#28 京都大学を中退した医学部生が世界一周してみた
登山と亡き人―マレーシア③
ここに着くといよいよ、山に登るんだという意識が脳から頭頂部に近いところまで登ってきていた。
この島では登山に向けてちょっとした用具の調達と、入山料の支払いを含めた、ツアーの手配を行う必要があった。
実はキナバル山一帯というのは、マレーシアの国立公園に指定されており、また世界遺産としても登録されているため、入山が国によって管理されていた。
特に、登山者は必ず中腹にある山小屋に泊まらなければならず、それらを含めてツアー予約というのがほぼ必須の条件となっていた。
「ほぼ」と書いたのは、事前予約無しで入山管理事務所に突撃し、その日の山小屋の予約を勝ち取り、登頂を果たした日本人をぼくが知っているからである。
無論、当時のぼくたちはそんなことも知らず、コタキナバルの市街地で、ふんだんに中間マージンの乗せられたツアーに加入することを余儀なくされていた。
そしてこの時、ぼくは朋也に無理を言って、登山開始日を3月10日か11日に設定していた。
もちろん3月11日というのは、誰にとっても忘れることのできない、東北大震災が発生した日であるが、それと同じ位ぼくにとって、忘れることのできない出来事がある。
2014年3月11日、ぼくの10代最後の数年間を彩った、京都の大先輩が亡くなったのだ。
ぼくにとって、京都での生活は、この人との出会いによって始まった、と言っても過言ではなかった。
東京の高校を卒業したあと、自分の我儘を親に通し、18歳のぼくは京都大学に進学していた。
初めての下宿生活が始まったのだ。
そして人生初めてのアルバイトは、ひとまず繁華街の居酒屋で始めたのだが、これにはあまり馴染めず、すぐに辞めてしまった。
次に応募して採用してもらったのが、その人の経営する祇園の花屋であった。
店頭での販売というよりも、華麗なフラワーアレンジメントを、主に高級クラブへ活け込んだり配達したりすることで売り上げを上げていた花屋だった。
もっとも、応募した当時花にはまったく興味のなかったぼくは、配達ドライバー要員として採用してもらっていた。
そのアルバイト先では、花についてのイロハということや、祇園の細道を効率よく配達するやり方といったこと以上に、大切なことを教えてもらったような気がする。
大学合格が決まって初めて京都に来たとき、ぼくと数人の友達は、とにかく東京から鳴り物入りで乗り込んだつもりだった。
彼らも境遇はぼくと似ていたのだが、中高時代は勉強などしたことがなく、学力は常に最底辺を彷徨っていた。
そんな生徒たちが一念発起をして、高校三年生の一年間だけ必死に勉強したところ、国立大学に受かってしまったのだから、自分を過信してしまってもしようがなかったのかもしれない。
もう自分の人生は安泰だと思っていた。
何をやってもうまくいくと勘違いしていた。
続く
第1話はこちら
https://note.mu/yamaikun/n/n8157184c5dc1
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?