逃げ出してしまい現実的にえる(拳に乗せること)は不可能なのだが・・・ある意味アニメだから出来る表現とも言えなくはない。 
 疑問を持つ人の割合が少ないか多いか、または他の事物に観客の目線を集中させるために。作り手は現実世界から取捨選択を行い、手のひらに残った欠片を自らの創作世界に落とし込んでいく。まったくもって、そこに問題はない。
 ただ、零れ落ちた欠片にこそ目を向ける者がいることも確かだ。
 例えば、私のように。

 オリジナルの平家物語にもアニメ版『平家物語』からも零れ落ちた欠片がある。『平家物語絵巻』にだけ掬われた欠片、それが鷹犬たかいぬ〝犬飼〟だった。
 鷹犬は鷹狩の最中、獲物である鶉や雉などを発見しては飛び立たせ猛禽に捕えさせる/自ら捕らえることを役割とする犬達のこと。
 犬飼はそんな鷹犬達の食住とトレーニングを請け負う、謂わばドッグトレーナーだ。彼らが江戸時代になると徳川幕府に仕えるようになり、犬牽という名称になる。そう、まさしく犬飼とは私の大先輩にあたる人達というわけだ。
 そんな貴重な先輩達の姿が『平家物語絵巻』には描かれていたのだから、平家物語との距離が近くならないわけがない。これを読んでいる方も、どこか自分と近い存在(職業・年齢・性別・立場)を探して読むと平家物語との距離がグッと変わるはずだ。オススメである。
 
 では、そんな大先輩達の姿をじっくりと見ていこう。
 『平家物語絵巻』に登場する明確に鷹飼とわかる人物は五人だが、一方の犬飼は二人だけ
 そして犬飼は一人につき一牙ひとさび(鷹犬の数え方)しか牽けないので、絵巻には二牙の鷹犬しか登場しない黒い被毛を持つ鷹犬と、白い被毛を持つ鷹犬だ。

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 どちらも首輪と引綱が一体化した、いわゆる現代ではチョークカラーと呼ばれるタイプを首に着けている。わかりやすく説明すれば、腰に装着するベルトを想像してほしい。あれの引っ張り絞める部分が引綱、要はリード部分となっているわけだ。引綱部分は長く、犬飼の手に手繰られた部分を見ても相当の全長を誇ることがわかる。

 殿下乗合の前にあたる鷹狩の場面☝では、本文と模写から推測するに黒い鷹犬も白い鷹犬も獲物である雲雀を追いかけていた。犬飼はその後ろを、引綱を握りながら共に走っている。
 ここからわかるのは、鷹犬に対する犬飼の姿勢だ。
 犬飼が犬の意思や本能を尊重してきたことは、多くの古典小説に記されている。平安時代の『今昔物語集』には獲物を好きに襲わせる犬飼の姿が記され、同じく平安時代の『大鏡』には水嫌いの鷹犬をわざわざ背負って川を渡るベテランの犬飼の姿が記されていた。
 『平家物語絵巻』の犬飼からも、その姿勢は見て取れる。
 そもそも世界に目を向けると、基本的に鷹犬や銃猟犬はノーリードの状態で狩場を歩き回るもの。その方が効率も良いし、人間側の言うことを聞くようにしておけば事故=鷹を襲ったり獲物を横取りされる可能性も低くなるからだ。
 その為に必要なのは、犬をコントロールするという思想と矯正的な訓練に限る。
 しかし多くの犬飼にとって、それは流儀に反する行為だったのだろう。それを示すようにノーリードの訓練自体がやっと犬牽の時代になってから考案されたものの、大きく普及することはなかったようだ。多くの模写において犬牽たちが『平家物語絵巻』の犬飼のように長い引綱を持ち、鷹犬には自由に狩場を歩き回ってもらいながらギリギリのところで制止しトラブルを回避しようとしていたことが読み取れる。それはノーリードの鷹犬の模写数が極端に少ない事と、悲しいかな効率を求められる明治時代になると現場が西洋式のドッグトレーニング+西洋猟犬に切り替わっていったことからも窺い知ることが出来た。ちなみに、犬牽の伝承が打ち切られたのもこの明治時代だ・・・。 

 そんな犬を大切にし過ぎる彼らの姿勢は、犬との出会い方にも表れる。交配するという文化がなかった犬飼と犬牽は、現代の地域猫のように往来で自由に暮らす〝里犬・町犬・村の犬〟と呼ばれる犬たちの中から人間に対して友好的な個体のみを迎え入れていた
 ちなみに『平家物語絵巻』に描かれている鷹犬の尾はどちらも巻いている=巻尾だが、犬牽の時代にはあまり好まれていない。尾は立尾=真っすぐなタイプが好まれたが理由は簡単、犬牽は尾から鷹犬の意思を読み取るので巻かれていると動きが見にくい=判断がしにくいからだ。意思を読み間違えることほど、信頼を失うものはないことを犬牽はよくわかっていたのだろう。
 しかし逆に考えれば、犬飼は犬の尾以外から意思を読む術に長けていたとも考えられる。実際に犬牽も犬の顔や背中の筋肉の動きで意思を判断する方法を記録しているので、過去にはそちらに重点が置かれていた可能性もあるだろう。
 考察が盛り上がってきたが、話を戻して。
 勿論彼らは家に迎え入れてからも、犬を優先する対応を続ける。結果として鷹犬は元来の性格を伸ばして、人に対して更に友好的な存在へとなっていくのだ。
 それを読み取れる模写がいよいよ『平家物語絵巻』の殿下乗合の場面にあった。基房の一行から暴力を受けている人々を尻目に、鷹犬達が駆け出しているのがわかる

殿下乗合

 中でも黒色の被毛を持つ鷹犬は自らの牽前ひきまえ(サポート担当)が掴みかけられているのにも関わらず、自らは既に前方へと駆け出していた。
 そもそも人間から友好的な対応ばかりを受けている鷹犬にとって、暴力的な行為自体がアノマリーなのだろう。
 だからこそ、唸ったり吠えたり飛びかかることなくただ騒ぎから逃げ出そうと駆け出す。
 西洋的な、人の為に戦う犬という要素はそこには見られない。ただ、自分を守ろうと駆け出すのみ。
 自らも戦うことなく共に逃げ出そうとしている犬飼の姿からは、鷹犬を肯定する姿勢を窺い知ることが出来る。立ち止まって戦ってしまえば、鷹犬もその場に留まろうとして巻添えを食う可能性があるからだ。犬飼にとっては鷹犬が乱闘に巻き込まれないこと、それが最も重要なのだから何とか阻止したかったのだろう。

 それにしても、もし私が犬飼としてこの場にいたらと思うと・・・ゾッとする。フィクションの部分が多い話ではあるが、実際にあった事件だと仮定すれば先輩達の心情を思うと気が気ではない。
 もし乱闘に直接、鷹犬が巻き込まれたら?
 鷹犬が蹴られたり、殴られたら?
 一度信頼を失えば、復興にはかなりの時間を有する。
 築き上げた関係の崩壊、そして人間という同種による信条への反抗。
 最悪以外の、何物でもないではないか。
 だからこそ内心、犬飼達は思ったかもしれない。

「・・・資盛も、とっとと降りて挨拶したらいいのに・・・。」

 争いごとになったら、とばっちりを受けるのは犬達ではないかと。
 この内なる声が聞こえたならば、殿下乗合という事件はまったく違う様相を私達に見せるだろう。
 資盛と基房の争いという人間中心的な争い/主義による鷹犬/動物の被害という構図だ。
 ほんの些細な行為が、言動が人間以外に多大なる影響を及ぼすのは現代も変わらない。いや、酷くなっていると言ってもいいだろう。
 だからこそ、私達は過去に学び決める必要性がある。 
 犬飼のクライアントは資盛であり、同時に鷹犬でもあった。
 もう、争いの火蓋は切って落とされた。
 今己がやるべきこと、犬飼の判断は・・・資盛の為に戦うのではなく鷹犬を守る為に逃げること。
 人間中心主義的な争いから、他者/生物の視点に立って共に逃げ出すこと。
 『平家物語絵巻』の鷹犬と犬飼、その最後の判断から私達は今後の世界で必要な姿勢を学ぶことが出来るのかもしれない。
 私達は、どちら側に駆け出すのかと。

 最後に。
 ここからは完全に余談だが、現在私は江戸時代の犬牽を主人公とした史実的な小説を書いている。当時の資料と自身の犬牽としての実務経験を補完し合いながら、そこにあった空気感や事実を出来る限り再現した作品にしたいと筆を取った次第だ。興味がある出版社さん、是非連絡をお待ちしています。
 そしてこの作品が完成した暁には、いつの日か史実に基く犬飼を主役にした小説も書いてみたいと今回のnoteを書きながら強く思った。犬牽以上に資料が少ない犬飼達だが、その歴史・技術・思想を筆に乗せられるのは今のところ私しかいないと思う。
 零れ落ちた欠片、地面の上の落し物に気がつくのはいつも下を見ている犬と、そんな犬を見つめ続けられる人間だけだからだ。
 その欠片から、今を生きる私達が学ぶべきことはきっと星の数以上に存在することだろう。                        

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